第4章 ぼくは
玲が向かったのは研究所だった。
「……」
「……あの、兄さん?」
研究所の中を注意深く覗いている玲に、湊は戸惑って声をかけた。
「何を、」
「……入って」
研究所には誰もいなかった。
玲は湊を診察室の机の下に隠れさせると部屋の電気を消した。
「に、兄さん?」
「ここに隠れて。しばらくしたら父さんたちが来る。声を上げないでじっとしているんだ。絶対に見つからないように」
「見つからないように?何で……」
「知りたいんでしょ?」
机の下から出ようとする湊を押さえつけ、玲は言った。
「……それなら、ぼくが良いと言うまでここにいて」
有無を言わせない玲の剣幕に、湊は息を飲む。
「……わかりました。隠れていればいいんですね」
湊がそう答えると、玲は頷いた。
そして立ち上がり部屋を出ようとして、玲は足を止めた。
「……あのさ」
「はい?」
「……君は……」
迷うように口を開いたり閉じたりする玲を、湊はキョトンと見上げた。
「……いや、何でもない。気をつけてね」
今度こそ玲は部屋を出て行った。
……兄さんは何を言おうとしたんだろう。
後でそれも聞けるかな?
湊は言われた通りじっとしていた。少しでも動いたら音が鳴ってしまうかもしれないから、身動ぎひとつしなかった。
隠れてからどれくらい時間が経っただろう。
窓から差し込む光の角度が上がり再び下がってきた頃。ドアが開く音がして隣の研究室の電気がパッと点いた。
「ふう」
栄一郎だ。座ったようでイスがきしむ音が聞こえる。
そういえばずっと前に診察室と研究所の間の壁は薄いのだと栄一郎が言っていた気がする。おかげで音が丸聞こえだ。
カタカタとキーボードを打つ栄一郎は湊に気づいていないようで。湊は緊張でどうかなりそうだった。
再び研究所のドアが開く音がする。
「おつかれさま」
「ああ、おつかれ。悪いな呼び出して」
いいわよ、と声が返した。
「それで、話って?」
イスを引いた藍子は栄一郎に聞く。
「さっき玲に会ってな。一度お前と情報を共有しておいた方がいいと」
「何かあったの?」
「湊のことだ」
ぼく……?
突然名前を出され、湊は戸惑った。
「湊がどうかしたの?」
それからすぐにハッと息を呑む気配。
「……まさか、不具合でも……」
「いや、そうじゃない。むしろいい傾向なんだよ」
藍子を安心させるかのようにゆっくりと栄一郎が告げる。
不具合? 傾向? 何のことだろう。
理解できない湊を置いて、話はどんどん進んでいく。
「……湊に、“心”ができたかもしれない」
栄一郎の言葉に藍子がガタッと椅子を鳴らした。
「それは本当なのっ?」
興奮したように声を大きくする。
「一週間前くらいからまさかとは感じていたが、こんなにも早く完成するとは予想外だったな。前回は全然進歩しなかったし、てっきりあと数年はかかると思っていたから」
「すごいじゃない! そう……“心”が……」
やっと、と藍子が呟くのが聞こえる。
「やっと……」
藍子が歓喜で満ちた声で笑った。
「やっと、完全に“あの子”になってくれるのね」
「ああ……ニ年、待ったかいがあった」
どういうこと?
湊は訳がわからず眉をしかめた。
心なんて、ぼくはもともとあるのに。
完成って何だろう? 前回って何だろう? “あの子”って誰だろう?
……ニ年待ったって、ぼくの事故があった年だ。
あの時から何かを待っていたの?
ぼくは春に目を覚ましたのに?
湊はニ人の様子に違和感を覚えた。
なぜそう思ったのかはわからない。
でも……
今のニ人の会話は、まるで研究をしている時みたいだ。
目が覚めてから何回か見たことがある。ニ人が研究結果について議論しているところを。話し合っているところを。その時と同じような印象を受ける。
それこそ……試作品のロボットを、試している時みたいな……
「藍子。明日、試してみようと思う」
「っ……!」
試す?
一気に緊迫した空気が伝わってきた。
「心配するな。湊の人格を読み込むだけだからニ、三日で終わる」
「……ええ、わかっているわ」
不安。藍子はそんな様子だった。
「でも、いざとなると怖いのよ……またあの子を失ってしまいそうで」
「……藍子」
ダメねぇと藍子は笑った。
そんな妻に栄一郎は安心させるように言った。
「大丈夫だ。ニ年前のあの時……湊を死んでから、私たちはずっと研究を進めてきた。失敗もあったけど今回は違う。人格も完成しようとしている」
え?
湊は自分の耳を疑った。
……ぼくが……死ん、だ……?
どういう、こと?
ぼくは生きて……
[不慮な事故、自動車にはねられ男児死亡――]
昨日見た記事が湊の脳裏に浮かんだ。
似てる。湊はそう思った。
でも自分は生きているから別の事故だ。そう思った。
はっと湊は小さく息をついた。
何を考えているんだろう?
そんなことないってわかってるのに。
栄一郎たちは何を話しているのだろう。
湊は笑おうとしたが、なぜか体が震えてしまった。
「私たちはもうニ度と湊を失わないように努力してきた。それは無駄じゃなかったんだ」
「週に一度のメンテは? あれはどうにかできないのかしら?」
「まだ塗装がイマイチでな……水に溶けてしまうんだよ。万が一湊が水を被ったら大変になる」
「それは大丈夫よ。水も鏡もあの子の傍には置いていないわ。それに情報も入力してないじゃない」
メンテ?
ぼくが受けているのは診察だよ。
塗装?
人間に塗装もなにもないじゃないか。
水? 鏡?
そんなの聞いたこともないよ。
……ねえ、何を話してるの、父さん母さん。
どうして……?
「まあ今のところ体も正常に動いてるしな。問題ないだろう」
何で、そんな……
「メンテの回数も減らせるよう、湊の外見の再現にもこれからは力を入れようと思う」
ぼくが……まるで……
「私は人格を入れるのに必要な湊の情報を、玲たちにも協力してもらって集めるわ。今は基本情報しか入っていないもの。明日には終わらせるわね」
「ああ、頼んだ」
まるで……ぼくがロボットみたいに話すの?
パタンと研究所の扉が閉まる音がした。
おかしいよ、何を言ってるの?
兄さんは何でこの話を聞かせたかったの?
ぼくは、皆が何を隠しているかが知りたいだけで。
こんな冗談を聞きにきたんじゃないのに。
湊はなぜか震える自分の手を見下ろした。
ニ人が出ていった研究所は静かで、冷たくて。
湊は動けなかった。
「……これでわかった?」
「っ……!」
突然暗闇から声がして、湊はビクッと顔を向ける。
玲だ。暗くてその表情は湊には見えなかった。
「……わからないよ。父さんたちは……何を話してたの?」
机の下から湊は玲を見上げた。
「父さんたち、変だったよ。ぼくのこと、不具合とかメンテとか、ロボットみたいに言うんだ。おかしいよね」
湊の口からハハッと乾いた声が漏れる。
よくわからないけれど、湊は玲に笑い飛ばしてほしかった。
……そんなわけないと言ってほしかった。
何でそう思ったかもわからない。自分がどんな表情をしているのかもわからない。
ただ玲を見上げて。
それくらい、湊は変だった。
「おかしいよね、兄さん。ぼくはここにいるのにね。父さんたち頭でも打って、」
「事実だよ」
言葉を遮った玲がしゃがみこみ、湊と目線を合わせる。
「全部事実だ」
「……え?」
兄さんまで何を言ってるの、と湊は笑おうとした。
けれど玲の真剣な表情に、中途半端に口角を上げたまま湊は固まった。
「君は湊じゃない」
湊じゃ、ない?
ぼくは湊だよ、兄さん。何言ってるの?
「本当の湊は―――」
湊は玲の瞳が急に冷えたように感じた。
「――あの事故で死んだんだ」
スウッと室内が冷えていく。
……死ん、だ……?
「で、でも、ぼくは……」
「君はロボットだ。父さんと母さんが現実から目を背けるために作った、ロボットなんだよ」
ロボット……?
湊は理解できず呆然と玲を見返した。
「父さんたちは、湊が死んだことを受け入れられなかった。それで湊を“復活”させるために君を作ったんだ」
「……ふっ、か、つ……?」
「湊の人格や外見。全てをロボットに入力して、湊にしようとしてるんだよ」
湊にしようとしている?
「……ち、がう……」
そんなわけない。
「ぼく、は……」
そんな必要ないじゃないか。
「……藤ケ谷、湊、で……」
死んでなんかない。
「生き、てる……のに……」
「そういう設定を埋め込まれただけだ」
どうにか逃げようとする湊に玲が容赦なく突き放すように言った。
「君は湊じゃない。ロボットだ。だから飲食もしないし、決まった話し方しかできない」
決まった話し方?
『いつもはありがとうございますだったろ?』
違う。ぼくは……何で、だろう?
「事故の記事を見て、自分のことだと気づかなかった? 似すぎてるって思わなかった?」
「っ……で、でも、日付も場所も違っ……」
あれ?
ぼくが事故に遭った日は……いつ、だっけ?
ここは? 県名も、市の名前も……知らない。
言葉を失った湊に、玲は一言だろうね、とだけ言った。
「父さんたちにとって事故は思い出したくもない出来事だ。それを君に教えるわけがない」
違う。そう思うのに湊は何も言えなかった。
苦しい。
聞きたくない。
信じたくない。
兄さんは何でそんな変なことを言うの?
兄さんは何でそんな話を信じてるの?
……兄さんは、どうしてそんなに冷たい目でぼくを見るの?
「君はね」
玲の表情が、湊を見下ろしていた朔と重なって……
「――僕の弟なんかじゃないんだよ」
湊から全ての感覚が遠のいていった。
ただ、目の前の玲の瞳から目がはなせなかった。
責めるような。
叫んでいるような。
泣いているような。
苦しんでいるような。
……軽蔑と嫌悪の混ざった目。
大好きな、優しい兄はもういなかった。
「っ……!」
嫌だ。
湊は机の下から飛び出すと、その勢いのまま研究所を出た。
嫌だ。嫌だ。嫌だ!
ぼくはロボットなんかじゃない。湊だ。
めちゃくちゃに廊下を走りながら、湊は首を振った。
違う。ぼくは生きてる!
どうして皆ぼくを否定するの?
どうして家族じゃないなんて言うの?
ぼくは朔の兄で、兄さんの弟なのに。
兄さんまでぼくを否定するの?
兄さんまで……あんな目でぼくを見るの?
湊の後方からは玲が追いかけて来る足音が響いていた。
……もう見たくない。あんな目で兄さんに見られたくない。嫌だ。
湊は走るスピードを速めた。
けれど足がもつれてよろめいてしまう。
支えようと近くのドアに手をついた湊は、そこがあの青い部屋だと気づいた。
「っ……」
嫌だ、来ないで。
……もうこれ以上嫌われたくない!
咄嗟に湊は部屋に入りドアを閉めた。
走ったのは大した距離じゃないはずなのに、湊はフラフラだった。
そのせいか、自分の体が震えているように見える。
よろよろと数歩進むと、足に変な感触を感じ……気づけば湊は顔面から派手に転んでいた。
ゴンと嫌な音が響く。
起き上がろうと湊が床に手をつけば、液体がヌルッと湊の手に纏わり付いた。
……何、これ。
床一面に液体が広がっていた。転んだことで身体中にも纏わり付いている。
奥にある大きな箱から漏れているらしい。床にはいくつかの穴があいている。
この部屋は……?
湊はゆっくりと起き上がり、初めて見る部屋に状況も忘れて困惑した。
「ああ、朔!」
ドアの向こうから玲の声がして、湊はビクッと振り返った。
「兄さん?そんな急いで何してんの?」
朔だ。
自分には決してしない優しい声色。
……兄さんのことは、兄さんって呼ぶんだ……
湊はぼんやりと考えた。
ぼくのことは呼んでくれないのに。
「朔、“あれ”見なかった?」
「は? ……見てねぇよ、あんなの」
「そっか」
“あれ”?
……そっか。
兄さんも、ぼくのこと呼んでくれないんだ。
湊はなんだか笑えてきた。
考えてみれば、朔はもちろん玲でさえ。
“湊”と名前で呼んでくれたことはない。
ひどい話だ。
ぼくはロボットじゃないって言ってるのに。
誰も信じてくれない。誰も聞いてくれない。
湊の脳裏に藍子の顔が浮かんだ。
『湊は私の大切な息子なのだから。大好きよ』
……母さんなら?
母さんはぼくを好きって言ってくれた。
……母さんのところに行かなきゃ。
湊は近くにあった台を支えに立ち上がった。
……母さんなら聞いてくれる。信じてくれる。
ぼくは生きてるんだって。さっきの話なんてデタラメだって。
湊は部屋を出ようと顔を上げた。
そして――
「っ……! うわああぁっっ!」
叫び声を上げて湊は後ずさった。
「ぁ……あぁ……」
何、で、こんなところ、に。
湊の視線の先には。
資料で見た、あの人型のロボットがいた。
金属の素材と埋め込まれているカメラが、湊をじっと見ている。
その感情のない顔に、湊は震えた。
この部屋にはぼくしかいないのに。
“あれ”はどこから現れたの?
湊はさらに後ずさった。
するとロボットもなぜか同じように後ずさる。
「え……?」
それどころか、湊が声を出せば同じように口を動かしていた。
恐る恐る近づけばゆっくりと近づいてくる。
湊は混乱した。
……どういうこと?何でぼくの真似をするの?
怖くなった湊は床の液体を思いきってロボットに当ててみた。
けれどロボットに当たる前に壁のようなもので防がれてしまう。
湊は手を伸ばし、ロボットに触れようとする。
ロボットも同じように手を伸ばして……そこで湊は違和感を抱いた。
……真似しているのなら、こんなにもぼくと同じタイミングでできるものなの?
そんなのは不可能だ。真似するなら数秒は遅れるはず。
……まさか……
「ぼく、なの……?」
湊の頭がある答えにたどり着いた時、ふと湊は自分の手を見下ろした。
「ひっ……!」
嘘だ。
湊はさっきまで自分の手だったものを見つめた。
形は同じだ。いつもの手。でも。
いつのまにか目の前のロボットと同じ、金属になっていた。
「な、んで……」
まさか。本当に?
最近の出来事が浮かんでは消えていく。
事故。週に一度の診察。栄一郎の今まで作ってきたロボットたち。朔の態度。黒い大きな置物。地下室の花。重い体。人型ロボットの設計図。思考を自立。関わるなと言う栄一郎と玲。知らない実験器具。事故の記事。何かを言いかけていた朔と玲。栄一郎と藍子の会話。玲の話。床の液体。目の前のロボット。金属の手。
「う、そだ……そんな、こと……」
そこから導き出される答えは。
「……ぼ、くは……ほん、とう、に……?」
『コイツなんか、兄でも何でもねぇよ』
『君はね、ぼくの弟なんかじゃないんだよ』
玲の冷たい視線が刺さる。
『君は――』
「――ロ、ボッ、ト……」
そんな。
嫌だ。嘘だ。
「ぁ……」
湊の口から乾いた声が漏れる。
ぼく、は、湊で。
生きて、る、って。
『君は湊じゃない。本当の湊はあの事故で死んだんだ』
でも、ほんと、うは……
――死ん、でる、の……?
「ぁ……あぁ……」
皆は、知ってた、の?
ぼくだけ、ずっと……ずっと、信じてて……
家族だって、信じて、て……
仲良く、なりたいって……思って。
朔に避けられていたのは、だから……なの?
玲と朔が一度も名前を呼んでくれなかったのは、だから……なの?
栄一郎と藍子が優しくしてくれたのは、“湊”を愛していたから?
……ぼくは……?
ねぇ、ぼくは?
“ぼく”は誰かに愛されてた?
認められてた?
必要とされてた?
……“ぼく”を見てくれてた人はいた?
「……な、んだ……」
ははっ。
……誰もいない。無理だったんだ。
ぼくは家族になりたかっただけなのに。
ぼくは仲良くしたかっただけなのに。
それすらも、最初から無理だったんだ。
父さんと母さんから見れば、ぼくは“湊”で。
兄さんと朔から見れば、ただのロボット。
……そんなの。
「ははっ……気づきたく、なんか……なかったよ……」
何も知らないままがよかった。
知りたいなんて思わなければよかった。
「いや、だ……嫌だ」
ぼくはいらない?
嫌われて、疎まれて。
ぼくのせい?
……違う。
ぼくは悪くない。
仲良くなりたいって……
そう思うのは悪いことなの?
家族になりたいって……
そう思うのは悪いこと? 普通じゃないの?
「……いやだ。いやだ」
ぼくも交ぜてよ。家族にしてよ。
何でロボットになんかしたの。“人”にしてよ。
何で“ぼく”は見てくれないの。
何でぼくだけが嫌われなきゃいけないの。
「いやだいやだいやだ」
嫌われたくない。嫌われたくない。嫌われたくない。
ぼくを見てよ。
誰か助けて、信じてよ。認めてよ。
「イヤダイヤダイヤダ」
ぼくは……ぼくは……ぼくハ……ボクハ……
――ボクハ、イキテルノニ。
「イヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダ!」
次の瞬間、“それ”は床に倒れた。
……イヤ、ダ……
最期にそう呟いて。
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