袖の背中

猫背人

袖の背中

 照明の消えたホールの天井は真っ暗で、夜空を演出するには持って来いだ。

 まあ、目を凝らせば舞台の骨組みだとか、天井だとかは確かに見えるけれど、上映中にそんなところにまで気にするような人は、よほどこの舞台がつまらなくて暇している人なのだろう。

 かく言う私も、あくびが出るほどつまらないと思っているからそんなことに気がいくわけで。

 けれど、その他の観客は波乱万丈な物語が上映されている舞台に注目して、私のように他所へ目が向いているわけじゃなさそうだ。

 迫真の演技を見せられて物語の中へ引き込まれた観客は、一心不乱に登場人物たちの行く末を眺めている。

 そんな中から、私のようにあくびを出して、ホールの天井なんかを気にしているような輩を見つけ出そうと客席に目を向けてみる私には、やはりこの演目――というより、演劇というもの自体が向かないのだろうか。

 

 出演するから見に来てくれ、と友人からチケットを貰ってしまったから来てみたものの、照明が落ちて演目が始まってからずっと、どうも私はこの舞台に意識が向かない。

 パンフレットで事前にどんな物語か知ってはいるものの、登場人物の名前も、今行われている場面がどんな状況なのかも、演者から発せられるセリフから聞き取って読み取れているはずなのに。

 私にはそれらすべてが右から左に流れて、演劇を見ている、という気持ちまでたどり着かない。


『――じゃあどうしろって言うんだッ!』

『そんなことも分からないの!?』


 迫力のある声が微睡みかけた意識を呼び起こしはすれど、目覚まし時計が鳴ったような感覚に収まるのみだ。

 起きた拍子に私の視線が舞台に向くと、そこには友人が立っていて、まさか友人の叫び声で目を覚ましたなんてことに気付かれてはいないだろうか、という心配が何よりも先に走った。だが、きっと友人が聞いてくるとしたら私が居眠りしていたことじゃなくて、舞台の内容についてだろうからいらぬ心配だ。

 舞台の内容について感想を求められた時のために、なんとか眠気を堪えて舞見続けるが、友人が舞台袖にはけてしまえば再びまぶたがゆっくりと下がってしまう。


『だから、何度も言ったじゃないですか。こういう時のために持っておけと』

『い、いや、しかし……昨日まで平和な世なのかを過ごしていたのだから、そんな備えなんかしなくてもいいと思うのも当然ではないか……?』

『あのですね……備えというのは、万が一にも起こりえる可能性を考慮して用意しておくものなのですよ』

『それは分かっている。私が言っているのは、言い伝えでしか聞いたことのないような事態のために、その話が伝えられてから何百年と経っている現在の私たちが今更備える必要があったのかということだ。

 そもそも、この言い伝えだって大昔は人々の中で当たり前のように知っていることだったかもしれないが、今ではそれを知っているのも私たちのみじゃないか。それに今は科学が発達している。

 昔は今と比べて何もかもが貧しかったから備える心構えが必要だったのだろうが、昔よりも圧倒的に富んでいる今現在は何か起きても冷静に対処すればどうってことないだろ?

 だったら、なにも人々に忘れ去られた言い伝えを信じて備えるよりも、何もかもに余裕を持っている人々に任せて、私たちは下手にしゃしゃり出ることせずに静観するべきではないか、と』

『それは無責任というものですよ。起きることを知っているのに備えもせず、豊かになった人々に任せ、我々はただ静観するというのは、我々の役割を放棄している。

 時代を経て、人々がいつの間にか忘れ去った言い伝えを我々だけが忘れることなく受け継がれているのも、全ては我々一族の使命であるからにほかなりません。

 むしろ、いつしか人々が言い伝えを忘れ去ってしまうことは先祖だって分かりきっていたことでしょう。

 我々とは違って、彼らは普通なのです。

 移ろう季節のように、一つとして同じ時を過ごすことのない彼らが忘れ去ってしまうのも当たり前のことです。

 また、そうした性質であるからこそ、昔とは違い今が豊かになっているのでしょう。

 しかし、だからといって、「では、彼らには余裕があるのだから、我々が手を差し伸べなくてもいい」という理由にはなりません。

 なぜなら我々には備える役割があり、その時になったら人々に分け与えるのが我々一族の使命だからです。

 万に一つの確率も信じて、微粒子レベルで存在している可能性を考慮して備えなければいけません。

 それに、このことはアナタだって重々承知していたことじゃありませんか』

『…………ぐ』 

『なにより、その時になった今現在、人々の姿はどんなものですか? 少し前までは物で溢れ、人で溢れ、そこら中に豊かさがあったものの、いざことが起きてみれば、慌てふためき物に余裕があっても心に余裕がなくて、なにも出来ていないじゃありませんか』

『あ、いや……それは、だから、アレだよ。今はびっくりして何もできていないだけで、時間が経って冷静さを取り戻してくれば、私たちが手助けする必要もないくらいすぐに元通りになっているさ』

『それは……そうかもしれませんが。しかし、それでも我々に架せられた使命は何も変わらないですよ』

『……まあ、それは分かっているさ。けどな、お前は備えていたかもしれないが……最初に言ったが私にはなにも残っていない。ただ、先祖から託された使命が残っているだけで、私も本質的なことで言えば、普通の彼らと何ら変わらない。

 いや、むしろ、その豊かさに気付いていないだけの彼らと違って、私には豊かなものなど何一つとしてありはしない。

 言われるがまま一族の習わしを覚え、備え続けていても、時代が変わるごとに豊かになっていく彼らと比べて、ずっと進むことのない一族の現世の中で過ごす私には、そもそもことが起きた時とのために備えていても、彼ら全員を救えるだけのものを用意するのは到底無理なことだ。

 むしろ、先祖はこうなることを最初から分かり切っていたのではないか?

 私たちがどんなに大切に水瓶が壊れないように守ってきても、彼らは壊れるたびに新しい水瓶を前よりも大きくて頑丈なもの作り豊かになっていくのだから、私たちが守ってきた今と比べればとても小さな水瓶でそんな彼ら全員を救えるはずがない。

 ……わかるだろ?』

『…………確かに、そうなのかもしれない。我々が備えられる器の大きさは限られている。叩けば簡単にひびが入り、どれだけ毎日継ぎ足しても隙間からこぼれ落ちていってしまうような我々の器では、彼らに賄うなど無茶もいいところだ。

 どころか、彼らには我々よりも頑丈で大きなものが、こんな事態でも傷一つなく残っている。

 アナタの言う通り、今、彼らは驚いて冷静さを欠き、何も心配いらないことに気が付いていないだけですね。放っておけば、勝手に何事もなかったかのように戻っていくのでしょう。

 むしろ、見方を変えれば、我々が彼らか助けを請う側に立っているくらいです。

 そんな存在の我々が、一体どうして彼らを助けられるなどというのでしょうね……』

『ああ……だから、私たちは、ただ彼らが元通りになっていく様を見守っていこうじゃないか』

『………………』


 登場人物の心情を表すように舞台の証明がゆっくりと落ちていく。

 ぼうっと舞台を眺めていても演者のセリフはなにも私のなかに留まることなく過ぎていった。

 ホールに響く音を鼓膜が捉えても、言葉になって私の中にまで入ってはこなかった。

 そして気が付けば、客席に照明が点いていて舞台はいつの間にか終幕している。

 沸き立つ歓声のような拍手が聞こえて、周りに流されるように私も拍手をしたけれど、私には周りの人たちのような感動から溢れ出る拍手にはならない。

 ホールを出て、これから友人のもとに挨拶に行こうかと少し考えたけれど、流石に演者の前に舞台を何一つ真面目に見ていない者が会いに行くのは違うだろ、と感じて私は劇場を出た。


 *


 蝉の鳴き声に対抗するかのように教室に響く発声練習。

 明日の文化祭に向けてどこの教室からも賑やかな声がして、演劇サークルとしても上演する劇の練習は最後の仕上げに入るところだった。

 今まで練習してきた全てをなぞるように、合わせた衣装を着けたまま通しでやって、気になるところを詰めていく。正直、私にとっては文化祭でやる演劇なんて楽しむことに全力して劇のクオリティーなんかは二の次でいいじゃないかと思っていたけれど、そんなことをポツリと呟いたら、代表が「クオリティーを高めて観客が沸き立つような劇にするのが楽しいんじゃない」なんて言うから、私は彼女の方針に従うしかなった。


「うーん……とりあえず、練習してきたところは出来ているから問題ないかな?」

「いいんじゃない? まあ、なにか思うところあるなら言って貰えばいいし」

「そうだね。じゃあ、何かある人――」


 演者の中からまばらに手があり一つ一つ精査して、みんなで合わせていく。

 舞台に立たない私は彼ら演者が何を持って意見を上げたのか知らないが、今回の決定権を持つ代表が求めるクオリティーになるのならば、それでいいのだろう。

 机に置かれた演者たちの台本には私が持つものとは雲泥の差で書き込みがなされ、それを見るだけで彼らの熱意が伝わる。


 そして、私はこの中で一番足が遅れいているような、少し惨めな気持ちになってくる。


 どこで差が開いたのかと自問自答をすれば、思い当たる節は友人が劇団への入団が決まったときだろうか。

 サークルや部活ではない憧れの世界へ、なんども足踏みをして届きたくても届かない舞台へ、隣に立って一緒に夢を見ていたはずの相手が私よりも先に行ってしまい、どうしようもないほど遥か遠くの存在になったときに抱いた虚脱感。

 多分、そのときが私の中から熱意というものが消えてしまったきっかけだ。

 別に私にはこれから先も何度だって続けていればチャンスがあるのに。あの、たった一回の試験で合格した友人に先を越されて、才能がないと諦念したのだ。

 

 ――たしかに友人は私が数合わせで誘った最初の舞台で初心者とは思えないほど上手かった。

 初心者でも構わないただの数合わせで呼んで、ずっと前から演劇をやっている私がどうにかできればいいと思っていた公演は、練習するごとにレベルが上がっていく友人と私が上手く合わさり無事に終わらせられた。


 それから演劇が好きになった友人は私と同じ夢見るようになって、同じところを目指す仲間が出来た気持ちで私は嬉しくなっていた。

 けれど、同じところを目指す仲間だと思いながらも内心で私は友人のことを下に見ていた。先に演劇に触れてきた経験がある私の方が上で、友人は私の背中に付いてくる存在だと。


 だから、私は驕り、友人のことを甘く見ていた。


 友人と最初にした公演が無事に終わったのも、友人が練習でレベルを上げて好き勝手にやる私に合わせていたからどうにかなっていたのだ。

 そんなことに気が付くのも、友人が憧れの世界へ先に行き、私よりも経験豊富な演者たちの中に混ざり演じている友人の凄さを知ったときだ。

 ただ演劇が好きだからという理由でやっても、どうしたって独りよがりの演技しかできない私には届かない世界なのだと、思い知らされた。

 そして、演じることが嫌になり私は裏方へ回り、舞台に立たない時間が長くなるほどに演劇に対する熱意が消えていった。


「――じゃあ、もう一回通しで」


 まっさらな自分の台本を確認しながら彼らの通し練習を眺める。

 さっき出た改善案をすぐに演技に盛り込める彼らの情熱は私には眩しく見える。

 熱意も情熱も、演劇を楽しむ気持ちもない私が、未だにこのサークルに参加しているのが不思議になって来るが、なにか未練があるのだろう。

 それがなんなのか、私自身まったく分からないけれど。


「――っはい、お疲れ様。さっきよりもさらにいい感じになったよ。そう思うでしょ?」


 代表がこちらを向いてそう聞いてくる。


「うん、代表の求めている形になっているならいいんじゃない? 本番もこの調子で」

 

 本心で喋り、けれど、演劇の良し悪しが分からなくなっている私は自分の答えを避ける。


「アタシの理想に近い形になってる。――っよし! それじゃあ、今日の練習はここまで。あとは明日の設営準備ね~」


 代表の一声によって、私たちは明日への細々こまごまとした準備に取り掛かった。

 

 *


 本番の直前に、ついこの間公演を終えた友人から劇を見に来ると連絡を貰った。

 現役で舞台役者をしている人が文化祭の演劇を見に来るなんてプレッシャーだからやめてほしかったが、口では「じゃあ、楽しみにしてて」と言ってしまっていた。

 私は自分が携わった劇の良さなんてこれっぽちも理解していないのに、挑戦的な言葉をなに口走ってんだと思いながらも、また同時に、人に見られることをプレッシャーと感じられるのかと、別のことを考えて友人に放った言葉にそれほど後悔していなかった。

 ただ、みんなみたいに熱意だとか情熱だとかはなく、演劇を続けている理由も分からないのに、友人に見られるというプレッシャーは感じる。

 それが不思議で仕方なく、緊張しながら緞帳裏どんちょううらで舞台の設営を行っていた。


「……いよいよだね」


 そして、開演まで残り僅かとなって代表は呟いた。

 舞台袖に集まったみんながみんな、ほぼ満席の観客を前にしての上演に緊張している。けれど、その口元はほんの少し上げっているように見えて、緊張に不安を抱いているようには見えない。

 ――それもそうか。

 代表が目指すところのクオリティーを再現出来うるところまで彼らはなんども練習を重ねていたのだ。体に染みつくほどの練習が彼らの自信になって、観客に劇を見せることが楽しみなる。

 演じることが好きだから演劇をしている。演じられることは楽しい――だから、練習の分だけ自信がついて、観客に怯えることなんかなくなる。

 かつての私もそうだったから、彼らの口元がほんの少し上がっている理由がわかる。

 だけど、今の私は彼らとは違う。

 演じることが嫌になり、舞台から降りた。

 そして降りた先で担った私の役割は、彼らほど自信が付くまで練習を重ねてはいない。むしろ、私にとっては一発勝負だ。だから、自信なんて付けられる暇がない。

 自ら高いクオリティーを求める代表が演出を務めているが、それでも私の作った物語が人を楽しませられるか不安で仕方がないのだ。元がダメならどんなによりよく魅せようとも、楽しんではもらえない、そう思っている。


 ――……ああ、私が友人にプレッシャーを感じていたのはこれか。


「文化祭、最初の公演。これまで何度も練習してきて、今日からはその成果を発揮する。……ワクワクするね!」


 代表がみんなに向けて話し、彼らは小さく頷く。

 さっきよりも口元が上がっているように見えるけれど、力を入れて笑みを抑えているようだ。

 ――いいなぁ。

 自信がみなぎり、力を発揮する機会を今か今かと待ち焦がれているときの笑顔だ。

 自信がなくて、不安を抱いている私は彼らの笑顔が羨ましくなって、見た目だけは真似てみようとしてみたけれど、どうも上手くいかなかった。思うように口元に力が入らず、手で触れてみたら、私の口元はすでに彼らみたいな笑顔になっていた。なぜだ?


『じゃあ、楽しみにしてて』


 自分の笑顔の疑問を考えると、友人から連絡を貰ったときに口走った言葉が頭を過った。

 たしかに私は友人に自分の作った物語を見られることが不安を抱いてた。

 ――けれど、そうか。

 私に演者としての才能がないと分かっても、表現者としていたいのだ。それと同時に、彼らが演劇に対して向ける熱意だとか情熱を羨ましく思うほどに、きっと演劇が好きなのだ。

 確信は持てないけれど、つまらないと感じていた演劇を私はまだ好きなのかもしれないと分かれば、途端に不安は晴れてくる。そして、不安に隠れていた感情が見えてくる。


「失敗とか成功が分かるのは文化祭が終わるまでだから、わたし達は観客が沸き立つような劇にすることだけ考えよう……それと、楽しもうね!」


 私は、私が作った物語を表現する彼らの熱意だとか情熱で積み重ねてきた練習で付いた自信の笑顔を、自信のない脚本で舞台を成功に導いてくれると信じている。だから、彼らが観客を楽しませる劇にする自信は私の自信にもなって、始まるのが楽しみで仕方がない。


「じゃあ、みんな。文化祭、第一回公演! はじめ――――っよう!」


 代表の声にみんなが「おー!」と答えて、立ち位置に回る。

 私は、彼らのその頼もしい背中を舞台袖から見送った。

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