[香 第三話 喫茶店で]

 二人は雰囲気のいい小さな喫茶店にいた。百五十年前に使われていたという蔵をリフォームして作られたその喫茶店は昔のたたずまいが上手に残されていて、とても落ち着く。柱の太い木はどっしりと重みがあり、黒光している。木の壁の古びた傷やシミは赴きがあり、所々に使われている新しい木とのコントラストと調和、その温もりが心を穏やかにしてくれる。

 ここは私の最寄駅である「麦穂駅むぎほえき」前にあるお気に入りの場所。

 喫茶店の名前は「むぎ」。ここで一人、カプチーノを飲みながら、スマホを片手に小説を書くのが好きだった。ここ二ヶ月程は足を運ぶ事がなくなっていたけれど、涼さんが会いたがっていたので、私はここに誘った。


 涼さんはたまたま私と同じ長野県に住んでいた。そうは言っても長野県は広く、電車を乗り継いで三時間位かかる。私の住む村は昔から変わらない田舎の村だ。

 この村には何も無いけれど、四季の変化がはっきりしているし、キツネやウサギが同じフィールドに暮らしていて、夜は満天の星達が見守ってくれる、私の大好きな村だ。そして二年前に「麦の穂の家」がオープンしたおかげで村は少し活気づいた。


 私が「麦の穂の家」の少し重たいドアを開けるといつもの優しい声がした。

「いらっしゃいませ」

 私と同い年位のご夫婦が営んでいて、奥さんが接客をしている。私は馴染みの客で顔は覚えてもらっているけれど、特に何かを話しかけられるでもなく、長時間滞在していてもそっとしておいてくれて、とても居心地が良い。


 窓際に二十歳位の男性が一人座っていて、私が入っていくなり立ち上がって深くおじきをした。私も慌てておじきを返した。

「香さんですか?」

「はい」

「はじめまして。藍染涼です」

 細っそりとした清潔そうな身なりと端正な顔立ちに少しドキッとした。顔には似合わないような緊張しきった硬い仕草がちょっと可愛いなと思った。


「はじめまして。そよ風香です。今日は遠く迄来てくれてありがとう。まあ、座りましょう」

 私達は小一時間程をそこで過ごした。彼からは、まるで小説のまんまのような、今時の青年っぽくない純朴さを感じた。


「ねえ、涼さんの事、これからリョウって呼んでいい?」

 私が言うと、えっと本当にビックリしたように目をまん丸くした。

「えっ⁉︎ い、いいですけど。勿論いいですけど、嬉しいですけど。ぼ、僕は香さんの事をな、何て呼べば‥‥‥?」

「カオって呼んでくれたら嬉しいな。私、リョウよりたぶん十歳位年上のおばちゃんだけどダメかな? それに敬語、苦手なんだよね。タメ口で話してくれたら嬉しいな」

 私はちょっと自分を崩してみたくって、そんな事を言ってみた。


「は、はい。いえ、うん。えー、ちょっと急にはムリです。少しずつ頑張ってみますから」

「ぷっ! 何か可愛い。リョウって本当に純朴なのね。リョウの小説の出だしから私思ってるんだけど、そんなに真面目に自分を表すんじゃなくて好きに書けばいいんだよ。『僕』を自由に書けばいい。小説なんだから。本当はこんな風に言いたいなとか、こんな事やってみたら相手はどう反応するだろう?とか、本当の自分には出来ない事を小説の中の僕にやらせてみてもいいんだよ。なりたい自分を書いていけば、実際の自分もそれに近づけるって事もある。小説は自由よ」

 リョウは真剣な眼差しで聞いている。どこまでも真面目な青年なんだろうと思う。


「僕、強くなりたいんです。可愛いとかそういうの嫌なんです。嫌なんだよ。男らしい言葉も使いたい。僕、いや、オレ、頑張るから。カオ、さん。じゃなくって、カオ。待ってて下さい。いや、待ってろよ。男らしくなってみせます。ぜ」


 本当に可愛いヤツだ。





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