鯨より深く――七月号

啓太けいた、就活しないの?」


 夕飯を食べ終わって立ち上がった私に声をかけてきたのは、海老天を頬張る姉さんだ。

 今は脱力した二つ上の姉さんは行動力と容姿の華やかさを活かしてアパレルの大手に入社。明るい笑顔を買われて営業職に配属され、私にとっては眩しすぎる存在だ。

 普段は振り撒いているだろう愛想は家に変えれば見る影もない。倒れこみそうな体を肘で支え、半ば意地で夕食を咀嚼している。くたびれた様子に社会の大変さがにじみ出していた。

 死んだ目をしている姉さんから視線を外して、私は自分の食器を片付ける。


「就活か。してもいいし、しなくてもいいんだが……内定をもらっても断るのが面倒、ていうのが本音だな」


 そう言いながら、自分は楽な方に逃げているような気がして、心が沈む。

 姉さんの口に次々と海老が吸い込まれ、尻尾までそのまま姿を消した。疲労から聞こえなかったのか、と勘違いさせる程に過ぎる時間。色が取れた唇で麦茶をふくんで、怠慢に口を開く。


「それ、他の就活生に聞かれたら殴られるよ?」

「姉さんだから言ってるんじゃないか」


 面白くない気持ちを抑えて平静を装って応えた。

 親が会社を経営していて、その後を継ぐかもしれない。そういう立場の人間は限られている。親は、好きにすればいいと言ってはいるが目の奥に潜む期待は隠しきれていなかった。

 姉さんも、やりにくいのはわかるけどさと呟きながら続ける。


「よく考えなよ。あんたはこの家業に骨を埋めるつもりなのかもしれないけど、なぁんにも経験しないのもどうかと思う」

「他のスーパーに勤めて経験を積めということか?」

「そうじゃなくって。自分が興味あること、してみればいいじゃない。ほら、ボードゲームの開発とか。啓太、好きなんでしょ、あのゲーム」


 あの、とはなんだ。緻密に展開されるストーリーもあれば、度肝をぬく裏技や親しみの湧くユーモアさも忘れていない。やったこともないくせに、と口から溢れそうになって、寸前のところで耐える。

 今の論点はそこではない。小さく息を吐いて半眼で姉さんを睨む。せめてもの意趣返しだ。


「好きなことを仕事にしたら嫌いになりそうだから嫌だよ」

「あー、それもわかるかも」


 私の冷静な返答に姉さんは乾いた声を返してきた。

 どっちだよ、と小さく言ったら、気だるげな目が見つめてくる。何か訴えてきているわけでもないのに、居心地が悪かった。


「なんとなく、で流されたら啓太が困るんじゃないかなって」


 そう思っただけ、と姉さんは両手を合わせた。いつの間に食べたのか、皿の中身は綺麗になくなっている。


「最近思うことがあって訊いたわけよ。ただただ働いてるとね。なんで働いてるんだろう、て思うこともあるわけ」


 何も言わない私を放って、姉さんは、だいぶ疲れてるね、こりゃ、と一人で笑っていた。


「あ、テレビ消しておいてねー」


 そう言葉を残した姉さんは、自分がつけたテレビを弟に押し付けて去っていく。

 バラエティ特有の笑い声。やるせなさを感じるのは私だけだろうか。

 リモコンで電源を切り、私も自室に帰ろうと踵を返した時、姉さんの食べ終えた食器を見つけた。誰もいないことをいいことに大きなため息をつき、食器を片付ける。

 洗剤を存分に含ませたスポンジを皿に押し付けるようにして洗う。蛇口を全開にして洗い流しても気鬱な気分は晴れなかった。

 姉さんの言葉が私の中を漂って消えてくれない。



~~~



 また、この季節がやってきた。土用の丑の日だ。

 昨日のこともあって、気だるさが異常だ。鬱屈とした私を嘲笑うかのように灼熱が降り注ぐ。

 天気予報なんて見るものじゃない。ただ天気を知りたかっただけなのに最高気温が三十四度を予測されていた。

 去年と違って、今年は四年生ということもあり、ほとんどの講義を受けていなかった。つまり、朝から言葉通り社畜として鰻を焼き続けなければならない。

 あらゆるチーフに私が焼いたら売上が上がると言われたが、意味がわからなかった。若者が焼くより、職人にも見える社員が焼いた方が美味しく見えると思う。

 そんなことを思いながら、間を縫ってスポーツドリンクを流し込む。

 汗は湧き出ように流れ、留まることを知らない。帰ったらすぐにシャワーを浴びようと考えながら、鰻をひっくり返す。

 破けた皮からふつふつと脂がこぼれ、追い討ちをかけるように炭がはぜた。焦げる直前を見極めなければならない。

 ただ焼いているだけでいい朝はまだ頭が空っぽでいられた。

 問題は昼からだ。焼き上がってしまった鰻を横目に、客寄せ目的の鰻一尾をあぶるだけの作業になる。まさか今日の分を全て午前中に焼き終えているとは思わなかった。

 作業に没頭できなければ、思考はすぐに昨日に引き戻される。

 私の周りにはまだ就活をしている者もいるし、教職を目指すものは実習の準備に追われている。週に一日ならず二日三日と仲間とやり込んでいたボードゲームは当分、予定が組まれそうにない。

 意欲のない私だって、何件かの就活サイトに登録し、ネット上で済ませられる適正検査もした。その結果、進められた業種はトラックの運転手だ。それか、パイロット。当てにはならないとその結果は見なかったことにして合同説明会にも参加した。誘われるがままにブースで説明を受け、人混みに体力を削られ、得たものは何もなかったように感じた。意欲が高い者は手を差しのべられ、志がないものは簡単にふるい落とされるだろう。その考えに至るまでに時間はかからなかった。

 仕事に夢も希望もないせいか、逃げているのか。志が何かさえも未だに見出せないでいる。

 皮がはじける音がして、慌てて鰻を火から上げた。

 焼きたての鰻を旨そうと思えないのは、焼きすぎのせいだけではなかった。込み上げる感情を振り払うように顔を上げると見覚えのある艶やかな髪が目に写る。


「やぁ、真城ましろさん。こんにちは」

「こ、こんにちは。小野山おのやまさん」


 私の声かけに真城さんが近づいてくる。一年と少し前に学生証を拾ったことから始まった、知り合いと友達の間のような関係だ。

 私が声をかけることもあれば、彼女から声をかけてくれることもあった。

 どもりながら話すから、真城さんのことは恥ずかしがり屋だと思っている。


「今年も鰻は二尾でいいだろうか?」

「あ、え、うぅーん。二尾ほしいけど、一尾でいいです」

「はい、かしこまりました」


 会計を済ませて、見送ろうかと構えているのに、真城さんは一向に動こうとしない。決意を固めたような顔を上げて私に言葉を投げてくる。


「じ、実は最近夏バテ気味であっさりしたものがほしくて」

「長芋、ところてん、梅干し、後、麺類もいいな」


 真城さんの要望なんて容易いものだ。今日は何を作ったらいいか、何が体にいいか、といった質問は老若男女あらゆる客に聞かれた経験を活かす。思い付くままに食材の名前を並べ、少しだけ熟孝して、口を開いた。


「体力をつけたいなら肉を食べた方がいい」


 とりぶたぎゅうと呟いて、赤黒い肉を思い出す。


「鯨なんてどうだろう?」

「鯨肉ってありますか?」


 二つの声が重なって思考が止まった。

 言った後ではもう遅いが、鯨肉なんて、真城さんには似つかわしくないと思う。ただ鮮魚のバイヤーの言葉を思い出して提案してみただけだ。

 鯨肉を若い女性が買っている姿を見たこともない。それなのに、真城さんは鯨肉がほしいと言ってきた。


「赤肉で、さっぱりしている上に栄養価が高いじゃないですか。その、おばあちゃんが体にいいからって小さい頃、よく食べさせてもらって……」

「鯨は海に潜るのに特殊な筋肉を持っていると聞いた」


 珍しく流暢に話す真城さんにつられて私も応えていた。

 彼女は笑顔で頷いている。


「そうなんです。鯨の筋肉に含まれるバレニンのおかげで長時間の回遊も可能にしてますから」


 真城さんの口からこぼれた小難しい片仮名に目を丸くした。

 私の表情を見た真城さんは気恥ずかしそうに視線を外した後、言い訳するように小さく呟く。


「動物が好きなのでつい熱くなってしまいました」


 そういえば、真城さんは共同獣医学部の学生だ。学生証を拾った時に知ったことなのに、彼女が何処にでもいそうな人で親近感を覚えていた。勝手に裏切られたような気持ちになって、そしてまた一人、将来を決めている人を知って私は情けなくなってくる。


「へ、変なこと言ってごめんなさい」

「いや、勉強になったありがとう」


 私はごまかすように強がって見せて、渡しそびれていた鰻が入った袋を手渡した。

 真城さんは俯いてなかなか受け取ってくれない。


「鯨って哺乳類なんです」


 唐突に落ちた言葉は私でも知っていることだった。どうやら続きがあるようで、待つことにする。彼女の話し方はとてもゆっくりだ。


「肺呼吸なので魚みたいにずっと海の中に居続けるわけにはいきません」


 握りしめられた真城さんの手は白かった。


「鯨はどんなに深く潜っていても、必ず浮かんできます」


 何か伝えたいことがあるのはわかるが、あいにく私は察しが悪い。

 真城さんの歪んだ顔が私をまっすぐに見つめてくる。


「どんなに深く潜っても大丈夫です。必ず上がってこれますから」


 残念ながら、何が言いたいのか検討がつかなかった。

 私を見上げていた真城さんは急に頬を赤くして、その場から駆け出した。今日はスニーカーだからこける心配はないが、大切なものを忘れている。


「真城さん! 鰻!」


 その場で飛び上がった真城さんは瞬く間に戻ってきて、ひったくるように袋を持ち駆けていった。

 彼女はどうしていつもあんなに慌てているのか。常に噛むし、大半が駆けて去っていく。未だに不可解なことは解決されていない。

 私が考えることではないか。そう結論付けて、客寄せように鰻を炙る。焦げた端をわざと取っておいて炭になるまで焼けばいい。ベテランからの教えを思い出して、端に寄せていたゴミ箱行きの鰻を火があたる場所に戻した。

 うだるような暑さが続いている。それでも心は軽くなっていた。

 その理由はわからない。暑さのせいで回らない頭のせいか、察しが悪いせいか。不可解なことが減ることはない。

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