第1章  1963年 すべての始まり 〜 4 一条八重(2)

 4 一条八重(2)

 


「きっとさ、実家とかが、この辺にあるんじゃないのかな?」

「それはないの! 本人がラジオで言ってるんだから。東京の空襲で、家も何もかも失ったってね……だから、そんなこと絶対にないわ」

 一条八重のような有名人が、どうしてこんな東京の外れを歩いていたか?

 表に出た途端の問いかけに、剛志は思ったままを素直に返した。ところが智子は速攻剛志の意見を吐き捨てる。

「とにかくね、あんな有名人が一人で出歩くなんておかしいわ! それに剛志くんは知らないらしいけど、今、週刊誌とか、一条八重のことで大騒ぎなんだから……」

 さらにそう言った後、何も、知らないのね――そんな感じで剛志の顔を睨みつけた。

 一条八重……当然本名ではないだろうが、智子は占い師である彼女の大ファンなのだ。

 戦後、間もなく発生した福井地震を予言して、一条八重は見事に的中させている。そこから新聞や雑誌にエッセイなどが連載されて、女性を中心にみるみる人気が出たのだった。さらにテレビが普及し始めると、彼女の美しさに男性ファンも一気に増える。

 実際に、地震以外でも彼女の予言はけっこう当たった。

 テレビは一家に一台になって、総天然色のテレビだっていずれ夢ではなくなっている。

 ただの白黒テレビ一台が、会社員年収の何倍もする時代に、ラジオでのそんな発言を信じる者などいなかった。ただ、そんな時代がくればどんなにいいかと、人々は彼女の話を夢物語として楽しんだのだ。

 ところが智子が中学に上がる頃には、そんなのが現実として想像できるようになる。

 もともと彼女の話題は生活に根ざしたものばかりで、女性はこぞって八重のラジオに夢中になった。もちろん智子も同様だ。女性誌に一条八重が掲載されれば、何を差し置いても〝貸本屋〟に駆けつける。親に見つからないよう雑誌をソッと持ち帰り、彼女のページを、目を皿のようにして読み返した。そうしていつしか、八重が身につけているような洋服を、自分の手で作ってみたいと考えるようになっていた。

 ところがここ数年、一条八重の露出が激減。人気が衰えたわけではけっしてない。

なのに長年続いたラジオ番組が終了し、テレビや雑誌にも滅多に出てこなくなる。さらに昭和三十八年を迎えてからは、彼女の姿はメディアから完全に消え去ってしまった。

 一条八重は、いったいどこに消えたのか!?

 世間はそんな話題で大騒ぎだと、剛志は智子に聞いて初めて知った。

「まあ、週刊誌がいくら騒いだっていいけど、あんないい年した男どもがさ、わざわざ話題にする話じゃねえよな。まったく、毎晩毎晩、飽きもせず飲んだくれてさ、あんなのが支払った金で暮らしてると思うと、ホント俺、心底嫌になっちゃうぜ……」

「どうして? みんないい人ばかりじゃない。それに、剛志くんだってお店継ぐ気なんでしょ? だったら、剛志くんにとっても、大事なお客さんだってことになるわ……」

 ――ね、そうでしょ?

 という顔を剛志の眼前に突き出してから、智子はさっさと彼の前を歩き出してしまった。

 ずいぶん前から、剛志は店の常連客をなぜか相当嫌っている。どうしてそうなったのか? 智子も尋ねたことはあるのだが、はっきりした理由を教えてくれない。

 実のところ、彼は父親のこともよくは思っていないのだ。もしかしたらそんな感情が勢い余って、正一が大事にしている客にまで及んでいるのかもしれなかった。

 剛志はその日、結局智子を家の前まで送っていった。

 そして彼の背中を見送って、智子が玄関扉を開けた途端だ。

「あら、ちょうどよかったわあ~」

 なんて声が目の前から響いて、見れば母、佐智が何かを抱えて立っている。

「はい、そのまま、これをお願いね」

 佐智はたったそれだけ言って、手にしていたものを智子に向けて差し出した。

 それはきっと、野菜盛りだくさんの焼きそばか? あるいはもうすぐひな祭りだから、

 ――普段よりちょっとだけ豪勢な、ちらし寿司、ってとこかしら?

 なんてことを一瞬だけ思う。しかし風呂敷で包まれた大皿からは、少なくともソースの香りは感じられない。ただ、どっちにせよだ。

 ――はいはい、わかりましたよ。

 こんなリアクションを思った頃には、佐智は長い廊下の先にいる。

となれば、たった今上ったばかりの急坂を下って、今から伊藤のアパートまで行かねばならない。そしてもしもその途中、急坂を下らずにまっすぐ行けば、児玉亭で話題になっていた林へ続く道に出る。

 もちろん伊藤が脱獄犯で、死体が埋まっているなんてまるで信じていなかった。

それでも彼については当初から、何かにつけて不思議に思うことが多かったのだ。

 ――本当に、いったい何をしていた人なんだろう……?

 アパートに住み始めたばかりの頃などは、木造アパートがミシッと鳴っただけで死にそうな顔をする。前の通りをダンプカーが通ろうものなら、古いアパートはガタガタッと揺れて、彼は恐ろしさのあまり畳に這いつくばってしまうのだ。

 さらに面倒だったのは、理解に苦しむくらいの潔癖性だ。佐智がこしらえたコロッケや蒸かし芋などを、智子が新聞紙に包んで伊藤のところへ届けに行くと、

「君は、口に入れるものを、そんなものに包んで平気なのか?」

 どんな不潔な人物が、その新聞に触れていたかわからない――と嘆いて、まさに苦みばしった顔をした。一事が万事こんな感じで、最初は本当に驚くことが多かった。

 ――この人は、これまでどんな生活をしていたの?

 そんな疑問を抱え込んだまま、いきなり飛び込んだのが児玉亭でのあの話。

 もし本当に、記憶喪失というのが嘘だったら……?

 ――バカバカしい! ものすごい熱だったのよ!

 ――倒れちゃうくらいの状態で、嘘なんかつけるわけないじゃない!?

 一般常識を知らなかったり、一方で物知りだなんてとても演技とは思えない。嘘ならば、もっと上手いつき方があるはずだと納得し、智子はアパートの階段を勢いよく駆け上がったのだ。

 仕事中だからと迷惑顔の伊藤に構わず、それからズケズケ部屋の中にも入り込む。

「ねえ、伊藤さん、最近さ、丘向こうにある林に行ったりするの?」

 そんなことを言いながら、立ったままの伊藤に風呂敷包みを突き出した。

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