第1章   1963年 すべての始まり 〜 4 一条八重(3)

 4 一条八重(3)

 

 

 それから埃一つない畳にさっさと腰を下ろして、

「ほら、急坂上がって右にずっと行くとさ、あるじゃない? 木がいっぱい生えてて、ちょっとした森みたいなところ。あんなところに、伊藤さん行ったりしないよねぇ~」

 真剣な顔を伊藤に向けて、智子はそんな質問を投げかける。

 すると伊藤はチラッとだけ視線を合わせ、小さくコクンと頷いた。

「そうだよねぇ、でもさ、見たって人がいるのよ。だいたいさ、伊藤さんみたいに背のおっきい人そうそういないわ。だから普通は、見間違えたりしないと思うのよ……」

 そんな言葉に、「だからなんだ?」なんて顔をして、伊藤はいきなりソッポを向いた。

 政治や経済の話は楽しそうにするくせに、こんな場面ではいつも決まって口が重い。ところが彼はこの日に限って、別人のようにいろんなことを話し出すのだ。

「もしかして伊藤さん、もしかしてよ……人に知られたくないような何かを、あの林に隠してたりなんかする?」

 冗談っぽい感じでそう言って、智子が伊藤の顔を覗き込もうとした時だった。

 あらぬ方を向いていた彼が、いきなり智子の方を振り向いた。それからさっさと智子の前に腰を下ろし、薄ら笑いを浮かべて言ってくる。

「そう言えば、智子は知ってるのか? 今度のオリンピックが中止になっちゃうって」

 まるで見当違いなそんな話に、智子は思わず飛び上がるくらいに驚いた。

「ちょっと待ってよ! 伊藤さん! それってホントのことなの?」

 智子がびっくりするのも無理はない。

 1940年、昭和十五年開催予定だった東京オリンピックは、支那事変の影響で1938年の七月に中止と決まった。それから二十五年後、一度は完膚なきまでに破壊し尽くされた東京で、再びオリンピックが開かれようとしているのだ。

 翌年、1964年に開催予定である祭典は、まさしく日本人の悲願であり、有色人種国家として初めての開催となるはずだった。勇蔵からもさんざんそんな話を聞かされていたし、そうでなくても夢にまで見たオリンピックだ。それが突然中止と聞いて、あまりのショックに目頭までが熱くなる。そんな様子に、伊藤が慌てるようにさらに言った。

「おいおい大丈夫だよ、智子ならさ、次のオリンピックだって観ることができるから」

 ――なんで、そんなことが言えるのよ!

 とっさにそんな台詞が頭に浮かんだ。が、それを口にする前に伊藤の言葉がさらに続いた。

「まあ残念だけど、とにかく今年の七月にね、今度のオリンピックは中止が決定する。だけど智子の年齢なら、あと二回は東京でのオリンピックが観られるはずさ。日本ではその後も二回開かれるけど、それはさすがに、生きて目にするのは難しいだろうな……」

 智子が死んだ後のオリンピックは、二回とも東京開催ではないんだと彼は言った。

 その頃には驚くようなスピード列車が日本中を結んでいて、資金の問題などもひっくるめ、東京でなければならない理由はなくなっている。そんなことを話す彼は笑顔だったが、果たして冗談を言っているようにはまるで見えない。

 ただとにかく、あまりに突飛な話で何がなんだかわからなかった。

 だからそんな気持ちを素直に声にしよう思ったのだ。

 ――ちょっと、いったい何を言ってるの?

 まさにそう言いかけた時、伊藤の顔つきが一気に変わった。

 それまでの雰囲気を消し去って、真剣そのものといった表情になる。そうしてその時、伊藤は口元に人差し指を当てながら、いかにもといった感じで静かな声を出したのだった。

「いいかい……今から言うことは、けっして誰にも言っちゃいけないよ……」

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