【十一】
夕立に
夜の底に、レイの声が流れていく。
限界を感じさせない。どこまでも遠く伸びていく。一切の
夜の膜の中で、声量こそ抑えられていたけれど、もしその膜を破り、彼が歌声を存分に響かせることをゆるされたなら、いったいどれだけのひとの心を打つだろう。
レイがひとりで千景のもとを訪れるとき、千景は約束通り、レイに星々のことを次々に教えた。天には星の
お礼だよ、と、はにかんだ笑みを浮かべて、レイは千景の望む通り、歌を聴かせてくれるようになった。最初の頃こそ気恥ずかしさが
「今夜で歌いおさめだよ」
千景の与えた水出しの緑茶を受けながら、レイは静かに、そう告げた。
「あんたを狙っていた偉い人の件、片が付いたから」
明日の夜か明後日には、解放されるよ。
「……そうか」
玻璃の器を、月の影に
「
彼の名を、呼んだ。彼にあてた、文字のもつ意味とともに。
「私のもとに、来ないか?」
「え……?」
目深に被った帽子の下で、レイの瞳が見ひらかれる。
「君の声は、未来を奏でられる声だ。星に興味があるなら、私の塾にも迎えよう」
夜闇の淵から、朝陽の
「……それは、できない」
レイは俯く。
リクを、置いてはゆけない。
「もちろん、彼も一緒だ。ふたりで、来られないだろうか」
ここにいても、長くは生きられないだろう。
「千景」
月を映した玻璃の器を、レイは、ぎゅっと握った。
「ここを出たら、あいつは……この国の法律に、殺される」
「……大罪を?」
「そう。俺のせいでね」
父親殺しの罪に、時効はない。
「見つかれば、極刑なんだ」
だから、ずっと、夜の中に。
「……そうか」
こと、と静かに、千景は茶器を置いた。
唇を引き結び、レイは振り切るように顔を上げる。
「ね、最後にさ、あれ見せてよ。ずっと気になってたんだ」
つとめて明るい声をつくり、レイは部屋の隅を視線で示す。ここへ来てから一度も布を解かれることのなかった包みが、ひっそりと置かれていた。
「星を観測する道具なんだろ? 観てみたいな、俺」
無邪気に声を弾ませたレイに、千景は目を伏せた。
「すまない。あれは、父の形見で……もう、ずっと、壊れているんだ」
「……父……親…………?」
レイの声から、すっと色が消える。千景は頷いた。
「私の研究は、父のあとを継いだだけだ」
「……どうして死んだの?」
「私と同じだ。私は君たちに助けられたが、父は違った」
「…………顕学者狩り……」
レイが呟くと、千景は力なく笑った。
「君たちに守られた日、私は……これを葬りに行くつもりで家を出た」
都を離れて、街の明かりに阻まれることなく、最も美しく星を望める場所に置きに行こう、と。
「
白い頬に、手を伸ばす。千景を見上げるレイのまなざしは、帽子の影に隠れて見えない。
「最後に、君を憶えて往きたいと言ったら――」
言葉の終わりは、
「顔を晒すことは、禁じられているんだ」
左手で千景の
「それでも、全部、憶えてくれる?」
千景の目を、襷で覆った。千景は静かに、それを受けた。ぱさり、とレイが帽子を取る。白い髪が月の光を弾いて輝く。表情を落とした琥珀の瞳が、千景を見下ろす。人々が讃えてやまない《白亜》のしるし。けれど千景の瞳が、それを映すことはない。
千景の唇に、レイは自分のそれを、ふわりと重ねた。薄くやわらかなレイの唇は、
(……背中が……?)
レイの衣を肩から落とし、細い背中に回した手を、千景は止めた。普通の肌の手触りとは違う。千景の
「火傷の痕だよ」
きもちわるい?
くすりと笑うレイの唇を、千景は
「触れても、痛まないか?」
「……平気だよ。古い傷だ」
レイは微笑む。千景の手が、背中を撫でる。骨のかたちがみてとれる肩、すらりと伸びた華奢な腕、肋の起伏、レイの輪郭を写しとるように、丁寧な手つきで触れていく。唇は、レイの額に、おとして、すっと通った鼻筋を辿る。行きつく先は、淡い吐息の
(もっと、聴かせてくれ)
抱き寄せて、胸を重ねた。ことことと響く音と熱。レイの背中を支えながら、徐に、千景は組み敷く。首筋から鎖骨を通って滑らせた舌先が、レイの胸の花芯をとらえる。ちりりと歯を立てると、レイの体が、ちいさくはねた。反らされた背骨が千景の指を導く。伝い下りていく。影の淵へ。
レイの体を、奏でていく。
千景が指を動かす度、レイの吐息はふるふると震え、細い喉は張りつめた
――もっと。
レイの影から、千景を迎える水の音が響きはじめる。レイの腕が、千景の肩に、
――聴いて。
囁く声が、闇にとける。指を抜いて、千景は進んだ。レイの奥に。音を生み出す、熱のみなもとに。
(きれい、だ)
レイの音色を全身で聴く。双眸を隠された暗闇の中、音は光となって、千景の体の奥に、その
#
夜の帳が、黎明に染まりはじめていた。障子の隙間から、朝霧が細く流れ込んでいる。ひんやりとした無音。鳥の鳴き声も、まだ遠い。
千景の腕の中で、レイは静かに目をあけた。眠ったふりをしていただけだ。千景と共にはゆけない。ここちよい千景の温もりに包まれて眠りに落ちることはできない。
(戻らないと……)
もうすぐ見張りの交代の時間だ。レイはそっと体を起こす。レイを抱えていた千景の腕が、レイの背中から滑り落ちた。この体を奏でていた長い指は、今は力なく閉じられている。
(千景)
心の中で、レイは囁く。口もとに、薄く笑みを浮かべて。
(俺の背中の火傷はね)
俺が、最初に愛した、かみさまがくれたものなんだ。
レイは微笑む。砕けた硝子をちりばめるように。
(知ってる? 千景)
辺境の村に生まれた《白亜》の子供が、どんな扱いを受けるのか。
(願って、祈って、
燃え盛る炎に飛び込んで、この体を焼こうとした自分を、連れ出してくれたのが、
(千景は……)
帽子で顔を隠していても、髪や肌の色で、この体が《白亜》だと、とうに気づいていただろう。けれど千景は、何も言わなかった。千景が美しいと
千景の手に、そっと触れる。
大きな掌。骨ばった長い指。おとなの手。じわり、と熱が滲む。
あのひとの体も、こんなふうに、あたたかかった?
(ねえ? リク)
閉ざされた納戸の隙間から、ずっと見ていた。
(俺なら、拒んだりしなかったのに)
いくらだって、この体を捧げたのに。
あのひとが触れたのは、リクばかりで。
帽子を手に取り、深く被った。千景の両目を覆う
(さよなら、千景)
衣を整え、
(俺は、リクの、かみさまだから)
リクを生かすための偶像。
(俺のせいで、リクは、俺のかみさまを殺してしまったから)
いや、違う。
殺したのは、自分だ。
願って、焦がれて、希って。
リクの心を、刃に使って。
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