【九】

 長閑のどかな鳥のさえずりが、森の静寂を彩っていた。燦々さんさんと降り注ぐ白い陽射しが、朝霧が晴れたばかりの澄んだ空気を洗い、木々の緑を鮮やかに艶めかせている。

「おや、君ひとりとは、珍しい」

 文机に向かっていた千景は、朝餉あさげの膳を下げに来たレイに、笑みのかたちに目を細めた。

あるじに、他の用事で呼ばれているからね」

 こっちは片づけるだけだし、とレイは軽く肩をすくめた。

「いつも、かたじけないな」

「別に。仕事だから」

 レイは、ふるりと首を振る。顔を隠す帽子は、深く被ったままだ。

「君の名をきいても?」

 千景がレイに向き直る。影の下、レイの瞳に、微かに警戒の光が灯る。少し考えるように視線を外して、レイは小さく呟くように言った。

「レイだよ」

 リクと呼び合うときにしか使わない名前だ。仕事では毎回、違った偽名を使うから。

「良い響きだ。どんな字を書く?」

 千景は重ねて尋ねた。レイはゆるくかぶりを振る。

「字なんて、ないよ。俺が生まれた村に、読み書きができるおとなはいなかったから」

 文字も、基本的な算術も、主に拾われて学んだ。リクも、ライドウも、そうだ。名前は音だけで、文字はもたない。

「そうか……」

 千景は少し声を落として視線を下げた。レイは、ことりと首をかしげる。

「文字に、こだわりがあるの?」

「ああ……少しな」

 千景の頬が苦笑に緩む。

「私は、この国に、さほど愛着をもてずにいるが、この国の言葉は好きなのだ。文字のひとつひとつに意味がある」

 こころなしか弾んだ声だった。レイの瞳に、千景に対する興味が宿る。

「じゃあ、俺の名前は、どんな字が似合うと思う?」

 ぺたりと畳に座り直して、レイは千景を見上げた。そうだな、と千景は文机の上から半紙を一枚取り上げた。さらさらと筆が紙面を流れる。綴られた文字を、レイは覗き込んだ。

「……玲……?」

「ああ。宝玉が触れ合う、涼しく冴えた音をあらわす。君の声にあてた文字だ」

「声?」

 帽子の下で、レイは、きょとんと瞬きをした。自分で気がついていないのか、と千景は少し驚いた。

「君の声は、とても美しい。まさに、うたうためにある声だ」

 澱みなく答えた千景に、レイは細い肩をすくめ、きまりが悪そうに視線を逸らした。

「……あんた、音楽家だっけ?」

「いいや、一介の学者だ」

 しかし、美しいと感じる心は万人がもつものだろう?

「願わくは、聴かせてもらえないか? 君の歌声を」

 そろそろ論文の執筆にも飽いてきたところなのだ、と千景は笑った。明るい笑みだった。

「……本気で言っているなら、とんでもなく人たらしだよ、あんた」

「ははっ、あいにく本気だ。私は世辞が嫌いだからな」

 ここへ来て初めて千景は楽しそうに笑った。レイは帽子に手を遣り、弾みをつけて立ち上がる。

「今度、星の話、たくさん聴かせてくれるなら、考えとく」

「それは楽しみだ」

 ありがとう、と微笑む声を、背中で聞く。振り返らずに、レイは障子を後ろ手に閉めた。屯所へ戻る。歩調が、次第に速くなる。盆の上で、椀がかたかたと震えて鳴いた。それは嘲笑あざわらう声のようにも、警告の鐘の音のようにも、聞こえた。


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