【十一】

 夕立にうるおった草木から、甘いみどりの香りが立ち上る。穏やかに流れる涼風が、夜霧をゆるやかに撹拌し、とろりと闇を包み込む。

 夜の底に、レイの声が流れていく。

 限界を感じさせない。どこまでも遠く伸びていく。一切のよどみをすすぐ清流を思わせる、果てなく透きとおった歌声。

 夜の膜の中で、声量こそ抑えられていたけれど、もしその膜を破り、彼が歌声を存分に響かせることをゆるされたなら、いったいどれだけのひとの心を打つだろう。

 レイがひとりで千景のもとを訪れるとき、千景は約束通り、レイに星々のことを次々に教えた。天には星のめぐる道があること、陽の高さや長さを算術であらわすことができること、他にもたくさん、レイは聴きたがったし、千景にとっても、興味津々な少年に知識の引き出しを開けられてゆくのは、久々に心地が良かった。

 お礼だよ、と、はにかんだ笑みを浮かべて、レイは千景の望む通り、歌を聴かせてくれるようになった。最初の頃こそ気恥ずかしさがまさっていたようだったが、慣れてからは彼の挑戦的な性格も相俟あいまって、千景の期待を遥かに超えた上達をみせた。

「今夜で歌いおさめだよ」

 千景の与えた水出しの緑茶を受けながら、レイは静かに、そう告げた。

「あんたを狙っていた偉い人の件、片が付いたから」

 明日の夜か明後日には、解放されるよ。

「……そうか」

 玻璃の器を、月の影にかざす。水面みなも揺蕩たゆたう、冴えた琥珀の光。もうすぐ満月だ。

れい

 彼の名を、呼んだ。彼にあてた、文字のもつ意味とともに。

「私のもとに、来ないか?」

「え……?」

 目深に被った帽子の下で、レイの瞳が見ひらかれる。

「君の声は、未来を奏でられる声だ。星に興味があるなら、私の塾にも迎えよう」

 夜闇の淵から、朝陽のみぎわに。

「……それは、できない」

 レイは俯く。

 リクを、置いてはゆけない。

「もちろん、彼も一緒だ。ふたりで、来られないだろうか」

 ここにいても、長くは生きられないだろう。

「千景」

 月を映した玻璃の器を、レイは、ぎゅっと握った。

「ここを出たら、あいつは……この国の法律に、殺される」

「……大罪を?」

「そう。俺のせいでね」

 父親殺しの罪に、時効はない。

「見つかれば、極刑なんだ」

 だから、ずっと、夜の中に。

「……そうか」

 こと、と静かに、千景は茶器を置いた。

 唇を引き結び、レイは振り切るように顔を上げる。

「ね、最後にさ、あれ見せてよ。ずっと気になってたんだ」

 つとめて明るい声をつくり、レイは部屋の隅を視線で示す。ここへ来てから一度も布を解かれることのなかった包みが、ひっそりと置かれていた。

「星を観測する道具なんだろ? 観てみたいな、俺」

 無邪気に声を弾ませたレイに、千景は目を伏せた。

「すまない。あれは、父の形見で……もう、ずっと、壊れているんだ」

「……父……親…………?」

 レイの声から、すっと色が消える。千景は頷いた。

「私の研究は、父のあとを継いだだけだ」

「……どうして死んだの?」

「私と同じだ。私は君たちに助けられたが、父は違った」

「…………顕学者狩り……」

 レイが呟くと、千景は力なく笑った。

「君たちに守られた日、私は……これを葬りに行くつもりで家を出た」

 都を離れて、街の明かりに阻まれることなく、最も美しく星を望める場所に置きに行こう、と。

れい

 白い頬に、手を伸ばす。千景を見上げるレイのまなざしは、帽子の影に隠れて見えない。

「最後に、君を憶えて往きたいと言ったら――」

 言葉の終わりは、かげる月の光に遮られた。千景の両目を、ひんやりとしたてのひらが覆う。

「顔を晒すことは、禁じられているんだ」

 左手で千景のまぶたを閉ざしたまま、レイは右手でしゅるりとたすきを解いた。

「それでも、全部、憶えてくれる?」

 千景の目を、襷で覆った。千景は静かに、それを受けた。ぱさり、とレイが帽子を取る。白い髪が月の光を弾いて輝く。表情を落とした琥珀の瞳が、千景を見下ろす。人々が讃えてやまない《白亜》のしるし。けれど千景の瞳が、それを映すことはない。

 千景の唇に、レイは自分のそれを、ふわりと重ねた。薄くやわらかなレイの唇は、つゆたたえた林檎の花のようだった。千景が舌先で問いかけると、綻んだ関はするりと千景を迎え入れた。綺麗に並んだ砦の石を、千景はひとつひとつなぞっていく。レイの体を、憶えていく。

(……背中が……?)

 レイの衣を肩から落とし、細い背中に回した手を、千景は止めた。普通の肌の手触りとは違う。千景の途惑とまどいに、レイはささやく。

「火傷の痕だよ」

 きもちわるい?

 くすりと笑うレイの唇を、千景はふさいだ。わざと荒々しいくちづけで。

「触れても、痛まないか?」

「……平気だよ。古い傷だ」

 レイは微笑む。千景の手が、背中を撫でる。骨のかたちがみてとれる肩、すらりと伸びた華奢な腕、肋の起伏、レイの輪郭を写しとるように、丁寧な手つきで触れていく。唇は、レイの額に、おとして、すっと通った鼻筋を辿る。行きつく先は、淡い吐息のこぼれる唇。舌でいざない、強く吸い上げる。レイの喉の奥から声が滲む。闇に滴る声の雫は、歌声よりも高く甘い。

(もっと、聴かせてくれ)

 抱き寄せて、胸を重ねた。ことことと響く音と熱。レイの背中を支えながら、徐に、千景は組み敷く。首筋から鎖骨を通って滑らせた舌先が、レイの胸の花芯をとらえる。ちりりと歯を立てると、レイの体が、ちいさくはねた。反らされた背骨が千景の指を導く。伝い下りていく。影の淵へ。

 レイの体を、奏でていく。

 千景が指を動かす度、レイの吐息はふるふると震え、細い喉は張りつめたこといとを弾くように、高く澄んだ音を鳴らす。レイは両手で口もとを覆った。気づいた千景が、それを外す。封じてくれるな、と唇を合わせ舌で繋ぐ。レイの体が奏でる音のひとつひとつを、千景は呑み込んでいく。憶えていく。

――もっと。

 レイの影から、千景を迎える水の音が響きはじめる。レイの腕が、千景の肩に、すがりついていく。強く、つよく。

――聴いて。

 囁く声が、闇にとける。指を抜いて、千景は進んだ。レイの奥に。音を生み出す、熱のみなもとに。

(きれい、だ)

 レイの音色を全身で聴く。双眸を隠された暗闇の中、音は光となって、千景の体の奥に、そのくらきに、煌々こうこうと灯るように響き渡る。夜空に瞬く星々のように、はかなく澄んだ輝き。願いの届かない、それは、透明な美しさだった。





 夜の帳が、黎明に染まりはじめていた。障子の隙間から、朝霧が細く流れ込んでいる。ひんやりとした無音。鳥の鳴き声も、まだ遠い。

 千景の腕の中で、レイは静かに目をあけた。眠ったふりをしていただけだ。千景と共にはゆけない。ここちよい千景の温もりに包まれて眠りに落ちることはできない。

(戻らないと……)

 もうすぐ見張りの交代の時間だ。レイはそっと体を起こす。レイを抱えていた千景の腕が、レイの背中から滑り落ちた。この体を奏でていた長い指は、今は力なく閉じられている。

(千景)

 心の中で、レイは囁く。口もとに、薄く笑みを浮かべて。

(俺の背中の火傷はね)


 俺が、最初に愛した、かみさまがくれたものなんだ。


 レイは微笑む。砕けた硝子をちりばめるように。

(知ってる? 千景)

 辺境の村に生まれた《白亜》の子供が、どんな扱いを受けるのか。

(願って、祈って、こいねがって、呪って、恨んで、その果てで)


 燃え盛る炎に飛び込んで、この体を焼こうとした自分を、連れ出してくれたのが、あのひとかみさまだった。


(千景は……)

 帽子で顔を隠していても、髪や肌の色で、この体が《白亜》だと、とうに気づいていただろう。けれど千景は、何も言わなかった。千景が美しいとたたえたのは、レイの外殻ではなく、レイの内から生まれる声だった。

 千景の手に、そっと触れる。

 大きな掌。骨ばった長い指。おとなの手。じわり、と熱が滲む。

 あのひとの体も、こんなふうに、あたたかかった?

(ねえ? リク)

 閉ざされた納戸の隙間から、ずっと見ていた。

 養父あのひとに抱かれつづけるリクの姿を。

(俺なら、拒んだりしなかったのに)

 いくらだって、この体を捧げたのに。


 あのひとが触れたのは、リクばかりで。


 帽子を手に取り、深く被った。千景の両目を覆うたすきを、そっと外す。千景は目を覚まさないでいてくれた。そういうふりをしていてくれた。

(さよなら、千景)

 衣を整え、きびすを返す。冷たく澄んだ朝の青が身を包み、赤々とくすぶる熱を奪い去っていく。

(俺は、リクの、かみさまだから)

 リクを生かすための偶像。

(俺のせいで、リクは、俺のかみさまを殺してしまったから)

 いや、違う。

 殺したのは、自分だ。

 願って、焦がれて、希って。


 リクの心を、刃に使って。


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