16 御主人様、ゴブリンに出くわす
深い緑に囲まれた森の中は昼間も鬱蒼としていてじっとりしている。樹木が密にそびえ立ち前後左右を圧迫してくる上、足を一歩踏み出すと足裏に黒い腐葉土らしきものの感触が名状しがたき感覚をなぞる。緩やかに吹いてくる風は生ぬるく青臭さ鼻腔に張り付かせていき、それから隙あらば家の中に出現しているタイプの小さな虫や羽虫が飛び回り、幼虫やらミミズ、ムカデなどが地べたを這い回っている。
「……む、虫……」
「大丈夫ですよ。毒性のある虫はこの辺には居ません、刺されるとかぶれたり、かゆくなる虫が居るくらいです」
「……十分、大丈夫じゃなくない?」
「――そうですね。私は気にならないのですが、御主人様には虫除けの魔法をかけておきます。これで大丈夫では?」
「……そういうの最初にやってくれない?」
そもそも森の虫だからと言って油断してはいけないはずだ。例えば、マラリアを媒介する蚊などが居れば刺されるだけで十分致命傷になりうる。本来マラリアは亜熱帯から熱帯で発症する病気だが、寒冷地なのにマラリアが土着病の様になっている地域は元の世界にもあった訳で、よく知らない環境で虫が媒介する病気を無視するのはあり得ない事である。そのあたりをレクチャーしてもらった記憶が無い……まさか……。
「まさか……では有りません。私は気にならないし、虫に刺されないので失念していました」
「……刺されないのはゴーレムだからか?」
「詳しく説明すると長くなりますが、そう考えてくださって良いです――もっとも詳しい原理は私も知りません――気を取り直して行きましょう。御主人様」
……気を取りなさなくても気が進まないのだが、ゴーレムメイドに追い立てられるように屋敷から遠くの方に連れて行かれる。屋敷がみるみる小さくなり、森の木々に隠れて屋敷が見えなくなる……これは、不味い、もう自力では帰れない。もはや、方向すら分からない上に東西南北、どちらの方角に歩いているかもよく分からない……。
「現在、東の方に歩いています。1時間ほど走れば森を抜けますが、今は歩いているので恐らく1週間以上かかります」
……仮に1週間かかるとしたとき、時速4kmで1日6時間と仮定する。4かける6で1日24km進む計算、これに7をかけると168kmだ。168kmを1時間で走る?人間の限界超えていませんか?時速168kmと言うと高速道路を走る自動車より速く走っている計算になる。それも障害物だらけの森の中をだ……。もしかして障害物がなければ新幹線と競争できるのではないか?
「……いくらなんでも1時間で抜けるのは無理だろ?」
「失礼しました、1時間を切るぐらいでした。概ね用事で外に出るときの時間がそれぐらいですので……それに御主人様も付与術式を練習すれば時速200kmぐらいで駆け抜けられます。今でも象と互角に戦える直前の状態ですから、もう少し頑張れば大丈夫です」
……また走らせるつもりですか(長嘆息)
「……それで、何処に行くのだ」
「こちらの方に見晴らしの良い丘があるのです。森の中に突然広がる不思議な空間です――美しい場所ですので、そこまでお連れ致します」
……面倒くさいと御主人様は思った。それ以前に、そこも虫の巣窟ではないかと思うのですが……例えば青虫とか……。
「ふぅ……」
森の中を進んで行くと樹木の圧迫感は徐々に薄れ、地面も徐々にしっかりしてくる。獣道の様な道ができあがっており、さらに進むと広がる空間があらわれ、そこは緩やかな丘になっている。おおよそ半径数百メートルと言う空間が鬱蒼とした森の中に突然出現したのだ。森に囲まれたその丘陵の空間には木は茂っていない。代わりに草と色とりどりの花が生えていた。なぜこの空間が森ではなく草原になっているのかは謎だが、おそらく丘周辺の生態系がそのように均衡した結果であろう。見上げると空は青く、天は高い。宙空に浮いているふわっとした白い雲は濃い青の空にくっきりと浮かび上がっている。そして青い空から太陽の光が丘の上に差し込んでいた。陽光が丘の上の萌葱色の草花の上に降り注ぎ、草花はキラキラと輝いていている。太陽の光により舞い上がった空気はゆっくり丘の上に降りていき、そよ風が揺らいでいた。草花に降り注ぐ太陽の光とそよ風は踊りながら爽やかな空間を作り上げている。その中を足取り重く丘陵の頂上を目指していた。
「……めんどくさい……」
俺は溜息をついた。そもそも青い空と言っても現実との差はさほど感じない。都会の空と違い透き通っているぐらいの違いである。もしかすると、ただの背景の可能性もあるわけである。この情景が単なる背景だとすると爽やかでも何でもない状態だ。あまり面倒なので身体を大地に投げ出すも下に茂っている草は水を含んでおり、ねちゃっとした感触が身体に広がる。思わず糞を踏んでいないか確認したぐらいだ。背筋に虫唾が走る。そして下処理を失敗した野草の様な生臭い土と草の匂いが飛び込んでくる。えも言われぬ不快感だ。草花の周りは、白や黄色などの羽を持った蝶がひらひら飛んでいるが、蝶と蛾の違いに名称以外はない事を思い出し更に陰鬱な気分になる。一見綺麗なのが蝶でどう見ても不気味なのが蛾だ。それ以外はほぼ同じである。フランス語などでは、蝶と蛾を区別しない。どちらもパピヨンだ。
「……うゎ……」
陰鬱な気分でその辺に体育座りして、遠い目をする事にしたた青い空も萌葱色に染まる草原も何の癒しになっていない。
※※※
「これはいけませんね……」
これはいけない。御主人様は疲れておられる。気分転換させないといけない――とメイドは思った。
※※※
俺は体育座りをして居たが、やがてそれにも飽きて、ヤレヤレと重い腰を上げる。そろそろ退散しようかと、丘陵から森を覗くと森の中が良く見えた。……どうやら肉体だけでなく視力も良くなっている様だ――御主人様は思った。試しに目をこらしてみると望遠鏡の様に遠くの様子が手に取るように見ることが出来た。しかし、代わりに視界がかなり狭くなりすぎる。これは使えたモノでは無いと思った。焦点を徐々に動かしていくと緑色をした矮小な体躯の集団が遠くの方から見えた。森に溶け込むような禍々しい肌の色に人面魚を思わせるような禍々しい容貌をした無理矢理二本足で歩いている集団が目に飛び込んで来たのだ。
もしかして、これはゴブリンと言う代物ではないか?その数は100を超える。中にはゴブリンらしからぬ巨大な体躯を持つ個体が何体か混じっており、恐らくホブやゴブリンナイトと呼ばれるものの可能性が高い。その集団が森から丘陵の方に向かって来ている。
……さて、逃げよう……と思ったが元来た道が分からない。天下無敵の方向音痴だ。現実でも待ち合わせの場所を探すのに明後日の方向に行ってしまいスマホのマップアプリを見ながら彷徨うこと1時間、ようやく辿り着いたエピソードがあるほどの方向音痴である。間違った方向に逃げるとゴブリンより怖い魔獣が出てくる可能性がある。それだけは避けたいと御主人様は思ったが動き出した足は止まらない。パニック状態に陥りそのまま元来た道の反対側に一直線で走り出していた。
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