安に居て気を思います
朝です。
習慣とは恐ろしいもので、いつもドナーズ家で起きていた時間に起きている。
目覚めるには少し早い時間に起きてしまったので、起きることにしよう……
宿のご主人が用意して下さっていた水瓶を使って顔を洗う。
鞄の中から櫛を取り出して髪をすく。
寝癖で少しだけ跳ねてしまった前髪と肩の下辺りまで伸びた後髪を念入りに梳かして真っ直ぐに直す。
いつも通り、邪魔にならないように少しだけ髪を取って後ろで束ねる。
黒髪で量も多い毛髪は私の悩みの一つ。
姿見は見当たらなかったので窓に映る硝子で髪が乱れていないか確認。問題ないですね。
ふと、お隣から小さな声が聞こえてきた。
ハルドさんも起きているようです。
外から眺める街にはもう人が溢れかえっていました。けれどお店はまだ開いていないようで、仕込みに向かう人々で賑わいでいた。
風に乗って焼きたてのパンの匂いが部屋に入ってきた。
釣られるようにお腹が鳴る。
私は慌てて窓を閉めた。
今日から仕事を探さなくては。
軽く朝食を済ませた後、早速仕事の紹介所まで足を運んでみたものの昨日パン屋の亭主やハルドさんが言っていたように現実は厳しかった。
「ついこの間までは結構あったんだけどねぇ。今は家に人を入れたがらないみたいだ」
「そうですか」
求人の内容はメイド。それも住み込みメイドに限定すると全くというほど仕事は無かった。
日雇いメイドなら仕事の紹介は出来ると言われたけれど、家無しの私には仕事をしながら宿暮らしというのは現実的ではない。
「まーそもそも住み込みってなると紹介状が前提だからな」
紹介所の役人の方が訝しそうにこちらを見るけれど、私は苦笑して返すしか無かった。
この方が仰ることは重々承知しているものの、今更ドナーズ家に戻って「紹介状を書いてください」なんてことは到底無理でしょう。
「そうですか……メイド以外に住み込みで出来る仕事はありますか?」
「メイド以外にか。ちょっと待ってておくれ」
それからいくつか紹介して頂きましたが、あいにく女性が安定して出来る住み込みの仕事は見当たらなかった。
仕事探しもまだ一日目。今から根を詰めても気疲れするため仕事探しは一旦終わらせ、役所の方に別れの挨拶をして外に出た。
私の預け入れていたお金を計算する限り、そこまで急いで仕事を探す必要もないのでゆっくりと見つけることにしましょう。
「いっそアゼンバイルド公国に行ってみても良いかしら」
昨日ハルドさんとのアゼンバイルド公国の話を思い出す。テーランド王国よりも肌寒い気候だけれども、遠い大陸と繋がる海に囲まれた国。
私と同じ名前がついた港も気になる。
もし働き出したら外に出歩く事なんてなくなるし、それも良いかもしれない。
(ハルドさんに公国の話をまた聞けないかしら)
昨日泊まっていた宿には連泊で契約をしているけれど、お隣のハルドさんがどうかは分からない。
旦休憩するために宿に戻るから、もしハルドさんが居たら聞いてみよう。
見たこともない新しい土地への移住を想像していたらあっという間に宿に到着していた。
私の部屋は二階に上がったところにある。
そこまで広くない建物なので、一階に受付と二部屋、二階に二部屋ある作りになっている。
そして廊下も狭いので他に人がいると中々奥に進めない。
今のように。
「…………?」
私が押さえている部屋の隣、昨日までハルドさんが泊まっていた部屋の前に二人の男性が立っていた。
厚手の外套を被っているので、それがハルドさんなのか別のどなたかなのかは分からない。
「あの……すみません」
そこに立たれると、中に入れないのですが……
言葉を続けようか迷っていたら二人の男性がこちらを見た。
「アリニ、ウィクロヴァン、シュニ?」
「ルイドゥ」
異国語を話し出された。
どうやら別の国の方らしい。
けれど、私の意思が伝わったらしく狭い廊下に少しだけ隙間を開けて通して下さった。
お陰で自分の部屋の扉に行き着くことが出来た。
私は小さくお礼を告げると、二人の男性はにこやかに微笑んで、「スミマセンデシタ」とテーランド語で仰って下さった。
鍵を差し込み中に入る。
パタンと扉を閉めて、いつもより少しだけ早めに内側から鍵を閉めた。
どうも少しだけ緊張していたみたい。
少しだけ耳を澄ませば廊下にはまだ二人はいるようで、私は一息吐いてから窓を開けた。
それから窓辺から体を出して隣の部屋を少しだけ覗いてみる。幸いなことに手摺がしっかりと付いているので覗こうと思えば覗けてしまう。
部屋の中はもぬけの空だったけれど荷物は見える。
どうやらハルドさんは外出中のようです。
少しだけ考えてから私は窓辺からずっと外を眺めていた。
まだ明るい日差しの空。お昼寝するにはとても良い。
ふと、お隣の部屋扉が開く音がした。
ほんの微かに聞こえてくる異国の言葉。
お隣が静かになったところで私は呼び鈴を鳴らす。
この宿には少年が使用人として働いていて、水瓶などの交換をしてくれる。
呼び鈴を鳴らしたことで隣の物音が消えた。
暫くして扉を叩く音。
「お呼びですか?」
扉を開ければ昨日もお世話になった少年が立っていた。
「すみません。洗濯をお願いしてもよろしいですか? 出来ればこの部屋の中でお願いしたいのですが」
「分かりました」
少年はすぐにその場を去っていった。
こうした宿では、下働きの子が代わりに洗濯をしてくれる。
洗濯する物だけ渡して別の場所で洗ってもらう事もできるけれど、そうすると紛失したり盗まれるケースもあるらしい。
こうして部屋の中で頼んでみれば、少年は慣れているようであっさり承諾して準備のために部屋を出て行った。
私は持参した手拭いを二つほど用意して待つ。
隣の部屋は静かになっている。
暫くして少年は水瓶と石鹸を持って戻ってきてくれたらしく扉を叩く音がした。
扉を開け閉めするのも大変だから、私が扉を開けて少年を中に受け入れる。
それから敷物を床に敷いてから、水瓶を上に乗せる。
「これだけなんですが、お願い事してもいいかしら?」
「大丈夫です」
流石に下着を洗って頂くことは出来ない。
「あと、ちょっとだけお願い事をしてもいいでしょうか?」
先払いの銭を渡しながら私はそっと少年に近付いて小声で相談をすれば。
少年は不思議そうに首を傾げながらも「分かりました」と答えてくれた。
少年に笑顔で礼を告げてから私は部屋を出る。
相変わらず隣の部屋は静まりかえっている。
私はいつも通り外に出てから小さく息を吐いた。
「思い過ごしならいいのだけれど」
どうやら私の職探しは明日になりそうです。
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