兄の話(2)

「兄ちゃん、引っ越しの手続きってもう終わったの? ほんとにうちに住むの?」

「それは大丈夫。めんどくさいから住民票を移してなかったんだよね。銀行やカード類の住所変更届とか、なんにもしてない。僕ってほんと頭いいよね。おかげですべての手間が省けたよ」

「えぇ! 十年以上も東京に住んでたのに? その間、選挙一回も行ってないの!?」

「うん!」

 にっこり元気に答えてるんじゃねえ! 大人のくせに! 選挙は行けよ! 選挙権を得た暁には、絶対に一票たりとも無効にしないぞと俺は天に誓った。

「いや、でもあんたの部屋ないけど……」

 二階は個室が3つあり、俺と窓の部屋のほかに、一番広い九畳の和室を父親が使っている。新築当時は母もいて、両親の部屋として使われていたが、父が単身赴任となるずっと前から、両親は離婚している。母は俺たち子どもを残して、家を出て行ってしまったのだ。別に可哀相とか思わないでくれよ、どこにでも転がっている陳腐な話だ。

「父さんの部屋あるでしょ。いないし勝手に使うよ」

「いや、うちのお父さんデリケートだから、部屋勝手に使われると傷つくと思う……」

「言わなきゃわかんないって。父さんが帰省するときだけ、俺の存在感を全部隠蔽して、ネットカフェに泊まるから」

 完全犯罪を真顔で遂行するテロリストみたいな目で読は言う。実家ならWi-Fiが使い放題。ファミレスならドリンクバー代がかかるけど、家ならお茶も飲み放題ときている。仕事するなら実家だね、と彼は言うが、三年間仕事がなかったなら、フリーランスはあきらめて中途採用を目指して就活したほうがいいと思う。

「それに父さんからの仕送りあるんでしょ? それをちょこっとこっちにも分けてもらって……」

「あんた三十二歳だろうが!」

「温は元気だねえ。君も僕の年になればわかると思うけど、大人になったからといって、身体が動いて当然のように働く人ばかりじゃないんだよ。むしろ、労働する意味をどこにも見つけ出せない。日々無為に生きているのにもむなしさがつきまとうし、はぁ、じつに虚無だよ人生は。砂漠で茫然自失とするような心地だよ――」

「働くのは金のためだろうがよ! 他になんかある!?」

 読は無視して、すっかりくつろいでコーヒーを飲んでいた。今のこの状況でくつろげる要素があるだろうか。弟と妹には邪険にされ、実家に見知らぬ少女妖精が居着いている。

 俺とて、小遣いが足りない分はあくせくとアルバイトという労働をして対価を得ているのだ。その中から、微々たる量ではあるが貯金もしている。父子家庭かつ、単身赴任でがんばっている父親によけいな負担をかけたくないという健気なエピソード。労働能力を持ちながらも、ただ三年間だらだらしていた人間に金をせびられるのは解せない。

「あ、そうだ。温、バイトしてるってこの前メールに」

「してないもう辞めた」

 嘘だったが、ひとまず主張しておく。兄弟で骨肉の争いはしたくはない。

 読はただのお湯割りのインスタントコーヒーをそれはもううまそうに飲む。妙なオーラとカリスマ性があって、繊細そうに見えて図太いので、芸能界のほうが向いていたかも……。

 現に、エリーゼは読の手筋を見とれたように、コップを傾けるしぐさを、視線で焼け焦げそうなほど熱心に見ていた。

「あ、でさ、その子は誰なの? え?」

 現在分かっている範囲を説明すると、読は不思議慣れでもしているのかエリーゼを観察し、少し目を丸くしただけで済ませてしまった。

「へー、この家に憑いてる妖怪? バンシー? 日本で言う座敷わらしみたいなものか。おもしろいことしてるね、テーマパークみたい。帰ってきてよかったー。じゃあ、これから仲良くやっていこうよ」

「兄ちゃん話聞いてた? この家の住人の誰かがもうすぐ死ぬってことになるんだけど……。あんたもその候補に入ったよ、たった今……」

「まあまあ、そんな深刻にならんでもね。どうせみんな死ぬし」

 半端にのばした前髪を指でいじり、そういえば腹へった、と読は天井のLEDライトを見上げた。まぶしそうに目をつぶる。

「それより君ら、夕飯まだだよね。寿司かピザでも取ろうよ。僕おごるから」

「おい金ないんじゃなかったのかよ!」

「つれないこと言うなって。久しぶりなんだから、かわいい弟たちにごちそうさせてよ」

 絶対かわいいとか殊勝なこと思ってない、読はなにも考えていない。彼はスマホをポケットから取り出して出前の検索を始めた。その指間からちらりと見えたスマートフォンの本体は、つい何ヶ月か前に発売されたばかりの最新機種。俺は眉間にしわを寄せるしかなかった。

「ちょっと待てよ! 家賃払えない奴がなんでそんな高価な機種持ってるんだよ!」

「家にWi-Fiがあるからもうネット代かからないし、その分浮くから買った! 大丈夫、分割払いだし」

「大丈夫じゃねえ! 仕事見つかるまで叩き売りの格安スマホで充分だよ! 売れ今すぐ売れ!」

「えぇ~、やだ」

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