兄の話(1)
冬村読(ふゆむらよみ)、三十二歳。
大学進学を機に十八で家を出て、そのまま都会でグラフィックデザイナー、ウェブデザイナーとして就職し、約十年。
茶色味の強い柔らかな髪を、前髪長め重め、後ろ髪短めの流行のスタイルにしていて、それが憎たらしいほど似合う。放牧された羊のような、温和な表情をいつも浮かべている。
兄が帰ってきた。
「え? 兄ちゃん、アパートはどうした?」
「おや、かわいいお客さんが来てるねぇ。どうもどうも、いらっしゃい。ん? どこの子?」
読にもエリーゼの姿が見えるようだが、ぜんぜん驚いていない。ごく当たり前のように挨拶を交わしている。
「いやいやまって、なにその荷物? 待って仕事は?」
「んーと、勇退……? 各方面に惜しまれつつ……この技術で、身ひとつで食べて行こうと思ってさ」
「独立ってこと? 大丈夫なの? やっていける?」
ますます雲行きが怪しくなっていた。俺の目から見て、兄は社会生活がまともに送れるとはとうてい思えない人物だ。人柄がいいので人には好かれるが、とにかく抜けている。朝は起きられないし、いらないことを悪気もなく言ってしまうタイプ。
空気の読めない選手権で一位を取れる。会社勤めが続くとは思えなかったが、かといってフリーでやっていけるかというと、それも疑問だった。会社という枠組みや強制力がなければどこまでも休んでしまうような人だ。
「ま、三年前にもう辞めたんだけど。辞めたっていうかクビなんだけど」
「けっこう前じゃねえか!」
「それでフリーで仕事取ろうとして。ウェブサイト作って、フリーランスのサイトに登録して、仕事募集してもなかなか依頼も来なくてねぇ。ふと気づくと、何回か仕事したあとはまったく働いてなくって。あははは」
「つまり無職ってことじゃねーか!」
「いやぁ、それでデザイナー用アプリケーションソフトの契約金払えなくて……あれ高すぎるよね、まじで。途中で解約したけど仕事にならないし、困った困った」
兄は困ったように眉を下げて笑っているがその実まったく困っていないのだった。これはもう、思わず世話を焼いてしまいたくなる他人の本能に火をつける彼の動物的本能、これでごまかして許してもらおうという、計算のない純粋なモテしぐさだ。世話焼き本能が皆無の人間すらも、かきたててしまうほどの威力を持つ。
いつもニコニコと口の端を上向きに曲げ、上機嫌に見えて、その腹の中では一ミリたりとも笑っていない。心から笑いたいときにどうするのだろう。いやそんな日は来ないのだろう。
「それで貯金もつきてしまったので、ついにアパートを引き払ってきたわけ。残りの荷物は何日か後に送られてくるよ。いやぁ、実家があるっていいよね――。まあ僕、この家に住んだことないから、ただで泊まれるホテルだよね」
ホテルではない。この家は築十年のマイホームだ。老朽化の進んでいた古い家を建て替えたのは、兄が大学に進学してすぐ後のことだった。
もっと早く実家に戻っていれば、三年間も無駄に家賃を払うこともなかったのでは?と思うが、兄は兄なりに矜持があり、あまりここへは来たくなかったのかもしれない。気持ちはわかる。それに家には、歩く手榴弾みたいな奴がいるからな。
先ほどまでの傲慢な態度はどこへやら、窓は腰をへたらせてソファの背もたれの裏に隠れて、膝を抱えていた。
「やあ。まど」
ソファに膝立ちになって年の離れた妹に笑顔を向ける読。読にとって窓は、赤ん坊のようなものらしい。読が家を出た十八歳のとき、窓はまだ一歳だった。年に何度かやってくるお客さん。窓にとって読は、『ただ同じ家にいる人』の俺よりも遠い存在に違いない。
「うおおおおおおおおおお!」
地鳴りのように低く叫びながら窓は、ヤミウサのぬいぐるみを抱きつぶしながら飛び出して、階段を駆け上がっていった。必要以上の力を込めて扉が閉まる音。自室に閉じこもったらしい。そんなにあからさまに嫌悪するとは、長男も立つ瀬がない。その当人は頭をかいて、
「ふう。まぁいっか」と気にもせずに、台所を探ってコーヒーを入れはじめた。
ぜんぜんよくない。読が一人住まいのアパートを引き払ったせいで、俺の逃げ場もまた失われてしまった。それに、もうすぐ死ぬ人間の候補に読も加わったことになるのでは? だって彼はたった今からここに住むのだから。
金に困った無職の、ていたらくの兄だが、家族に変わりはないので、追い出すわけにもいくまい……。
二人家族が三人家族になったところで、生活費はさほど変わらないだろう。まとめて食材が買えるため手間が省けて逆に経済的になる側面もある。しかしとっくに失業手当の給付も終わっているのだ。いや、こいつのことだから失業手当給付の手続きをしていない可能性がある。会社都合なら結構貰えるはずだが、それをみすみす逃すとか……。心臓に悪いので追求するのはよそう。
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