蟻の屍
駄作製作所
第1話 プロローグ
隣の大きな土地に住んでいた人達の話?さあね、数十年も前のことだから大して覚えてないよ。最近は物忘れがひどいからね。
老人はそう言うと年季物の木製のひじ掛け付きの椅子の背もたれにもたれかかった。立派な口ひげを生やし、ごつごつした体の節々や体と不釣り合いなほど大きな手は彼の昔の様子を想起させる。一服した後、彼はおもむろに語りだした。
まあ、ここら辺では結構裕福なご夫婦の奥さんの一族の土地だったね。私も農繁期になると日銭稼ぎにご夫婦の農園で働いていたよ。あれは確か一九一六年くらいだったかな。まだそこらへんでロシア兵とドイツ兵がドンパチやっていたころだよ。あの頃は俺の家にもよくドイツやらロシアの脱走兵が飯と若い女を求めてやって来ていたよ。まあ、うちにはカビが生えたライ麦パンと女の盛りを過ぎた四十過ぎの女房しかいなかったから兵隊さんはみんながっかりして出ていっていたけどな。
老人は苦笑した後、金属製の小型缶に入ったアルコール臭の強い酒をラッパ飲みした。薄い木の板で囲っただけのような家では隙間風も遠慮なく吹き込んでくる。実際、酒でも飲んでなければ凍えてしまうような寒さだ。一杯どうかと勧められたが、下戸には厳しそうだったので首を横に振っておいた。寒さ以上にその酒のアルコール臭が鼻を刺激した。昔からビール一杯まともに飲めたことがないのだ。老人の上戸ぶりには感心する。
そんな輩に交じっていた栗毛の中肉中背のドイツ軍人さん、あの身なりだったら将校さんだったのだろうね……。言葉遣いも学がありそうだったし。そういうあんたも将校さんだったのかい?
「はい」と一言だけ返事をしておいた。これ以上語る必要はあるまい。老人は私の返事を聞くとすぐに話を続けた。
その男の人がその大きな土地に住んでいたお金持ちの一人娘の家に足繁く通っていたよ。なんでも、そこの嬢ちゃんに怪我していたのを助けてもらったのがきっかけだとかいう話だ。そんなこんなでいつの間にか結ばれていたみたいだったね。
それはまるで遠い国のお姫様のお輿入れについて語るがごとくであった。彼は外国の将兵を女を襲う対象と捉えても、愛でる対象として捉える人種と思っていなかったのだろうか。時が彼にそうさせているとも考えられるが。しかし、田舎の一農夫にとって雲の上の存在である将校と地主の娘の結婚は遠い国のお姫様のお輿入れと似たようなものだったと考えるのが彼の口調を説明する一番確からしい理由だろう。
まあ、当初は相手も立派な将校さんだしよく釣り合ったお似合い夫婦といったところだよ。ポーランドなかでもポメレリア(ポメラニア東部)とその周辺はゲルマンの奴らも結構住んでいたからスラブのお嬢ちゃんとその家族もみんなドイツ人の旦那をすんなり受け入れていたよ。それに、結婚してすぐにご長男が生まれたみたいで、そりゃ大層可愛がっておられたね。
老人はそう言いながら窓の向こうにある今は更地となっている広大な土地をいぶかしげに眺めていた。そうして在りし日の光景をおもいだしているのだろうか。そして眉間にしわをよせ、しぼんだ首を一層すぼめて再び話出した。
でも、いつだったかな、戦争が終わった後だったから一九一九年のちょっと後だったはずだよ。奥さんの両親が相次いで亡くなって、さらには旦那さんが軍縮の煽りを受けて軍を首になったのさ。
まあ旦那さんに関しては、戦争もろくにせずスラブ女とよろしくしてばっかりだったのだから仕方ないかもしれないけど。でも、奥さんが大層な土地持ちの一族の娘っ子だからご夫婦で土地を経営すれば食うには困らなかったでしょ。
だけど、旦那さんはそんな生活が嫌だったのだろうね。男の矜持、いや見栄ってやつかな。どうも男というものは自分が女を食わすことは出来ても、女に食わしてもらうことは出来ない生き物みたいだからね。もともと生粋のドイツ人だからというのもあったのだろうけど…。
その後の言葉に何か不都合を感じたのだろうか、それともいう必要のないことだと感じたのだろうか、そのことについてはそれ以上語らず、更に話を続けた。
旦那さんは劣等民族を排除すべきだ、ヒトラーに忠誠を誓うのだとか何とかいって毎晩のように奥さんと喧嘩していたよ。まあ、スラブの奥さんにとってそれはとても受け入れられなかったようだけどね。自分たちの一族を劣等人種とののしる輩の主張に賛同しろという方が無理な相談だ。
老人はそう言うとため息をついた。自分は政治なんかさっぱりだから上の奴らの考えることは理解できないといったところだろうか。若しくは古くからゲルマンだのスラブだのといった垣根を越えて共存してきた彼らにとっては大層くだらない話に聞こえていたのかもしれない。
結局、奥さんと旦那さんは別れたみたいだよ。旦那さんと別れたことで奥さんは自分の家の大きな土地を管理できなくなって、ロシアのコーカサスの方にいる親戚の地主さんのところに長男と居候しに行ったそうだ。旦那さんは当然ドイツに帰ったよ。
すると老人は立ち上がり数歩歩いて暖炉の火を鉄棒でかき回し始めた。暖炉の薪が少々少ないように感じる。足りていないのか、補充していないのか、恐らく後者だろう。そうでなければこの老人がこの冬を超えることは出来まい。すると、彼は思い出したように口を開いた。
あぁ、そうだ。確か旦那さんは子供をドイツ人として育てるとか言って乳飲み子を抱えて帰っていったね。まだ、親が誰かもわからないような時期の赤子だったけど、かわいい顔した男の子だったよ。まあ、その方が旦那にとっては親が誰かわからないくらいが都合良かったのかもしれないけど。長男はすでに物心ついてそうだったからよ。まったく、あの年で母親と離れ離れになるなんてなんとも気の毒な話だよな。まあ、それよりもあんな喧嘩ばかりしていた夫婦がいつの間にかもう一人ガキをこしらえていたことにはたまげたね。どこにそんな時間があったのやら…。
老人はそういうと話は終わりだと言わんばかりに部屋を出ていった。薪を取りに行ったのだろう。
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