【八】

 左側を僅かに欠いた明るい月が、まだらにかかる雲の模様を白々と浮かび上がらせている。吹き抜ける夜風は穏やかで、街路を満たす静寂を、いたずらに掻き乱しはしなかった。

 人知れず邸を出たところで、不意に背後に気配を感じ、徇は足を止めた。いつのまに距離を詰められたのか、うなじにつきつけられた刃が、ちりりと産毛を逆立てる。

「こんな夜更けに、どこへ行くんだい? 隊長さん」

 ひそめた太い声が静寂を揺らす。徇は振り返らずに、ただ足もとに視線を落とした。徇よりも大柄な影が、徇のそれに重なっている。

「……兄上に遣わされた見張りか」

 徇は小さく息をついた。

「妙な真似をすれば弟でも容赦はしない、と?」

「自覚があるなら、なおのこと、こっちの手を煩わせないでもらいたいんだがな」

 刃をぴたりと静止させたまま、影は軽く肩をすくめた。

「……たとえ、私が密告せずとも」

 俯いて、徇は呟くように言葉を落とす。

「いつか必ず明るみに出る。政宮まつりのみやが《ハクカ》を欲しがっているのだ。都に出回っているのは完成品ばかりで、原料も、製法も、闇の中だ」

 売りさばいていた店を調べても、肝心の売人に辿りつけない。買い占めようとすると、媒介する店をするりと替えてしまう。そうかといって、禁制の品に指定すれば、自分たちの首も絞めることになる。

「俺の教え子たちは優秀だからな」

 影は笑った。あの花は、陽の下に晒されれば枯れる花だ。

「勘違いしないでほしい。あの薬を政宮に渡すべきでないと思うのは、私も同じだ」

 徇の言葉が、墨色の静寂にさざなみを立てていく。ほう? と、影の声が、その上に幾許いくばくかの波紋を重ねた。

「なら、こんな夜遅くに、どこへ?」

「……裁宮さばきのみやに、つてがある。あの薬を禁制の品に定めるよう、頼むつもりだった」

 あの薬を認めない国であってほしい。

 神が統べる、信仰が束ねる、神聖な国のままで。

 美しい国のままで。

「あの薬は……この国の神を殺す、毒薬だ」

 人々の心を支えていた信仰が、死に絶えてしまう。

「《ハクカ》をなくすことはできんよ」

 影は小さく息をついた。

 《ハクカ》そのものに依存性はない。離脱症状も生じない。ただ、〝正常〟に戻ることに耐えられる人間は、ごく僅かだ。《ハクカ》を使っていたときには感じなくなっていた痛みが、情動が、蘇生していく。その恐怖は計り知れない。

「……それでも、私は……」

「隊長さん」

 震える徇の声を、影は遮った。口調は穏やかだった。突きつけられていた刃が、離れていく。

「主に仕える身で、おまえさんに、こういうことを言うのも何だが……」

 夜風に紫煙を吐くように、ゆるやかに声を流して。

「俺たちが相手にしているのは、おまえさんの言う神さんが、救わなかった人間だ」

 ふっ、と影の気配が遠ざかる。響く声が、闇にとける。

「だがな……あの薬でも、救えない人間はいるんだよ」


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