見知らぬ指輪――六月号
三六〇度見渡せば、必ず田んぼか畑が引っ掛かる田舎にぽつんと建つコンビニ。それが俺のバイト先だ。
のどかな場所に建つコンビニだが、意外な程に客は来る。店が目の前のスーパーか、車で数分の大型スーパーと選択肢が少ないからだろう。さっさと買い物を済ませたい、常連がいるにはいるのだ。
くたびれた新卒だったり、新商品スイーツを必ず一掃してくれるおじいちゃん。話の長い眼鏡をかけたおばさん。名前は知らないのに、覚えてしまった顔はいくつもある。
会計を終えた客が間抜けな開閉音と共に去っていく。切手をしまうためにかがむと、視界の端に小包が入った。今日は第四金曜日。コンビニ受取の荷物は宛名を見なくとも簡単に見当がつく。
俺が名前までわかる客と言えば一人しかいない。第二か第四金曜日に必ずと言っていいほどやってくる『オノヤマさま』もとい、知り合いになってしまった
道路を挟んで向かいにあるスーパーオノヤマで働く学生。名前からも推察できるが、経営者の家族だ。愛想のない整った顔、たまにほほえむ姿に黄色い声を上げるおば様が後を立たない。
そう、女性達は常に潤いを求めていると思う。なんの変哲もない日常にそれを見いだせるのだから一種の才能だろう。
その矛先が俺にまで及ぶとは思ってもいなかった。
俺はただバイト代に見合った働きをしていただけだ。決して、特別なことはしていない。母親から骨の髄まで叩き込まれた愛想で、バイト中は
『ほほえみ王子』と『スマイル王子』。
はずかしくて、文句をつけたいあだ名が独り歩きし始めたのは、一年も前のこと。
何が王子だ、はずかしい。しかも、コンビみたいに対となっている。女性達が求めていることはうすうす感じていたが、断固拒否だ。絶対に願い下げだ。正直、小野山さんとは知り合いになりたくなった。
彼と帰り道を一緒に歩いただけで、コンビニで荷物の受け渡しをしただけで、近所のおば様方は色めき立つ。それにまたげんなりとする日々を否応なく送っていた。
投げやりな思考を戻せば、夜から切り離された空間が広がっている。気を紛れさせるために、売り場メンテナンスをすることにした。凹んだ陳列を奥から引き出そうと手を突っ込めば指がひっかかる。左手薬指の根本に鎮座する違和感を思い出した。
気晴らしをしようとしたのに、もう一つの面倒事が脳裏に浮かぶ。
期待を込めて、ゆっくりと指を引き出した。小さなダイヤモンドが光る指輪はちっとも動いていない。
俺はため息を我慢して作業に戻る。
間抜けを通り越して愛着を持ってしまった自動ドアの開閉音が聞こえた。
振り替えると、長い前髪の下に眼鏡をかけた小野山さんがいる。髪を十分に乾かさずに来たようでしっとりと濡れていた。家の用事を終わらせてくる彼はたいてい深夜手当がつく時間帯に訪れる。
「いらっしゃいませ」
「やぁ、
客以上の関係を築きたくない想いを汲み取れない小野山さんは親身に接してきた。
少々投げやりにどうもと素で返してしまう。用件を聞かずともやることはわかっていた。彼はここに食事も新商品も楽しいおしゃべりも求めていない。レジの奥に置いていた小包を出して、伝票にサインをもらう。
そして、小野山さんはいつだって、こう言うのだ。
「妹尾くん、助かった。ありがとう」
それに曖昧に笑って俺は見送るつもりでいた。
台の上に置いていた俺の手を見て、小野山さんの目が見開かれる。
「結婚したのか?」
「やめてくださいよ。ただ単に姉が面白がって付けただけなんで」
「……取れないのか?」
「取れませんね」
「石鹸でするといいと聞いたことがある」
小野山さんと同じことを言った俺は、指輪をつけた張本人である姉に、石鹸はだめよと釘を刺されていた。
それを言われたのは昨日のことだ。俺が間借りしているアパートに姉がスーツを持ち込んできた。彼氏が数回しか袖を通さず着なくなったスーツは新品も同然だ。
物の受け渡しという簡単なことで終わるのに、その日の姉はふふふと笑顔で俺の部屋に乗り込んできた。普段通りネジの抜けた思い付きで俺に指輪をつけたのは姉だ。指輪が外れなくなっても青ざめる俺をよそに慌てた様子もなく、困ったわねと眉を八の字にした。その顔のまま、水仕事はしないでほしいとか、風呂に入る時はビニールをしてくれとか、手袋をして過ごしてほしいとか。
そんなに大事なものなら、弟につけるなという話だ。最後の頼まれ事は断固として断ったが、小型犬のような顔で頼まれたら突っぱねることはできない。
その薄いような濃いようないきさつを飲み込んで俺は意識して笑顔を作る。
「姉が許さないんですよ。大事にしてほしいって」
ふむ、と小野山さんは仰々しく頷いて、じっくりと薬指にはまる指輪を見つめた。見知らぬ物に興味を示す動物のように何度か瞬きをしている。
「切り落とせばいいんじゃないか?」
彼の口からこぼれた言葉に俺の笑顔はひきつる。
「……指輪をですか? 指をですか?」
「指輪を傷つけたくないのだろう。一度ネットで調べたことがある。消防署に頼めば切り落としてくれるらしい」
つまり、指を切り落とせと。なぜ調べたのか気になったが、聞くような雰囲気ではない
眼鏡の奥に潜む真面目な顔に表情が強ばる。
「物騒なこと言わないでください」
「冗談だ」
やっと吐き出せた声に返ってきた言葉は無情だった。
真顔の冗談は心臓に悪い。しかも、小野山さんが冗談を言ってきたのはこれが初めてだ。
真剣な顔の背景に間抜けな開閉音が響く。
まじまじと小野山さんを見ていた俺は思考と行動の回線がうまく噛み合っていなかった。
「愛の契りだろう。大切にしてほしい」
なぜか俺の薬指が浮いている。
視線を落とせば小野山さんが俺の薬指だけを救い上げられていた。
物が落ちるような鈍い音が少し離れた場所に響く。妙齢の女性が慌てて財布を拾っていた。
恐る恐る顔を上げる女性は寝起きのようなぼんやりとした顔をしている。夢心地のような双眸に映りこむ指を絡めた
反対に俺の血の気は急降下した。
何処から聞いていたのか訊くまでもない。
にっこりと最上級の笑みで彩られた女性は携帯を操作しながら足早に去っていった。彼女の用事は彼方に飛んでいったのだろう。
きっとまた、『王子の密会』を見たとでも言うのだろう。男同士が指を触っただけで、おば様方は喜ぶに違いない。
指輪をどうするか、という目の前の問題を放棄して俺は悟った。
この町から出ない限り、彼女はできないだろうな、と。
(終)
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