第3章  1983年 プラス20 – 始まりから20年後 〜 2 再会

 2 再会

 



 ――確か、ポットにお湯が入っていたはずだ。

 部屋の隅に置かれていた魔法瓶を思い出し、剛志は慌てて声をあげた。

「お茶を淹れます。だからまず、そこに見える離れまで来てください。大丈夫、大丈夫ですからね……」

 そうは言ってみたものの、何が大丈夫なんだと問われれば、剛志に答えなど返せない。

 最初、その顔が目に入った瞬間、思わず声をあげそうになった。良かった! だったか……? もしかしたら、その名を叫ぼうとしたのかもしれない。

 しかしすぐに、事はそう単純ではないと気がついたのだ。

 だから一度は、その身を隠そうとまで考える。

 それは、剛志の立つすぐ目の前だった。

 さっきまで揺れていた空間に、いきなり細長い扉のようなものが現れた。銀色に輝く金属のようで、そんなものがなんの支えもなくポッカリ宙に浮かんでいる。

 ところが次の瞬間だ。それがとつぜん形を変えた。

 硬い扉のようだったそれが、驚くなかれ、一気にまあるく膨らんだのだ。さらに膨らんだところが細長く伸びて、それが地面に向かって一直線だ。あっという間に地面へと続くスロープとなり、よくよく見れば、階段らしき段差までが見える。

 ――……ってことは、まさか、誰かが下りてくる?

 そんな思いと同時に見上げれば、銀色の扉は消え去って、あった形そのままポッカリ穴が空いている。扉だったものが階段へと変化して、消え去った扉の奥から別の空間が姿を見せた。

 きっと今にも、そこから何かが下りてくる。そんな恐怖に震え上がって、思わず二、三歩後ろに飛び退いたのだ。するとその時、意味不明の空間から何かがヒョコッと顔を出した。

 その瞬間、剛志の驚きは尋常じゃなかった。

 電気ショックを受けたように、数秒間息が吸えずに吐くこともできない。

 だいたい、普通あり得ないのだ。何もない空間を切り裂くように穴が開いて、そこから人らしき影が現れる。さらにもし、そんなのが階段を下り始めたら……?

 ――どうする? このまま離れまで一気に走るか?

 そんな一瞬の迷いの中、現れ出た人物が階段に足をかけ、ようやくその顔にも光が当たる。

 その時、自分が狂ってしまったと素直に思った。

 あり得ない! あり得ない! あり得ない! と三度念じて、もう一回は声にして「あり得ない……」と呟いたと思う。目にしているものが信じられず、呆然とその姿に目を向けていた。

 そんな状態の彼に向け、まさに衝撃というべき声がかかる。

「あの……すみません……」

 たったこれだけで、すべての疑念は消え去ってしまった。見間違いでもなんでもない。それは記憶にある声そのもので、彼を見つめる顔にしたっておんなじだ。

「あの、ここっていったい……あ、火事は? あの、伊藤さん、いえ、背の高い男性が、この辺にいませんでしたか?」

 混乱する途切れ途切れの声が、記憶の奥底にあったまま再び響いた。緩やかなスロープの真ん中辺りに立って、その顔はいくぶん上気したように赤らんで見える。

 もう、どうあったって疑いようがなかった。大きな瞳をこぼれんばかりに見開いて、あの頃と変わらぬ姿がそこにはあった。

 ――智子……。

 何度も脳裏でその名を呼びかけ、ついつい声にしてしまいそうになる。が、そのたびに、喉元奥へと必死になって押し戻した。そしてこの時、剛志の顔はきっと普通ではなかったはずだ。

 だからきっと、そのせいだろう。

「あの、わたし……」

 不安げにそう呟くと、彼女は急に押し黙ってしまった。

 剛志から視線を外し、庭園の端から端まで目を向けていく。そうしてひと通り見やってから、再び残りの階段を一歩一歩下り始めるのだ。

 やがて地面に下り立ち、剛志に向けて今さらながら頭を垂れる。さらにさっきとは段違いに落ち着いた声で、智子であろう少女は剛志に向けて聞いたのだ。

「あの、すみません……ここはいったい、どこなんでしょうか?」

 しっかり剛志の目を見据え、不安な気持ちを悟られまいとしているのだろうか? その顔にはうっすら微笑みさえ浮かんでいる。そんな顔に見つめられ、

 ――どこって……?

 とっさに、そう言葉にしたつもりだった。ところが喉元からは、かすれた声と吐息だけ。言葉になるにはあまりに力ないものだ。 

 それでもそんな剛志の反応に、彼女もきっと少しは安心したのだろう。

 さらにしっかりした口調になって、

「ついさっきまで、伊藤さんという方と一緒だったんです。すごく背の高い男性なんですが、ご存じ、ありませんか?」

 と、左右をチラチラ見ながらそんなことを聞いてきた。

 本当なら、伊藤は死んだ……そう答えてやればいい。しかしあまりに突飛な現実に、そう声にできるほど剛志の神経は図太くはなかった。

 さっき、彼女は言ったのだ。

 つい今まで伊藤と一緒で、火事はどうなったかと聞いてきた。

 正真正銘、智子であるなら、彼女は剛志とおんなじ三十六歳。

 なのに彼女はあの頃の……まさに十六だった桐島智子そのものなのだ。

「あの、あなたは……?」とだけ声にする。

「あ、すみません、桐島智子と申します。勝手にお庭に入ってしまって、でも、わたしもどうして、こんなところにいるのかわからなくて……」

 そう言いながら、智子であろう少女はペコンと頭を下げるのだ。

 とにかくこの段階で、疑う余地など微塵もなかった。

 こんなことが現実に、あっていいかどうかは別としてだ。目の前の少女こそ、剛志の知っていた桐島智子に違いない。であるなら、すぐに何か言わなければ……。そう思えば思うほど、この場に見合う言葉がまったくもって出てこなかった。

 そのうちに、智子の顔がどんどん不安げになっていく。

 智子が俺を、怖がっている? そんな印象に慌てまくって、大丈夫! とかなんとか剛志は言いかけ、思わず足を一歩だけ踏み出した。もちろん威嚇しようなんて気はなかったし、何か言わねばという焦りがそんな形で出ただけだ。

 だがその時、彼女はそうは思わない。

 いきなり、「失礼します!」とだけ声にして、クルッと背を向け走り出そうとするのだった。

 ところがすぐに、片方の脚がカクンと崩れる。そのまま倒れ込むようにして、彼女はその場にしゃがみ込んでしまった。

 剛志はとっさに大声をあげ、

「剛志! 児玉剛志を知っている!」

 思わずそう叫んでから、心で力いっぱい念じ続けた。

 ――俺だよ! 俺が剛志だよ!

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