第3章 わからない


 「湊」


 聞こえてきた声に導かれるように湊は目を開けた。


「おつかれ、終わったぞ」


 いつも通り一番に視界に入るのは栄一郎の顔だ。

 父さん、と湊は呼ぶ。


「ん? どうかしたか?」

「いえ、呼んだだけです」


 たまに不安になる時がある。こうして起きた時なんかがそうだった。名前を呼んで確認しないと安心できない。

 体を起こして湊は研究所が少し騒がしいことに気づいた。


「父さん、今日は忙しいんですか?」


 窓から時折見える研究員たちがせわしなく行き交っている。


「ああ、今ロボットたちのメンテナンス中なんだよ」


 視線の先を追った栄一郎が答えた。


「メンテナンス……それは大変ですね」

「まあでも一番大事な作業だしな。手抜きはできないさ」


 その横顔はどこか誇らしげだった。

 湊はしゅんと俯く。


「……ごめんなさい、父さん。ぼくの診察で貴重な時間を使わせてしまって……」

「そういうのは気にしなくていいんだよ。湊はロボットたちよりも大切だからな」


 頭を撫でる栄一郎の手は温かく感じた。

 自然と湊の口元に笑みが浮かぶ。


「よし、今回も異常なしだ。次の診察はまた来週な」

「はい。ありがとう、父さん」


 栄一郎が驚いたように目を見開いた。


「湊……」

「はい?」


 湊は首をかしげた。


「ありがとう、って言ってくれたな」

「え……?」


 お礼はいつも言っているけど、と考える湊に栄一郎は違う違うと笑った。


「ほら、いつもはありがとうございますだったろ?」

「あ……」


 よくよく考えると、湊は人と話すときはだいたい敬語だ。

 気を悪くさせちゃったのかな。家族なんだし。敬語はどこか他人行儀に聞こえる。


「ご、ごめんなさい……」

「いや、嬉しいんだよ」


 焦って謝る湊の頭を栄一郎は愛おしそうに撫でた。


「今みたいに、普段からため口にしてくれるといいんだけどな」


 ため口……


 自分が話しているところを想像した湊は、違和感に苦笑いした。


「それは無理そうです……」

「そうか。まっ、無理にとは言わないからな」


 気にするなと栄一郎は頷いた。


「おやすみ、湊。気をつけて戻れよ」

「はい。おやすみなさい」


 研究所を出て自室に戻ってきた湊は、イスに座って息をついた。


 ……父さん、嬉しそうだったな。ぼくが敬語じゃなくなったら、もっと喜んでくれるかな?


 まだ記憶が戻っていないから、無意識に心の中で他人のように感じてしまっているのかもしれない。

 そう考えると何だか申し訳なかった。

 きっと、事故に遭う前の湊はタメ口で普通に話していただろうから。敬語は壁を作られていると勘違いさせてしまっているかな。


 ……朔も、敬語じゃなかったら話してくれるかな。


 なんて考えて湊はやや緊張しながら口を開いてみる。


「……あり、がとう」


 意識してしまうと上手く言えなかった。

 先は長いだろうなぁ。

 苦笑した湊は本でも読もうと机に手を伸ばす。


「あれ?」


 いつも置いてある本がない。昨日の夜に読んでそのまま机の上に置いたはずなのに。

 少し考えた湊は、朝研究所に行くときに持っていったことを思い出す。


「あ……置いてきちゃったんだ」


 どうしようか迷ったけれど、湊にとって本を読むことは夜の習慣だった。

 もう八時近かったけれど湊はさっき通ってきた道を引き返す。


 コンコンと研究所のドアをノックして、「父さん」と湊は呼びかけた。

 けれどいつまで経っても反応がない。

 覗き込むと電気は点いているのに人は誰もいなかった。


 少し躊躇した後。


「……失礼します」


 一応小声で断ってから湊は診察室に入った。

 本はすぐに見つかった。

 ホッとして湊はそれを手に取り、部屋を出ようと身を翻す。

 その時、研究所の入口から玲が入ってきた。


「あ、にい……」


 兄さんと呼びかけようとして、湊は玲の様子がおかしいことに気づく。


 ……兄さん?


 疲れたような苦しんでいるような、そんな表情。

 診察室にいる湊には気づかず、玲は自身のパソコンを立ち上げていた。

 画面をじっと見つめたまま微動だにしない。

 湊はいつもとは違う様子の玲に戸惑った。


 ……どうして、兄さんはあんな表情をしてるの?


「玲」

「……っ!」


 入口から栄一郎が顔を出すと、玲はバッと振り返った。


「何してるんだ? 夕飯始まるぞ」

「わかった。今行くよ」


 玲はパソコンを後ろ手で閉じると、栄一郎と一緒に出ていってしまう。

 再び静かになり、湊は診察室から出た。


 ……どうしたんだろう、兄さん。体調でも悪いのかな。

 いや、さっきのはそれよりも……


 湊は玲が見ていたパソコンへと視線を移す。

 どうしても気になってそれを開けた。


「ニュース、記事?」


 事件や事故について書かれているようだ。

 一番大きい見出しには[不慮な事故、自動車にはねられ男児死亡]なんて物騒な文字がある。


 ……兄さんは何でこんな記事を読んでいたんだろう。しかも日付はニ年前だ。

 何か気になることでも――


「……ニ年、前……?」


 湊はもう一度記事を見た。




[○○月✕✕日。△△市にて、交差点で男児が自動車にはねられるという事故が起きた。男児は弟と帰宅途中に、突っ込んできた信号無視の自動車にはねられた。病院に搬送されるも意識不明の重体で、翌日死亡が確認された。この事故に多くの人が心を痛め━━]




「……何、これ」


 どうなってるの?


 湊は思わず半歩後ずさった。


 ニ年前。事故。自動車にはねられ。弟と帰宅途中。意識不明の重体。


「……死、亡……?」


 この事故は、湊に起きた事故とよく似ていた。

 ニ年前、朔と学校から帰る途中で車にひかれて。病院に運ばれて意識不明の重体で。


「似てる……でも」


 ぼくは生きてる。


 死んでなんかいない。


 違う事故だ。

 湊はホッと息をついた。


 ……ぼくは生きてるんだから、あの事故な訳がないのに。


 第一、日付も場所も全然違うんだから。

 自分がおかしくなって湊は笑った。

 その事故の被害者には悪いけれど、助かってよかったと心から湊は思った。それも栄一郎や藍子たちのおかげだろう。家族の存在がなかったら無理だったに違いない。


「兄さんも、似てるから気になっただけなんだね」


 兄さんは優しいからぼくと同じ目に遭った人を心配しているんだ、と湊は頷く。

 疑問が解けた湊はパソコンを元に戻して、しっかり本を抱いて研究所を出た。

 部屋に戻るまで誰にも会わなかったことを不思議に思った湊は、ああと思い出す。

 今は八時だからだ。誰もいないのはいつものこと。さっき見た栄一郎と玲もどこかに向かう様子だった。


 ……そういえば、夕飯って何だろう。


 首をかしげながら、その夜湊はいつものように読書を楽しんだ。






 ◆◆◆






 翌日。暇だった湊は研究所に向かっていた。

 忙しくなければまたあの馬のロボットにでも乗せてもらおうと湊が考えていると、ちょうど部屋から出てくる朔に出くわした。


「あ、朔……」

「……」


 朔と目が合う。


 敬語はなし、敬語はなしに、と湊は胸で呟いて。


「っ、お、おはよう!」


 言えた。


 勇気を出して湊が挨拶すれば、朔は鬱陶しそうに眉をしかめた。

 口調を直すだけでは変わらなかったみたいだ。

 悲しいし、自分のせいで不快な思いにさせてしまうのは申し訳ない。


 ……でも、どうしても聞きたい。


 ごめんねと心の中で謝ってから、湊は続けた。


「朔、教えてほしいんです。ぼくは……」


 一度視線を落としてから、意を決して口を開く。


「ぼくは、朔に何か嫌われるようなことをしてしまったのでしょうか?」

「……は?」

「してしまったのなら謝ります。ごめんなさい」


 頭を下げた湊の耳に、苛ついたような朔の声が届いた。


「急に何? 邪魔なんだけど」


 そう言って立ち去ろうとする朔に、湊は腕を掴んで食い下がった。


「でも、どうしても伝えたかったんです」

「っ……おい、放せ……」

「ぼくは!」


 決して逃がすまいと湊は手に力を込める。


「ぼくは、朔と仲良くなりたいです! ……それは、無理なことですか?」


 どうすれば朔との仲を修復できるかは湊にはわからなかった。

 でも、逃げるのではなく向き合いたい。


 そう思ってとった行動は、朔にとって逆効果だった。


「……いい加減にしろよっ」

「あ……」


 力強く振り払われ湊はよろめく。

 そんな湊を朔は冷たく見下ろした。


「仲良くしたい? ……ふざけんなよ!」


 ドンッと近くの壁を力任せに殴った朔を、湊は呆然と見上げるしかなかった。


「どの分際で言ってんだよ! このっ、……!」

「朔!」


 何かを言いかけた朔を遮った声。

 玲が走ってきて湊と朔の間に体を割り込ませた。


「……朔。それ以上はやめろ」

「……」

「そういう約束でしょ。この話は終わりだよ」


 朔が眉をしかめ玲を見上げる。


「……俺は、ただ……」


 そこでグッと唇を噛み、朔は行ってしまった。


「さ、朔」

「関わらない方がいい。そう言ったよね」


 追いかけようとした湊を玲が止める。

 でも、と湊は目を伏せた。


 ……朔、悲しそうだった。


 去る直前、一瞬見えた朔の表情は泣きそうで。

 湊は自分のことのように苦しくなった。


「じゃあ僕も行くから」

「……兄さん」


 湊が呼び止めると、玲はなに? と振り返った。


「昔、何があったんですか?」


 いつも自分のことを避ける朔の泣きそうな表情を、湊は初めて見た。




『このっ、……!』


『……俺は、ただ……』




 ただ仲良くなりたいと。湊はそう言っただけなのに。

 朔はさっき何と言おうとしていたのだろう。

 自分を嫌う理由は、そこにあるの?


「皆、ぼくに何か隠してますよね」


 朔はなぜ湊を避けるのか。

 朝、昼、夜に皆は湊抜きで何をしているのか。

 玲と栄一郎はなぜ朔と関わるなと言うのか。

 玲はなぜ朔の言葉を止めたのか。


 ……わからない。


 湊にはわからないことだらけだった。



「教えてください、兄さん」



 すがるように見上げると、玲は迷うように目を伏せた。


「……昨日、僕のパソコンを覗いた?」

「え?」


 唐突に質問され、湊は戸惑いながらも頷く。


「ご、ごめんなさい。兄さんの様子がおかしかったので、つい……」


 でもいじってはいないですよと焦る湊に、玲はそうじゃないと首を振った。


「中身だよ。見た?」

「中身って……ぼくの時と似ているあの事故の記事のことですか?」


 湊がそう聞くと、玲は目を閉じた。


「……時間はある?」

「は、はい。ありますけど……」

「じゃあ一緒に来て」


 しばらくしてから目を開けた玲は、湊が見たことのないくらい真剣な表情をしていた。



「覚悟があるのなら」



 ……覚悟?


 湊は戸惑うけれど、それよりも知りたい気持ちの方が勝った。


「ぼくは、知りたいです」


 あの事故から壊れてしまった家族の繋がりを、修復したい。


 朔と玲と仲良くなりたい。


「だから行きます」


 湊がそう言うと、玲は身を翻した。



「……それなら、行こう」

「はい」



 一瞬見えた玲は、何か覚悟を決めたような表情をしていた。








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