烏の幽霊

秋都 鮭丸

烏の幽霊

 私は烏が嫌いだ。小さい頃、2羽の烏に襲われたことがある。繁殖期がどうとか、巣の近くがどうとか知らないが、とにかく奴らは私を攻撃対象にした。頭を掠める黒い嘴。ばさばさ散る黒い羽根。奇怪な鳴き声。思い出すだけで背が凍る。

 それ以来、烏を見かけるたびに身体がすくむようになった。本当に腹立たしい。


 ベランダから視界に入る電柱の上にも、烏が1羽留まっている。おお怖い。目を付けられたらたまらない。私はそそくさと部屋に戻り窓を閉めた。話の通じない相手というのは、関わらないのが一番だ。さて、コーヒーでも淹れようか。


 その時、背後で羽ばたく気配を感じた。


 振り返ると、窓の向こうのベランダの端に、先程の烏が留まっているではないか。どこにあるのかわからないような真っ黒な瞳は、確実に私を捉えている。

 一体何故。

 しばしの間、私達は睨み合った。たった一枚のガラスを隔てて。私が一体、何をしたというのか。前世か? 前世で烏を殺しでもしたのか? 勘弁してくれ覚えちゃいない。


 混乱する私の目の前で、その烏は飛び立った。



 窓ガラスに向かって。



 衝突する……! それで怪我でもして、私のせいにされたら溜まったものじゃないぞ! よせバカ!


 妙な心配をする私を余所に、烏は窓をすり抜けた。

 それから、部屋中央のローテーブルに着陸する烏。

 そうして再び私を睨む。


 ……ん?


 窓を閉め忘れて、いたのか?

 いやそんなはずはない。そこにはガラスが存在する。

 それなのに、部屋の中には烏が存在する。


 烏は確かに、その窓ガラスをすり抜けた。


 夢か? 幻か? 頬でもつねるか? 

 目の前の烏は嘴を動かす。そこから発せられるのは、不快な鳴き声ではなかった。

「ここはワシの巣なのだが?」


 いよいよ頭がおかしくなったらしい。私の頭がだ。

 目の前の烏は確かに言葉を発した。ご丁寧に日本語を。

 それに対する私も私だった。

「お前は鷲ではなくて烏だろうに」



 話を聞くに、こいつは烏の幽霊らしい。幽霊になって以来、この部屋を巣と主張し、入居者をことごとく追っ払ってきたそうだ。一銭の金も落とさぬくせに。なんとずぶとい烏だろうか。

「貴様もワシが怖いのだろう? 人間は幽霊を怖がるものだ」

 私が怖いのは烏の方だ。幽霊の方を怖がっているわけではない。

「なんで烏が化けて出る。未練でもあるのか」

「む、ワシの未練に興味があるのか」

「未練を晴らしてさっさと成仏しろ」

「よろしい! では手伝わせてやる!」

「うわ、翼を広げるな! 羽根が散るだろうが!」

「散らん! ワシは幽霊ぞ」

「あぁ、そうだったか……」

 床を見ると、確かに羽根は落ちていない。

「で、何をすればいいんだ?」

「クルミを持ってこい」

「くるみ?」

「あと車に乗ってこい」

「くるま?」


「あぁ、クルミと車ね……」

 こいつのやりたいことが、なんとなくわかった気がする。



 わざわざレンタカーを借りてやった。あの烏とおさらばするためなら仕方あるまい。

 そのままクルミを買って帰った。これで成仏の準備は万端だ。

 部屋に着くと、烏はソファの上でくつろいでいやがった。

「おい、クルミと車を用意したぞ」

「ん、よろしい」

 なにがよろしいだ偉そうに。ばさばさ翼を動かしながら、奴はベランダに飛び移る。

「では外に出向こう」

「はいはい」


 少し日差しの強い日だった。アスファルトの上はじわりと熱い。私は買ってきた殻付きのクルミを、幽霊烏に向かって投げた。

「ほらクルミだ、好きにしろ」

「できん!」

「できん?」

 アスファルトに転がるクルミを、烏は覗き込むことしかしていない。触ろうともしない。何がしたいんだこいつは……。


「動かせん。ワシは幽霊ゆえ」

 そこの融通は利かないのね。それじゃ、どうしろと?

「貴様が動かせ」

 冗談じゃない。

「ワシの指示通りに」

 まったくもって、冗談じゃない。

「お前の手足になれと言うのか」

「ワシを成仏させたいのだろう?」

 非常に不愉快だが致し方あるまい。私はこの幽霊烏に従うことにした。


「そっちじゃない、もっと右に」

「何言ってる、車のタイヤはここを通るぞ」

「一発で成功するなバカ者。最初は失敗するものだ」

「一発で済ませろアホウドリめ」

「ワシは烏だ!」

「紛らわしいわ!」


 失敗から調整を繰り返し、徐々に成功に近づける。こいつはその過程を楽しみたいらしい。付き合わされるこちらの身にもなって欲しいものだ。いつまでやる気だ。

「さっきのは惜しかった。ほれ、少し左に調整しろ」

 高かった太陽は、もはや傾き始めている。言われるがまま、私はアスファルトの上のクルミを調整する。

「よし、乗れ」

「はいはい」

 クルミをセッティングし、私は車に乗り込んだ。

 アスファルトに這いつくばり、車に乗って少し動かし、それから再びアスファルトに這いつくばる。はたから見たら不審者そのもの。今後のご近所生活に、不安の影が落とされている。


「これで決めさせてくれよ……」

 車をゆっくりと発進させる。先程置いたクルミの真上を、左前輪が通るはずだ。長きに渡る戦いの終わりが、じわじわと近づいてくるのを感じる。

 耳をすませば、エンジン音の向こうに微かに感じる。ぱきぱきと割れる何かの音。左前輪で踏みつけた異物。飛び回る烏。5時の鐘。


 気付けば、私の口元も緩んでいた。


「これで満足か」

「あぁ、満足だ」

 粉々に割れたクルミを眺め、幽霊烏は翼を広げる。

「貴様のおかげだな、礼を言うぞ」

「いいからとっとと成仏しろ」

「照れ屋さんめ」

 そう言い残して、烏は空へと飛び立った。電柱を超え、建物を超え、遥か上空雲を超え、見えなくなるまで空高く。物理的に天に昇るとは驚いた。

 なんとなく空に手を伸ばす。ヒトは飛べない。空には届かない。奴らは平気で飛べるのに。


「だから烏は嫌いなんだ」


 私は、レンタカーの鍵をくるくると回した。

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烏の幽霊 秋都 鮭丸 @sakemaru

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