【七】

 千景は、僕たちが拍子抜けするほどおとなしかった。軟禁されている自覚がないのかと思うくらい、ここでの日々を淡々と過ごしている。

 ゆかりのある人間がいないというのも、予想外だった。彼の周囲に怪しまれないように、彼にしばらく都から離れて静養する旨を綴ったふみを出させようとしたけれど、彼はゆるく首を振り、ただ一通、彼が都の片隅でひらいている小さな塾へ、当分のあいだ休講することを伝えただけだった。

「森の道は分からぬゆえ、ここがどこかは知らないが……」

 縁側から外を眺めながら、千景は穏やかな口調で言った。

「神楽の音が微かに聞こえる。社が近いのだな」

 鬱蒼と茂る木々の枝葉が、鮮やかな夕映えを縁取っている。

「耳が良いね」

 夕餉ゆうげの盆を手に、僕たちは障子をあけた。帽子を深く被り、顔を隠している。袖はたすきですっきりとまとめていた。レイの白い腕が、薄暮の影に浮かぶ。

 涼やかな夕風が流れ込み、文机に積み重ねられた紙の山が雪崩れた。

「あっ、ごめん」

「いや、気にするな」

 千景は柔らかな微笑を浮かべた。紙には、細かい文字が、びっしりと並んでいた。近々発表する論文らしい。

「千景は、星の研究をしているんだよね?」

 占星術とは違うの? と、拾い集めた紙をまじまじと眺めながら、レイが微かに首をかたむける。千景は頷いた。

「私は、新しいこよみのもとをつくれないかと考えている」

「暦のもと?」

 帽子がつくる影の下で、レイの琥珀の瞳が瞬く。

「例えば、そうだな……月は、なぜ夜毎に姿を変えるのだと思う?」

 ゆるやかな口調で、千景は僕たちに尋ねた。

「それは……輝神ひかりのかみ闇神やみのかみが、交代で統治しているから」

 レイと顔を見合わせて、僕は小首をかしげて答えた。この国では、小さな童子でも知っている言い伝えだ。

「そう。それが定説だ。だが、私は新しいことわりを築きたいと考えている」

「理……?」

 僕は瞬きをする。なぜだろう、首の後ろが、ざわざわする。

「良いものを見せよう」

 席を立ち、千景は部屋のまんなかに進んだ。座布団を敷き、僕たちにそこへ座るように言う。続いて、部屋の隅から燭台を運び、僕たちの左側の、少し離れた場所に置いた。

「この蝋燭ろうそくを、太陽に見立ててくれ」

 それから、と彼は夕餉の汁椀のふたを取り、

「これが月だ」

 と、軽く振った。

「見てごらん」

 蓋を手に、千景は燭台から僕たちを挟んでちょうど反対側へと移動した。

「君たちは、今、南の空を見上げているとする。太陽が全く見えない。つまり真夜中だ。このとき、月は、どう見える?」

 千景の指先で、黒い蓋は全面に光を受けている。

「満月だね」

 レイが言う。そうだ、と千景は頷く。

「では、これはどうだ?」

 今度は、僕たちの正面、つまり太陽を東に望む位置に腰を下ろす。つままれた蓋は、向かって左側だけが照らされて、右側は影になっている。

「……下弦の月だね」

 明け方に、南の空に昇る月。

「どういうこと?」

 レイが興味深げに身を乗り出すと、千景は明るい色を滲ませて笑った。

「月の満ち欠けのからくりだ。太陽は動かない。動いているのは君たちのいる大地と、その周りをめぐる月だということだ」

 にこりと微笑む無邪気な顔。僕の背中を冷たいものが這い上がる。

「……じゃあ、あなたの言う、ことわりというのは……」

 ぞくぞくして、気持ちが悪い。聞いてはいけない、と全身が警鐘をわんわんと響かせる。耳を塞いでしまいたかった。けれど、それは叶わない。僕の耳を、彼の言葉が打ち鳴らす。

「神などいない、という理だ」

 それは、叛逆はんぎゃくに等しかった。この国を根本からくつがえしてしまう。こんな思想を発表すれば、政宮まつりのみやだって、黙ってはいないだろう。

(あぁ、そうか)

 だから、襲われたのか。

(でも……)

 それなら、どうして、幽は彼を……こんな危険な思想を、守るの?

(幽は、この国の神に刃向かうと言ったけど……)

 まさか、その意味は――

(だめだ)

 転がり落ちていく思考を、必死で抑えた。

 わかっていたからだ。行きつく先が、僕のおそれるものであること。

(レイを神様に奪われないために、僕は存在しているのに)

 

 神様をなくしてしまったら、僕は……?


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