マンソンは死ぬのだろうか?
狐
hopefull overdose
サルドルは5分前に地獄に落ちた。電極を刺されたカエルのように身体を痙攣させ、白眼を剥いて意識を失ったのだ。
不愉快なオルゴールの音を意識の外に押しやりながら、俺は黙々と作業を続ける。10年来の相棒の死を悲しむ余裕はない。キーボードの打鍵音は周囲から徐々に消えていき、神経を逆撫でする穏やかな不協和音が耳から体内に侵攻してくる。背後で倒れる音。また一人、フリークアウトしたようだ。
広い部屋の中心に置かれた球形のカメラはぐるりと回転し、猛獣の眼球のように俺たちを監視する。振り向けばどこを向いているのかはわかるが、俺にそんなことをしている余裕はない。
壁に埋め込まれたモニタに流れる文字列を確認し、一定の場所に文字を打ち続けるのだ。猿がめちゃくちゃにタイプライターを打ったような意味のわからない文章を機械的に手直しする作業である。この作業を寝ずに続け、もう1週間経つ。
サルドルの細い指は、もうギターを奏でることはない。3日前、目を見開いたヤツが興奮しながら自分の指を折り始めた時、俺はそれを止めることができなかった。隣で作業を続けながら、骨が折れる音の軽さをただ噛み締めていただけだ。
今は動かないその骸を横目に見ながらも、俺の心は未だに実感が湧かないのだ。今に起き上がり、どこか世の中を憂うような笑みを浮かべてくるに違いない。今まで、俺たちはそうやって理不尽を受け流してきたのだ。
* * *
「とにかく、このままじゃダメなんだよ俺たちは……!」
「落ち着けよ、ツバ飛んでんぞ」
興奮する俺を尻目に、サルドルは据わった眼で笑う。路地裏で取引したアルカロイド粉末を吸い、深淵なる意識の底でミューズと対話している最中のようだった。
ラットを撫で、ギターを爪弾き、世を憂う。猥雑な繁華街に程近い安価な居住スペース『モンテ・クリスト』に住むサルドルの生産的な行動といえばそれくらいで、俺は親友の緩やかな破滅をただ見守っていた。数週間前までは。
「じゃあお前はいいのかよ!? このまま狭い独房みたいな場所で暮らして、変えるつもりもない世界を憂いて……。俺たちはもっと良い暮らしだって出来る。それなのにろくでもない世界から逃げて、何が自由だ!?」
「……なぁ、マンソンは幸せだと思うか? ケージから出たことはないが、毎日満足なエサと身の安全は確保されてる。ストレスが溜まったら、終わることのないホイール運動だってある。これ以上、コイツは何を求めるんだろうな」
マンソンはサルドルの飼っているラットの名だ。彼の敬愛するミュージシャンだったか犯罪者だったかの名を受けた哀れな小鼠である。その日もサルドルの細い指の中で、戯れるように弄ばれていた。
「外に出たことがないんだよ、コイツは。この狭いケージを世界だと思って、悠々自適に暮らしてる。俺も同じだよ。窓から見る景色なら、唾を吐いても許されるだろ?」
サルドルは長い髪を振り、薄い唇を歪めた。よくわからない例えで煙に巻く癖は昔から変わらない。俺は昂った想いを発散する方法に困り、静かに拳を下ろした。
「……ただ、お前と一緒なら別に構わねぇよ。一緒に金を稼いで、もっといい暮らしをする。それなら、俺は何も変わらずいられる気がするんだ」
粉混じりの息を吐き、サルドルは目を細める。それがOKを表すサインであることに気付いたのは数秒後だ。
それから、俺は手っ取り早く金を稼ぐ方法を探した。時間はいくらでもあったし、もっと仕事内容を厳選することだって出来たのに。俺は一足跳びで生活水準を上げられるような仕事を選んでしまった。
『未経験者歓迎、資格必要なし』
聞き覚えのある社名は、大企業のグループ会社のものだ。来たるべき幸福のビジョンが見え、俺はわかりやすく飛び付いた。住み込みで高収入、食事提供可……。あまりにも好条件すぎるのだ。
当分帰らなくても生きていけるように自動給餌機の電源を入れ、サルドルは自らの巌窟に鍵を掛けた。濡れたアスファルトに唾を吐き、灰色の空を眩しそうに眺める姿が記憶に鮮明に残っている。
向かった先は、オフィスビルの地下だ。天高く伸びる高層ビルに逆行するかのように地面に張り巡らされた地下道の奥底、某企業が占有する広いスペースである。
求人情報を見て集まったであろう数十人の人々を前に、シワひとつないスーツを着こなした担当者は笑顔で「この仕事によって幸せになる人がいる」と語る。きっと生産性のある仕事なのだろう。その時の俺は労働で手に入る金と今後のビジョンを思い、微かな高揚を覚えたのだ。
* * *
結果はどうだ? 機械に任せればいいような単純業務を繰り返し、意味のわからない作業に延々と従事している。作業終了を確認次第報酬を渡すとの触れ込みだが、その作業はいつになれば終わるのか。矢継ぎ早に追加されるタスクの山に、俺たちは困惑していた。
何人かは腹に据えかねて出て行こうとしたが、無駄だった。部屋は厳重に施錠され、各々がタスクを終えるまでは家に帰ることができないのだ。ご丁寧に作業状況を監視するカメラまで置かれ、俺たちはただ目の前の仕事に没頭することを余儀なくされた。
それでも、食事が出るだけ僥倖だ。それがペースト状の完全食だったとしても、何かを口に含んでいないと気力も湧かない。そう考えた俺を止めたのは、他ならぬサルドルだった。
「……お前は、ダメだ。まだ慣れてないだろ」
そう言うと、アイツは運ばれてきた俺の分の食事まで乱雑に平らげる。文句を言おうとした瞬間、俺はその食料の匂いにデジャヴを覚える。
ドラッグ特有の匂いだ。あの狭い巌窟で嗅いだ物に近いものを感じ、俺は反射的に周囲を見遣る。周りは誰も気付かず、有難がって食べているのだ。
一方のサルドルは、小さく舌打ちして再び作業を続けていた。その手は、やけに震えている。タイプミスを繰り返し、息も荒い。
「サルドル……?」
「……いいから、手を動かせ。早く出るぞ、こんなイカれた空間!」
周りは誰もが腑抜けた顔で、黙々とタイピングを続けている。思考を緩慢にする効果があるのか、それきりこの待遇に文句を言うものは居なくなった。打鍵音は徐々に効率化され、画一化されたリズムに飲み込まれていく。
「いや、なんで食べた……!?」
「常に見られてる。皿を空にしないと怪しまれるだろ?」
サルドルは眉根を寄せ、ぎこちなく笑った。
違う、聴きたいのはそこじゃない。なぜ俺を庇う?
この場にお前を連れてきたのは俺で、責任を取るべきなのも俺だ。それなのに、サルドルはそれが当然であるかのように俺を庇う。
浮かんだ疑問が口に出ることはない。監視カメラの視線が俺たちを射し、会話は中断されたのだ。
それから数日の間、俺は食事を摂らなかった。空腹が生み出す鋭い感覚はほとんどが観察と思考に費やされ、俺は作業の合間に周囲の状況を観察できるようになった。
ドラッグ混じりの食事を取った参加者は着々と機械的な動きを繰り返すようになり、希薄な自我を反復運動によって無理矢理導いているかのようだ。誰も彼もがなんの疑問も抱いていない幸福な表情で、時折呻き声を上げる以外は反抗する様子もない従順な入力装置と化している。これも生産性のための効率化なのだろうか? 常軌を逸しているが、労働者の笑顔は失われていないのだ。
一方のサルドルは、自我の侵攻に対して必死に耐えているかのようだった。本来の鎮静作用とは異なり、その身に降りかかる作用は気分を昂らせているのだ。人体の許容量を超えたオーバードーズが原因か、常用していたアルカロイドとの相性が原因か、流れる汗を拭うことさえ出来ていない。
「……サルドル、もういいよ。これ以上肩代わりしたら、お前の身が……!!」
「うるせぇ……。いいから、終わらせるぞ……」
息も絶え絶えに、サルドルは俺の言葉を遮る。その視線は、もう俺に向いていないのだ。俺の座っている位置とは逆方向に、
俺は、親友が壊れていく様子を間近で見つめていた。
どこで間違えた? 終わらない仕事を食事も睡眠も取らずに続けながら、俺は延々と考え続ける。この仕事の意味は? なんの意味があって、こんな大仰な事を非人道的な手段で行なっている?
意味が判れば、理解ができれば、苦痛は和らぐのだ。俺の精神も限界だった。参加者を落ち着かせるために置かれたオルゴールのもたらす不協和音と、隣で叫ぶ親友の声が奇怪なユニゾンを奏でる。
今が昼かも夜かも分からない極限状態の中、凪は確かに訪れた。自傷行為を行なっていたサルドルが、消え入りそうな声で俺に言葉を紡ぐ。
「……お前は、生きろよ」
「サルドル……?」
「……前に進みたいんだろ? なら、止まるのは俺だけでいい……」
「……何言って」
「……生きるのって、地獄に落ちるのよりキツいんだな」
俺にだけ聞こえるほど小さな声で、サルドルは心の内を洩らす。世界を憂う時の声色だ。この部屋で一回も聞くことのなかった、詩を諳んじるような台詞だ。
それきり、ヤツの打鍵音は止まった。薄い唇は厭世的な文言を吐くことなく、折れた指は音楽を奏でない。サルドルは、俺のせいで地獄へ落ちたのだ。
* * *
係員の巡回を意味するタイマーのブザー音が響いた。俺は現実に引き戻され、喪失を直面する。今から、親友の骸が回収されるのだ。
俺は少し考え、とある可能性に賭けた。死体を回収しに来る係員が現れるまでに、次の手を打たねばならないのだ。サルドルに内心で謝罪し、彼の懐に電子部品を忍ばせた。
作業に没頭するふりをしながら、死体が運ばれていく様子を“聴く”。監視カメラに取り付けられたマイクを忍ばせ、盗聴器のように傍受するのだ。とにかく、外の情報を知りたかった。
『丁寧に運べよ? 自傷のシーンはクライアントが全部見てる。傷が増えても言い訳できねぇからな』
『それにしても、酷いっすね……。わざわざ死ぬことなんて無いのに。このまま無為な作業を繰り返してたら、身の安全は確保できたかもしれないっすのに!』
作業員は口が軽いようだ。“無為な作業”である事を知っているなら、このまま盗聴を続けてこの仕事の真相を聞き出せるかもしれない。
とにかく、この仕事の意図を探りたかった。納得したかったのだ。
『全く、上もえげつない事考えますよね。あの仕事で幸せになるのなんて、娯楽に飽きた富裕層くらいでしょ?』
『それを見越して配信してるんだよ。お前もちゃんと手動かさないと、あっち側に連れて行かれるぞ! ……なんてな!』
聞いていくうちに、俺はこの仕事に潜む欺瞞を直視する。あの時、担当者が言った“誰かが幸せになる”の意味は、そのような即物的なものなのか?
俺は徐々にこの仕事の意味を理解する。これは、囚人に掘った穴を埋めさせる刑罰の延長でしかない。その行動自体に意味はなく、無益であればあるほど娯楽的価値が増す。生産性を上げるための施策だと思ったドラッグの混入は、生産性のなさを参加者に隠すための誤魔化しなのだ。
俺たちは、マンソンと同じだ。狭い檻に閉じ込められ、餌を与えられて終わらないホイール運動を続ける。それを飼い主の目線で見ているのが“クライアント”なのだろう。
その時、俺に湧き上がった感情は怒りではなく諦念だった。こんなものの為に俺たちは人生を賭け、サルドルは死んだ。自由を奪われ、将来を奪われた。
腹が減った。睡魔が襲った。当然だ、もう何日も食事を口にしていないのだから。俺はペースト食を見つめ、静かに息を吐く。
「……なんで意地張ってたんだろうな」
サルドルは俺に「前に進め」と言った。違う、逆だ。俺はお前に前を向いてほしかった。お前のことを放っておけなくて、俺は余計なことをしてしまった。ここで俺だけ抜け出たとしても、なんの意味もないのだ。
アイツの感じていた景色は、どんなものだったのだろう。俺は同じように唇を歪め、手掴みでペースト食を口内へ運ぶ。ゆっくりと苦痛が和らいでいく。幸福感が湧き上がってくる。このまま幸福に浸り続けるのも悪くない。もっと食べて、苦痛を和らげないと。
なんの問題がある? ここなら、満たされるのだ。俺は指先を汚しながら、同時に相反する思考も口に出していた。
「……ここで死ぬのも、悪くないしな」
これでアイツと同じ地獄に行けるなら、安いものだ。俺は既に空いた隣の席を眺め、散漫な思考を繰り返す。
自動給餌機が切れた時、マンソンは死ぬのだろうか? 狭いケージの中で自由を感じながら、終わらないホイール運動を繰り返す。いつかは餌が枯渇し、自分の無価値を理解することなく死ぬのだ。
それが一番幸福な最期かもしれない。俺は小鼠に想いを馳せ、気の抜けた笑みでキーボードを叩いた。
マンソンは死ぬのだろうか? 狐 @fox_0829
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