茜色した思い出へ――十月号
太陽が赤く染まり始めている。夕方の五時前だというのに、本当に日が早くなったものだ。
「うわ、よくやってんな」
久しぶりに聞く声でそんな言葉をぶつけられた。顔を向ければ、思い出した通りのぼさぼさ頭ではない。少々のびてはいるが、不潔ではない程度の髪の長さ。無精髭が僅かにはえてはいるが、学生の頃を思えば雲泥の差だ。気だるげな表情に、野生動物のような鋭い瞳は相変わらずではあったけど。
いつまでも大学の何処かで潜んでいるような気がしてたのに、やっぱり期限間近だった学生は卒業したみたいだ。
俺は嬉しいような寂しいような気持ちではにかんでしまう。
「
「勝手に殺すなよ」
「殺してませんって。こっちが連絡しても既読スルーするのは何処のどなたですかね」
わざとらしい言い方に臼井先輩は機嫌悪そうに顔の中心に皺をよせる。
「ちゃんと来てやっただろ」
「
寮主催の初夏の祭は、菖蒲祭と呼ばれ今日行われている学祭も目じゃない盛況ぶりだ。毎年、新入部員が一丸となってやらされる焼き鳥屋にOBが来るのが習わしみたいになっている。
遠方で来れない先輩もたくさんいるけど、噂では臼井先輩は県内のどこかに住んでいるらしい。焼き鳥の焼き加減だけにはいちいち口を出していたから、当然、顔を出してくれるものとばかり思っていた。日にちだって、六月の最終土曜日と日曜日と決まっている。八年も通った大学の決まった日程を忘れようもないだろう。いや、臼井先輩には当てはまらないか。
自分の世界を書き始めたら、寝食も忘れる人だ。
「塾講師の忙しさ舐めんなよ」
「大変そうですよね」
こっちが話題に乗っても、興味の失せた顔で機関誌を手に取る。
ちゃんとやってるかどうかの方が心配なんて言えなかった。
国を変えるなら、法か教育を変えろと言ったのは高校の恩師だ。
その教育する立場に臼井先輩がなったなんて想像できない。人としては嫌いではないけれど、教育者と呼ばれるには偏屈な性格すぎる。教育学部に入ったのも、親が五月蝿いから入ってやったと言っていたし、教育学部だからといって、それっぽいことは全然していなかった。学問に隔たりはないだろうと部室の埃のようにとどまり、シニカルに口端を歪ませる。部内の作品を読むときも数ページ流し読みして興味がなければ閉じ、興味があっても最後まで読んだら閉じるだけだ。先輩として指摘も誉めるもなかった。実際、俺が入学する前に終えた教育実習をきちんとできていたのか甚だ疑問だ。
細かいことに文句をつける観察力はあるのに、子供達を導く力、求心力には首もひね曲がってしまいそうだ。
俺の心配を汲み取らずに、臼井先輩は曲がった口を小さく開く。
「
「そりゃ、
相変わらずのあだ名で呼んでくれることに懐かしさを覚えつつ軽く返した。えらく俺の作品を気に入ってくれているのはありがたいが、自分の実力なんてそんなもんだ。
臼井先輩が頁をめくるそれは文芸部が一年に一回出す、集大成の機関誌だ。外部に委託する製本だ。季節ごとに出される部員総員で深夜を徹して手作りする無料冊子とは違い、一年間、部内の批評会に出された作品の中から部員に推されたものだけの傑作集にあたる。出版代を賄うために広告取りにも行くし、機関誌は代金を払って購入してもらう。どんだけ分厚くても、薄くても、七百円ぽっきり。学内の学生に限って小説を募り、優秀な作品には雀の涙の金一封と書評を贈るの企画もある。素人の集まりだが、かなり本格的な一冊だ。学祭のフリースペースに出店した我ら文芸部はこの機関誌で机に高い山を築いていた。悲しいことに、昨日からほとんど標高が変わってない。加えて、段ボールの中に在庫がある。
山の上に機関誌がそっと置かれた。
わざわざ来たのに、臼井先輩を凝視してしまう。
「買わないんですか」
「買う必要ないからな」
文芸部のOBとは思えないような言動だ。
それなのに、行動を曲げない臼井先輩のあたり前を俺は面白いと思ってしまう。不思議なことに、同期から取り残された臼井先輩を毛嫌いする部員はいなかった。個性も好みもちぐはぐな集まりだが、同じ穴の
「相変わらず、わびしいな」
そう言うのがぴったりと当てはまるほど、あたりは閑散としていた。図書館前の広い駐輪場に並ぶ机と椅子、それからブルーシートと、レジャーシート。
いくつかのサークルや団体が自分達の都合のいいように仕立てられたスペースはパッチワークのようだ。午前中は各々の知り合いが来てくれて少しは賑わっていた。午後はと言えば、両手で数えられそうなぐらいに客が来ない。いくつかの催しはもう引き上げ、漠然と時間をつぶしているような集まりになっている。
それ故というか、だからというか、店番も昨日今日と俺だけ。ゼミの課題でなかなか週二の部会にも出れないから、せめてもの罪滅ぼしだ。
暇も店番も持てあました俺も写真部の展示を見て、いくつかポストカードを買ったぐらいであまり貢献できていない。福祉団体の催すハンドメイドコーナーは遠目で見るだけで近づくことすら遠慮した。昨日から開催され、同じ内容とあればこんなものだろう。
「
「すずなら、バイトですよ。それに写真部だから、文芸部の手伝いさせるわけにはいかないでしょ」
つい苦笑いを浮かべた。すずが店番したら、人の目が集まることは間違いないだろう。彼女は幼馴染みの俺も時々、どきりとする程の美人だ。山奥に住む鹿のように澄んだ目が綺麗だと誉めたら、顔を真っ赤にして怒ったけどそれでも可愛く見えるのだからすごいと思う。
「ひっさしぶりに来ても、変わんねぇな」
「先輩、店番したことあるんですか」
ぁん?と先輩が振り替える。
呆れたような姿が幼馴染みと重なったと言ったら、両方から怒られそうだなぁ、と頭の端で呑気に考えた。
臼井先輩は、猫のようにそっぽを向いてしまう。ベージュ色のシャツが茜色に染まっていた。
「茜色した思い出に、いいものなんてねぇな」
顔は見えなかったけど、簡単に思い浮かべられるぐらいには、声色が物語っている。
きっと、茜色の影で皮肉に笑った目元は密かに歪められているだろう。
しみじみと考える俺はもう用済みのようだ。臼井先輩は茜色を背負ったまま、立ち去ってしまった。
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