第2話 序章 1

 少し暖かくなってきたのだろうか。支給された外套を脱ぐ兵士も多くなったように感じる。中には支給された外套を酒と交換した阿呆もいるようだ。勤務中に酒をやる奴らさえもいる。乾燥した砂が軍服の間に入り込んでくる。最近の飯にやけに砂が混じるのはこの砂交じりの風のせいなのだろう。

 特にするべきこともなく、塹壕の両端に置いてある木製の踏み台に銃を抱えて座っていると向こうから赤ら顔の男が不安な足取りで迫ってきた。

 「おい、お前も一杯やらないか」

 唐突に声をかけてきたが、特に驚く理由はない。アレクセイはいつもこうなのだ。ぶっきらぼうでどこか抜けている。

「いや、結構だ。それより水はないのか?」

「ヴェルナー、お前はいつもそうだ。そうやって真面目に生きすぎると早死にするぞ。少しは気を抜いたらどうだ。酒瓶でも握れば気分も変わるってもんだ」

「アリョーシャ、おまえこそ少しは銃を握ったらどうだ。お前はここ数か月銃より酒瓶を持っていた時間の方が長いだろ?」

「こんな泥だらけの何にもない土地に流されて、酒飲まずにいられるかよ」

 アレクセイはそう言うとヴェルナーの隣に腰を掛けて酒瓶をラッパ飲みし始めた。

 彼はヴェルナーと同じ時期にここに配属になった兵士だ。非常に立派な体格をした男で、軍服がはち切れそうなお腹は脂肪以外に何か入っているのではないのだろうかと疑うほどだ。そして、二十代前半とは思えない程老けている。禿げた頭頂部からは四十ぐらいの中年男性の香りがプンプンしている。

 年齢も階級も同じということもあってか、彼はよくヴェルナーに絡んでくる。ヴェルナー自身はうっとうしく思うこともあるが、特に嫌っているわけでもない。ヴェルナーの数少ない友人だ。

 泥だらけの何にもない土地、それはポーランドのドイツ国境との隣接地域。言うなれば国土防衛の最前線ともいえる場所だ。その要所に詰める兵士がこの様だ。ヴェルナーは嘆息を漏らした。いい加減に掘られた歪な塹壕や配備される旧式装備の数々。上層部は最新装備の多くは最も重要な拠点に配備したと公言しているが、恐らく生産が追い付いていないのだろう。最前線であるはずのこの地域に最新装備が一つも配備されないのだから。事実、ヴェルナー達が支給されているモシンナガン銃と一緒に配られた銃弾は二十発程度しかない。この弾数でいざって時にどう対処すればよいのやら。

 「マイヤー伍長」

 背後から野太い声が聞こえた。振り返ると小柄な男性が手に何かを持って立っていた。イ・ヨンホ上等兵だ。数か月前に白ロシアから補充されてきた兵士である。

「イ上等兵。どうした、何か用かい」

「いえ、昼飯の配給の時間だったので伍長の分も持ってきました。伍長は砂入りのカ―シャはお嫌いでしょうが、これしかないですから食べてくださいよ」

「ああ、ありがとう。だけど、俺がそんなに嫌がっているように見えたかな」

 ヴェルナーは冗談交じりにそう言うと、

「ええ、アレクセイ伍長はうまい、うまいと言いながら食べているのに、マイヤー

伍長はいつも渋い顔して食べていますから」

 イはそう言ってすでにぬるくなっているカーシャをヴェルナーに手渡した。

「俺の分はないのか、イ」

 アレクセイがそういったが、イはその言葉を無視して、

「ご自分で取りにいかれた方が体と服のためですよ、アレクセイ伍長」

 銀色の歯を見せてケラケラ笑うイの姿を見てヴェルナーもおかしくなり一緒に声を上げて笑った。こんなにおかしいのは久しぶりだ。

「ち、俺は上官なのに…。それにお前はなぜ俺だけ名前で呼ぶ。俺はアレクセイ伍長じゃない。ウラノフ伍長だ!お前は上官に対して無礼だから白ロシアからポーランドに飛ばされたのだな?そうだろ?実戦ではこき使ってやるから覚悟しとけよ!」

 アレクセイがそう言うと、イがそんな権限伍長にはありませんよと言った。それを聞いたアレクセイは覚えとけと捨て台詞を吐き、のそのそと配給所に歩いていった。


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