ひどいひと

湊雲

午前二時、酒場にて




「ねえ。慰めてくださらない?」


 艶かしく囁いた女は、深い笑みを浮かべて指を絡めてきた。

 泣き腫らした赤い目もと。緩やかにウェーブのかかった黒髪に、ほのかに香る金木犀キンモクセイ。先刻までジュースのようにワインを飲んでいたからか、ふっくらとした唇はまだ濡れている。

 この店のバーテンダーである男は微笑した。自分の手に重ねられたものを一瞥し、穏やかな口調で問う。


「何があったんですか」

「……振られちゃったの。彼に」


 返ってきた弱々しい呟きに無言で頷いてやった。白い手を優しくほどくと、女のうつくしい顔がくしゃりと歪む。そのままカウンターに突っ伏して、再び迷子の子どものように泣き出す姿には、呆れの感情しか出てこない。

 確かこの客は来月で三十路を迎えるはずだ。けれど、成熟した年齢に似つかわしくない素直なたちをもっていて、それをいつまでも捨てられずにいる。


 それにしても――。と眉根を寄せて男は頬杖をついた。

 ふたりきりの店内で無防備に泣きじゃくったあげく、男に向かって「慰めて」ときたものだ。自分が相手でなければホテルに連れ込まれてもおかしくない。そのことをちゃんと分かっているのだろうか。


「……ひどいひと。あなたって、ほんっっと私に一ミリも興味がないのね。ゲイだと女に欲情しないの」

「さあ。どうでしょう」


 酔っぱらいの言葉を軽くいなしてから、男は内ポケットに突っ込んでいた携帯を取り出した。本来ならルール違反だが、ここにはそれを咎める者もいない。ずっと下まで続く送信者一覧から知人の名を選択して、メールを打ち出す。


「僕は他人に関心がないだけですよ。ま、自分を愛してくれない貴女を抱けるかっていうと微妙ですがね」


 ふうん、と気のない返事で話を切った女にため息をつく。

 そっちこそ興味もないくせに、なんで聞いたんだ。


 彼女と自分は似通った部分があると、男は思っていた。互いに干渉しない性格で、どこか愛に飢えている。

 だがそれだけだ。こちらの恋愛対象は同性。しかも片手では足りない程度には交際経験がある。それでも心から愛し合うことはなく、全て自分から振ってきた。

 何が駄目だったのだろう。誰でもいいから愛してみたいと思う気持ちに嘘はなかったはずなのに。相手だって同じだった。互いに、〝自分なりの誠実さ〟をずっと守っていた。けれど大人同士、引き際を察することだけは得意だったのが災いし、別れ話をしてもいつだって納得されてあっさり終わる。

 そこで寂しくならない時点で、今回も始まってすらいなかったことに気づくのだ。


「ここには彼との思い出が多すぎるわ。だから……今夜でやめにする。飲んだら帰るから、もう一杯いただける?」

「酔ってる自覚がないのは相当ですね。外まで歩ける自信があるならいいですが」


 温度の変わらない男の言葉に、苛立った様子で女が立ち上がる。


「――ああもう、分かったわよ! 倒れて貴方に迷惑かけたりしない。早く会計、を……」


 そして高級そうな鞄の中を探る手が止まる。

 また潤み出した透き通るような目を見て、さすがの男も再びため息をつくことはなかった。ある程度の年月を生きていれば、何も上手くいかない日のもどかしさくらいは分かる。大丈夫ですかと声をかけても、ただ涙腺を刺激するだけだ。


 時計の長針が十に差し掛かった頃、カウンターの上で携帯が静かに振動した。


 流れるような動作で掴み、開いたメールの内容に思わず笑みをこぼす。訝しげな表情になった女にも見せると、その目が徐々に丸くなっていく。


 ――貴方の元恋人が酔い潰れそうなのでどうにかしてください。

 ――わかった、ちょうど近いからすぐ向かうわ。それまであいつのこと頼む。


 顔馴染みの客と連絡先を交換してから、初めて交わされたやり取りだった。


「なんで……。だって、彼とは別れたのに……」

「貴女のことを大事に思っているんでしょう。関係性が変わっても、そんなもんですよ。きっと」


 僕には理解できませんけど。

 漏れ出そうになる無機質な感情を殺して、苦笑する。

 男にとって、元恋人はしょせん〝他人〟だ。それ以上でもそれ以下でもない。だから女が形容した「ひどいひと」というのも、あながち間違いではないのだが。

 花がほころぶような笑顔で携帯を突き返した彼女の手を、そっと掴んで引き留める。不思議そうに向けられた視線を肌に感じながら、口を開いた。


「……愛せるかも、抱けるかも分からないですけど。僕ら、そこそこ合ってる人間だと思いませんか」

「……ふふっ」


 笑われた。ちょっとした気まぐれだと気づかれたのか、はたまた何か閃いたのか。

 すり抜けていく手を見て、ああ後者か、とぼんやり思う。優しく拒絶し、無言の微笑みで制す。仕返しのつもりなのだろう、配役が逆転した再現を見ている気分だ。


「知ってる? 他人に関心のないひとと上手く付き合えるのは、結局似たようなひとなの。私だってそう。……つまり、貴方はこの返事に一喜一憂する必要はないってことよ」


 まさか、こんな返事を聞くことになるとは。


 自分は愛がなくても生きていける人間だと、男は知っていた。ほしいと思ってはいても、それは一生届かないものだということも。どこかで恋愛を諦めていた部分があったのは否めない。

 それを自覚したときにはもう、他人に知られたくない脆い部分に変わっていた。おそらく見栄を張っていただけなのだ。自分も人並みに誰かを愛せる、無関心から抜け出せる日だってくるのだと。 

 けれど、心の深淵は見透かされた。

 永遠に閉じ込めておきたかったのは、何だったのか。放たれた言葉に痛みを覚えることは、ない。


 なぜか胸の奥が凪いだまま、踵を返した華奢な背中を見送る。

 軽やかに閉じたウエスタンドアの音と同時に、身体の硬直が解けた。


 全く……。貴女の方が、よっぽど――。


 続く言葉は呑み込んだ。



 代わりばえのない男の日常の半分くらいは、微量の惰性で動いている。

 三日も経てば忘れてしまうような、中身のないやり取り。今後の付き合いが確立されていない他人と交わす言葉の戯れは、たいてい何の生産性もない。

 だがそれは、確実に明日の活力になっていた。酒場で色々な客と接していると、ときどき眩くておおきな何かに呑み込まれそうな感覚に襲われる。気後れと称するのが正しいと思う。だからこそ、世の中すごい人間ばかりじゃないと感じるとき、少しだけ息がしやすくなるのだ。そんな具合に、――案外救われていたりする。


 ……だったら、今までの人生もこれからも、きっと悪くないものなのだろう。男はそう思わずにはいられなかった。



(よし。決めた)


 そろそろ来るであろう常連客を帰したら、朝まで一人で飲み明かそう。どのワインを開けようかと思考を巡らせながら、男はグラスを片づけ出した。

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ひどいひと 湊雲 @moln

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