第4章  1963年 - すべての始まり 〜 8 智子の両親(5)

 8 智子の両親(5)

 



 だから剛志は仕方なく、起こさぬようにしてリビングを出た。それから家政婦に声がけしようと、長い廊下に立って「家政婦さん」と呼んでみる。

 ところが一向に返事は返らず、代わりに妙な物音が耳に届いた。

 見れば奥にある扉が開けっぱなしで、そこから聞きなれない音が響いている。さらに耳をすませば、物音に交じって唸り声のようなものまで聞こえてくるのだ。

 動物でも飼ってるのか? 一瞬そう思うが、決して犬猫の鳴き声なんかじゃない。

 ただ少なくとも、扉が開いているからには、そこに家政婦がいるのだろう。そう思うまま扉に近づき、彼は開け放たれた扉の先を覗き込んだ。

 ――ああ、やっぱり、ここにいたんだ。

 最初、目に飛び込んだのは、やはりさっき目にした家政婦の背中だ。その奥側にももう一人いて、同時に視界の隅に見知った顔が映り込んだ。

 その瞬間、剛志の心はあっという間に凍りつく。

 声をかけることも忘れ去り、ただただ目の前の光景に釘付けとなった。

 ずいぶん、変わり果ててしまっていたのだ。一見すると別人のようだが、それでもそれは、紛れもなく智子の母、佐智の顔だった。

 ベッドに寝かされ、家政婦が細長い管を彼女の口へ押し込んでいる。

 きっと、相当苦しいのだろう。さっきの唸り声こそ佐智のもので、もう一人が彼女の両腕をしっかり押さえ込んでいた。

 少なくとも片方は、きっと本当の家政婦じゃない。

 漠然とそんなことを考えながら、しばらく部屋の入り口からその様子を見守った。やがて喉から管が外され、と同時に佐智の呻き声もピタッと止まる。そうしてようやく、二人は入り口に立っている剛志のことにも気がついた。

 喉に詰まった痰を、取って差し上げてました……。

 そう言ってきたのは、やはり正真正銘の看護婦だ。

「ただここでは、二人とも家政婦ということになっていますから……」

 だから余計なことは口にするなと、無表情のままそんな意味合いを匂わせる。

 桐島佐智が、恍惚の人になっていた。

 恍惚の人――確か作者は有吉佐和子だったか……。

 剛志が就職してしばらくした頃、母恵子が真剣に読んでいたのを覚えていた。

 ドラマにもなったから剛志もストーリーは知っていて、痴呆の進んだ主人公があれ以降も生き続けていれば、いつの日かこの佐智のようになったのだろうか?

 声をかけても返事はなくて、もちろん話などできるはずがない。起きていることすべてを理解せずに、寝たきりで、時に探し物でもするように両腕だけを動かしたりする。

 歩けなくなってから、ここまではあっという間のことだったらしい。

「娘さんが行方知れずになる前から、きっと、徴候くらいはあったんだと思います……」

 さらにこんなことを告げられて、

 ――神に誓って、兆候なんかなかったさ……。

 心だけで、剛志はそう言い返すのだ。

 それからすぐに、勇蔵が寝てしまったと告げて、彼は逃げるように智子の家を後にした。

 外はまだまだ明るかったが、時刻は夕方五時を過ぎている。いつもならとっくに児玉亭にいる時間だが、どうにもそんな気分にぜんぜんなれない。

 もちろん、智子の母親のことも影響していた。ショックだったし、智子が知れば剛志以上に苦しむだろう。

 ただこの時、剛志の心を覆っていたのは、勇蔵が語った驚きの真実に他ならない。

 きっと彼は途中から、話している相手さえ理解していなかった。でなければ赤の他人に話すはずはないし、話したところで意味があるとも思えない。

 ただなんにせよ、それは本当にあった過去の事実であるのだろう。そしてほんの一部に過ぎないが、正真正銘、智子の人生でもあった。

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