第1章   1963年 すべての始まり 〜 5 昭和三十八年 三月九日 火事(2)

 5 昭和三十八年 三月九日 火事(2)

 


 その時とっさに、智子の方は塀を乗り越えるのを諦める。

 彼の身長だからこその不法侵入で、彼女にとっては難攻不落そのものなのだ。だからそのまま壁伝いに走って、門の前まで来て立ち止まる。

 ――チャイムを鳴らす?

 ――で、いったいどう伝えればいい?

 きっと説明なんかしている間に、彼はどこかへ消え去ってしまう。そう思った次の瞬間、智子は門を開けていた。他人の家に入り込み、塀の内側を必死に走った。いつ呼び止められるかとヒヤヒヤしたが、伊藤が降り立った辺りにあっという間に到着する。

 ――やっぱり、そうなんだ……。

 そこから伊藤の姿に目を向けて、彼の目指す先をはっきり知った。

 そこはとにかくだだっ広い庭で、五十メートルはあろうかという前方に、ヨタヨタと走る伊藤の姿がまだあった。彼の向かう先にも同じような塀が張り巡らされ、その上からあの林であろう木々が伸びていた。そんな一瞬の認知の後、智子は再び走り始める。

 ちょっと待ってよ! 何度も心でそう叫び、庭の真ん中を必死になって追いかけた。

 そうして奥の塀に到着した時、伊藤はすでに塀の向こう側に飛び下りた後だった。

 さらにそこからが大問題。どう頑張ったって塀の天辺には上れない。どこかに脚立なんかが置かれてないか? そう思って見回すと、すぐに使えそうなものが目に飛び込んだ。木製の丸テーブルと頑丈そうな幾つかの椅子で、芝の上になんとも無造作に放り置かれている。

 ――すみません! ちょっとお借りします!

 家人に向かってそう念じ、智子は丸テーブルを塀のそばまで引きずった。

 水を吸ったテーブルは氷のようで、さらに想像以上に重いのだ。指先の感覚があっという間になくなる。それでも必死に塀にぴったり押しつけて、智子はその上に乗っかった。

 悪戦苦闘の末、なんとか塀の向こう側へ降り立つことができる。セーターは汚れ、手にある風呂敷包みも解けてしまった。包んでいた容器がどこにもなくて、きっと今も、塀の向こう側に転がっているのだろう。

 それでも取りに戻ろうなんて思わない。もちろん思ったところでどうしようもないが、そんなことより大事なことが今の智子には他にある。

 今、目の前には林が広がっていて、道らしき一本の筋が林の奥へと続いている。

 小さい頃から知っていた林だが、実は思っていた以上に奥が深く、建ち並ぶ家々の裏側にまで続いていたらしい。

 そしてもし、今が真夏だったなら、足を踏み入れることに相当躊躇しただろう。

 しかしこの時期、落ち葉のおかげで見通しがよく、大嫌いな虫たちだって眠りこけているはずだ。だから智子は迷うことなく林の奥へと進んでいった。微かに焦げたニオイはするものの、まるで火事だなんて感じられない。ところが霧雨の中を進むうち、時折ムッとする熱気を感じるようになった。さらに進むと、あるところでいきなり周りの空気が変化する。

 見回せば、遠くが赤く染まって、辺りがうっすら霞んで見えた。

 ――こんな日に、どうして燃えたりしたんだろう?

 そんな疑問とほぼ同時、降って湧いたように恐怖心が湧き上がる。このまま進んで大丈夫だろうか? そう思った次の瞬間、木々の間、右方向で何かが動いた。

 ――伊藤さん?

 そう思って目を向けると、太い木々の奥の方に広場のような空間が見える。

 智子はそこで初めて道から外れ、先にある空間目指して木々の間に入り込んだ。

 すると二、三メートル進んだだけで、一気に前方がひらけてくれる。まさに空き地というべき空間が、いきなり目の前に現れたのだ。

 そこだけ草が生えておらず、そんなのを取り囲むように太い木々が連なっている。

 そしてその中心に、なんと伊藤が立っていた。さっきまでの慌てた様子は消え失せて、智子に背を向け、ジッとしたまま動かない。

「あ、伊藤さん!」と叫ぼうとして、智子は思わず足を二、三歩踏み出した。

 ところが靴底がツルっと滑って、後ろへひっくり返りながらの声となる。

 それでもやっぱり、「伊藤さん!」と呼べたのか?

 はたまた、意味不明の叫びに過ぎなかったか?

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