山犬

男は32歳になる。


男の娘は3歳である。


今は男とその娘、二人で山へ車を走らせている。


男は重度の記憶障害を持っている。


奥さんは何をしているのか。


本当は今日、彼の母親が彼が娘を連れて山へ行くことを反対していた。


彼は重度の記憶障害で突如、さっきまで何をしていたのか、自分が誰なのか分からなくなることがあった。


奥さんは噂によれば、旦那が記憶障害を患ってからというもの他の男に首ったけであった。


いわゆる、不倫である。


奥さんは今日も、他の男といるようだ。


男はそのことを知っている様子だが、特に怒っている素振りもない。



「ぱぱ!雪!!」



山には多くの雪が積もっている。


自分たちが住んでいる街にはなかなか雪がつもることがない。


どうしても、娘に雪がどんなものか見せてあげたかったのだろう。


記憶障害を患ってから、仕事が手につかなくなった彼は車を降り、娘を雪に触れさせた。



「初めてだろう?」



喜ぶ娘を見て、微笑む男。


妻が不倫していても、娘との時間だけは幸せだった。


娘は笑顔で凍った川を渡る。


男はその様子を眺めていた。


特に変わった様子はない。


男は娘から離れ、車のそばに来た。


娘は不思議そうに父親の方を見ていたが、何事もなかったかのように雪山の奥へと登っていく。


親として、本当は追いかけなければならない。


しかし、男は



「あれ?僕はここで何していたんだ…」



自分が何をしていたのか、誰と一緒にいたのか、さっぱり忘れ去っていた。


男はゆったりとした足取りで車に乗り込むと、エンジンをかけ、来た道を降りてしまう。


その様子を見ていた娘は、



「ぱぱ…?」



自分が置いて行かれた…すぐに察知出来たようだった。


慌てた様子でずるずると滑りながら、車を追いかけてく。


トテトテとゆっくりなスピードで走るもやはり追いつかない。


そのまま男は追いかける娘に気づかずに、山を下りた。








数十分車を走らせた男は自宅の駐車場へ車を停めた。



「ただいま~」



自宅とはいったが実際には実家。


男の母親と父親が住む家だった。



「いらっしゃい。・・・あなた娘は!?」



男を出迎えた母親は一人の男の姿を見て、血相を変えた。



「あんた今までどこにいたの?」


「分からない…さっきまでは山にいたみたいなんだ」



男の母親は男の肩を掴む。



「頭を整理しなさい…娘は覚えてる?」


「娘…あぁ」


「今までどこにいたの?」


「…山にいた」


「何しに行ったの…?」


「・・・」


思い出せないのか、男は眉間にシワを寄せ、顎に手を当てる。


母親は男の頬を一発ぶった。


ぱちん



「早く思い出しなさい!」



そう叫ぶも忘れさられた記憶はなかなか戻らない。


母親は男の腕を引っ張り、再び車に乗せた。



「さっきの山へ連れて行きなさい」



男はしぶしぶと車のエンジンをかけた。





また、数十分かけて、山へ車を走らせる。


車を停めていた山へ行く途中で、山犬の群れが道路の真ん中でたむろしているのが見えた。



「何してるの?あれ」



男の母親は不思議そうに山犬の群れの中心を見ようと目を凝らす。


男の隣でハッと息を漏らした母親は



「娘がいる…」



と言い、後部座席に予備として保管していた傘を片手に山犬の群れの中へ飛び込んでいった。


何が起こったのか不思議に感じた男も群れの中心を目を凝らしてみると、そこには、自分の娘が山犬にかみつかれている姿があった。


もうすでに何か所かかみつかれていて血まみれである。


男も以前趣味で持っていた狩猟用の銃を取り出し、山犬がびっくりするように大きな音を立てて空に撃った。


その音にびっくりした山犬たちは山奥へ逃げ去っていく。


男は自分の娘の元に走っていく。


母は泣きながら、娘に声をかけた。



「しっかり!!私がわかる??」



娘はどうやら意識がないようだ。


男は娘を車に乗せ、すぐさま近くの病院へ走った。


たどり着いた病院で何とか命だけは助かるでしょうと医者に告げられたが、噛まれた傷口から細菌に感染し、娘はそれから何日かして亡くなった。

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