夏が燻る――八月号

 二十四時間ツーマン体制、それが理系学部の運命さだめだと思う。

 そんな余計なことを考えるぐらいには暇だった。

 前期の講義も終わり、試験や論文をやっつければ、大学のちょっと長い夏休みに入る。そう、夏休みなのだ。それなのに、夏休みなのに、私達は研究室当番を強いられている。自分の研究ではなく、教授の研究の手伝い雑用だ。動物相手に食べ物の影響や薬の副作用の経過観察を行う。当番をする時は四六時中この研究室から離れられない。本来ならゼミ内で決めた週ごとの交代制。各々の都合をつけて、講義が重ならないように担当を決めていた。誤ってスケジュールを忘れることも考慮して、一週間を二人制でこなす。二人制だから、徹夜にはならないが半徹夜状態だ。

 そこで問題なのが、長期で帰省をする夏休みや冬休み、春休み。

 バイトも帰省もしない私と後もう一人が、まる一月の当番になった。皆みたいに徹夜もどきで講義を受けなくて済むし、クーラーも心置きなく使えるのはありがたい。ありがたいけど、こんなに暇なんて聞いてない。

 窓から外を見ても、毎日、毎時、ほとんど人影がない。そんな中、アパートと研究室の往復。たまにスーパーおのやまやコンビニで買い物。ハツカネズミやヒナタヨロイトカゲに餌をやり、教授の趣味じゃないかと思うフェレットのケージを掃除する。すき間で、興味のある論文をパソコンで読んでみたり、図書館で借りた本をめくってみたり。あくびを噛み殺して、携帯電話で気分をまぎらわす。判子を押したような彩りのない日々を送っていた。

 世の中は海だ山だと言っているのに、私のこの鬱憤をどこで発散すればいい。ライブのチケットも取れない悔しさもあって、ため息がこぼれた。


「いい加減、ため息つくのやめてくんない?」


 顔を向けると、奴隷仲間もといパートナーである、すず先輩と目があった。トゲのある口調が通常運転だが、流し目で見られれば誰もが見惚れてしまうような美人だ。近寄りがたい雰囲気も、同ゼミで慣れてしまった私はもうへっちゃらだった。笑って誤魔化しても怒られないことを知っている。


「あはは、すみません」

真城ましろ、ご飯休憩行ったら?」


 すず先輩が素っ気ない態度で言ってくるが、内容は気遣いに溢れている。

 塩対応ならぬ、甘じょっぱいすず先輩。本人に言ったら、ごみを見るような顔で見られそうだから言えないけど。

 得意笑いを隠した私は何の気なしを装いつつ、応える。


「すず先輩、行っていいですよ。私、持ってきてるんで」

「またコンビニ? 学食でもいいから野菜を食べなさい。栄養を取りなさい」


 甘塩っぱいすず先輩は仲良くなると世話を焼く所がある。情けない私が相手だからかもしれないけど。

 とうとう私は得意笑いを我慢できなくなった。格好悪い顔で笑ってるはずだ。それもこれも、すず先輩がかわいいのがいけない。ふふん、と胸をはる。


「今日は作ってきたんですよ」

「は。怪我は?」

「最初に怪我の心配……」

「当たり前でしょう。去年のバーベキューで、人参の皮を剥かずに、自分の皮を剥いたのはアンタよ」


 ちょっとだけだったじゃないですか、という反論は飲み込んでおいた。

 すず先輩の氷点下の顔が、まじで怖い。美人がやると、ああも怖いのは何なのだろう。

 反論はできなくとも、成長したことをアピールしたい私は食い下がる。


「お、お米ぐらい炊けますからね」

「そう。日本の食料自給率に貢献してちょうだい」

「返し方が高度……!」


 むしろ、わからんと口の中で呟きながら、私は鞄の中を探った。目的のものを見付けて、すず先輩に見せつける。


「鰻おにぎりです!」

「……………………そう」

「反応がぬるい!! ぬるいですよ、すず先輩!!」

「疲れた。食べなさい」


 端的な返事は無駄を嫌うすず先輩らしかった。私に対してか、会話に対してか。何処に疲れたのかはっきりしなかったけど、これ以上疲れさせないのが正解だ。

 私は黙って、ラップを剥がしおにぎりを頬張る。冷凍しておいた鰻を適当に切って、ホカホカのご飯で握っただけのおにぎり。甘めよりの甘辛さがお米によく合う。何より、小野山おのやまさんが暑い中、焼いてくれた鰻だ。まずいわけがない。

 おにぎりの美味しさにご機嫌の私を見た先輩は呆れたような顔で笑った。


「小動物のように一口が小さいのよね。効率悪そう。リスみたいに頬袋に詰めたら?」

「それ、効率いいんですか」


 しっかり飲み込んでから私は訊いた。

 パソコンをつつき始めたすず先輩はさぁね、と流される。


「ご飯休憩、行っていいですよ」


 私は同じことを繰り返した。私一人でも、手は足りている。むしろ、暇だ。

 すず先輩はちらりと私を見て、すぐに、パソコンに向き直る。


「今、混んでるからいかない」


 混んでいると言うからには、学食に行くのだろう。学内にある二つの食堂の内、一つは夏休み期間中も平日の昼間は開業している。不摂生な教授や金欠な学生想いな学食に感謝だ。

 でも、まだ混む時間ではないし、夏休み期間中は混むと言っても知れている。思い当たる節に行き着いて、私はそのまますず先輩に投げかけた。


来城らいじょう先輩と行くんですか?」


 私の言葉を聞いたすず先輩は動きを止めた。おでこを押さえて項垂れる。質問には答えてもらえそうにない。

 来城先輩は同科だけど違うゼミの先輩だ。先輩達が一緒にいる所をよく見かけるのは気のせいじゃないと思う。学食で課題してたり、図書館で課題してたり、共同スペースで課題してたり。主に二人で課題してる姿しか見ないけど。

 一方の私は誰かと会う約束なんて、ここ一月していない。羨ましくないと言ったら嘘になる。

 研究の補佐でまとまった時間も取れないし、ご飯だけでもと気兼ねなく誘えるような友達は地元にしかいない。

 件の来城先輩は一年浪人してしまったけど、すず先輩の幼馴染み。県外の大学に幼馴染みと一緒に通うなんて漫画みたいな話があるんだなって印象が残ってる。しかも、同学部、同科。獣医の狭き門を二人ともくぐり抜けるなんて、なかなかない。

 面白いよなぁ、なんて他人行儀に考えていた私はすず先輩がまだ答えてくれてないことに気付いた。額を押さえた掌の影でぶつぶつと呟くすず先輩に質問を重ねる。


「何て言いました?」

「気にしなくていい」


 普段はずれてるのに、とか何やら聞こえた気がするが気にしなくていいらしい。すず先輩の言葉に従うことにして、食事を進める。


「明後日で終わりですねぇ」

「そうね」


 しみじみと言ったのに、簡単に返される。おにぎりがしょっぱくなりそうだ。

 目の端に映った時計を見上げれば、針が十一時を回っている。

 じゅういちじ。

 何だっけ。何か忘れてる気がする。

 なかなか減らないおにぎりを一口かじった。


「そういえば、チケットの販売が十一時とか言ってなかったっけ?」

「あああああっ」


 悲鳴を上げながら、おにぎりを机に放り出して携帯を掴み取る。パソコンを立ち上げる時間はない。

 私としたことがっ! チケットの販売開始時間を忘れるなんて!

 開いておいた画面を呼び起こしても、通信エラーで繋がってくれない。アクセスが集中してるのだ。

 おにぎりを一口食べ、アクセスするを繰り返す。連打しても意味がない。タイミングの問題だ、と自分に言い聞かせて、根気よく携帯の画面をタップした。

 三十分は諦めなかった。最後の一口を食べて一縷の望みをかける。

 アクセスし続けた画面に映し出されたのは『完売いたしました。ご応募ありがとうございます。』の無情な文字。


「せ、せめて抽選だったら望みがあったのに……!」


 負け犬の遠吠えみたいなことを言って、私は机に突っ伏した。涙までは出ないが、心は海のどん底にみたいに暗くて重たい。

 我関せず、というより若干引いていたすず先輩が問いかけてくる。


「抽選って何それ」


 その言葉が、訳のわからないことを叫び出しそうな私を現実に繋ぎ止めてくれた。

 ライブに参加したことのないすず先輩のために説明する。


「購入希望者多数の場合は、早い者勝ちにせずに、とりあえず購入希望者を全員を募って、そこからチケットの購入権が抽選される、っていう仕組みです」

「ありがたい仕組みね」

「買えなかったら意味ないんですけどね!」

「今と状況が変わらないってことね」


 すず先輩の言葉はいつも的確だ。的確だけど、今は傷に塩を塗り込んでくれる。

 私は叫ばずにはいられなかった。


「夏の思い出にライブに行きたかった……!」

「それ、夏とか関係あるの?」


 ありますよ、と声を上げようとした私なんてお構いなしに携帯の着信音が鳴り響く。

 すず先輩は一言断って電話に出た。

 荒ぶる私でも電話の邪魔をしないだけの理性はある。本能のままに生きないのが人間と野生動物の大きな違いだ。

 すず先輩が私はいいけど、あーと言葉を選ぶように視線を泳がせながら、私を見る。迷ったのは一瞬のことで、訊かれたのは簡単なことだ。


「来月まで、研究の手伝いを頼めるかって。次の担当、足を骨折して一ヶ月は動けないらしい」


 すぐには答えられなかった。

 悔しかったのだ。チケットが取れなかったことじゃない。夏休みがないことがじゃない。

 すず先輩が目線だけで答えを促してくる。

 返事は決まっていた。


「予定がないので大丈夫ですッ」


 そう、予定がなかったのが悔しかったのだ。大学生が人生の夏休みなんて嘘八百だ。

 今年の夏は研究室で燻るしかないのだから。

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