【五ノ三】

 天満月あまみつつきが、皓々こうこうと、光の雫を滴らせていた。

 月明かりに濡れた畳の部屋。湯浴みを済ませて、僕たちは向かい合って座る。

「始めるよ」

 蝋燭ろうそくの炎で浄めた小刀を、僕は自分のてのひらに、ゆっくりと押しあてる。刹那、走るのは、身に馴染んだ痛み。

 祝詞のりとの前半を紡ぎ、僕は血の滴る左手をレイに差し出す。レイは目を伏せ、祝詞の後半を唱える。レイの両手が、僕の左手を捧げ持つ。レイの舌先が、僕の手首を伝い流れる血を受ける。そのまま掌へと辿り、吸い上げる。

 僕たちの主――幽が施してくれた《魂結たまゆい》の術。

 満月の夜、僕とレイは、この術をかける。僕の血を介して、レイの魂を体に繋ぎとめておくために。

(幽の、おかげだ)

 十歳の夏を、思い出す。



 あの夜、僕はいつものように、あの男に組み敷かれていた。

 浴びせられていた声が止み、欲のくさびが引き抜かれ、床に投げ出された僕は、はぁっと大きく息をついた。終わったのだと、思った。いつものように、このまま僕の体から離れて、去っていくのだと思っていた。

 けれど、この夜は違った。体を起こしたあの男は、囲炉裏の湯釜に手を伸ばした。噴き上がる蒸気。ずっと火にかけられていた湯は、激しく煮立っていた。胸の奥から、恐怖がせきを切って溢れ出る。それは濁流となって全身へと押し寄せ、悲鳴を封じていたつつみをあっけなく破った。

「父さん! やめて!」

 叫んでいた。いやだ。いやだ。いやだ。


――助けて!


 真っ白な湯気を上げて、沸き立つ熱湯が、僕に向かって放たれる。身を縮め、僕は、ぎゅっと目を閉じた。瞬間、暗闇の向こうで響く、大きな音。次いで、ふわりと、僕に重なる、やわらかな温度。体を傷める熱は、襲ってこなかった。

(……え……?)

 そろそろと、目をあける。最初に映ったのは、薄闇に灯る、ほのかな白。

「……レイ……?」

 僕の上に、レイが、覆い被さるように倒れていた。

(……どうして……)

 顔を上げる。納戸の扉が、内側から外されていた。

(僕を……かばって……?)

 ふっ、と目の前が暗くなった。あの男の姿だけが、闇の中、熾火おきびのように浮かび上がって見えた。瞬きさえ凍りつかせたまま、僕はゆらりと視線を巡らす。壁に立てかけられていたもりの一本が、僕の姿を刃に映していた。立ち上がり、手を伸ばす。空っぽの湯釜を手に、男は茫然と立ち尽くしている。銛を構えて、床を蹴る。狙いを定めて。害魚に突き出す。



「……ク」

 澄んだ声が、雫のように僕の耳を打って、僕は、はっと顔を上げた。視界が再び明るくなる。目の前に、僕を見つめる月の光の瞳があった。

「……レイ……?」

 ぬるりとした生温なまぬるいものが、僕のつまさきに触れていた。そろそろと、僕は視線を下に向ける。

 胸に銛を突き立てられた男が、僕の足もとに転がっていた。

 全身が震えた。手も、肩も、足も、おこりみたいに戦慄わなないて止まらなかった。

「リク」

 透きとおった琥珀の瞳が、彷徨さまよう僕の視線を結ぶ。

 何色にも染まらない白い手が、血にまみれた僕の手を掴む。

「行こう」

 早く。

「逃げるんだ」

 手を引かれて、家を飛び出す。村を離れて、山に向かって、ただひたすらに、僕たちは走った。

「この山を、北に越えよう。交流のない村があるはずだから」

 大丈夫だ、とレイは微笑んだ。数日のうちに、きっと越えられるから、と。

 けれど、僕たちの歩みは、長くは続かなかった。

 背中に負ったレイの火傷は酷く、レイの体を瞬く間に蝕んでいった。

(北へ越えたら、別の村……でも……)

 高熱にうなされるレイを背負って、僕は峠を歩いた。

(西に抜ければ、都に続く街道に出られるはず)

 夜霧にかすんだ道の先を見すえて、僕は唇を引き結んだ。

(ごめん、レイ。きみの示してくれた先へは、行けない)

 都なら、医者がいる。

 何をしてでも、レイを診せないと。

(そしたら、僕は……)

 まちがいなく、僕は捕まるだろう。裁かれるだろう。親を殺した罪人は、即、極刑に処せられるのだときいた。確か、《浄罪の儀》といったっけ。死をもって、罪のけがれを浄める儀式。

(穢れ、か)

 さいごまで、僕に、ついてまわるもの。

(生まれた罪も、あがなえる……?)

 母さんの命と引き換えに、生きてしまった、罪も。

(この上、レイを、死なせたら……)

 僕のすべてを捧げても、到底、償いきれないよ。

「……リク」

 消え入りそうなレイの声が、僕の耳を掠めた。霧の向こうにおぼろげに、小さなほこらが見えてきたときだった。

「あの石段に……座って……」

「だめだよ、早く、先を急がないと」

 僕は平気だから、そう続けた僕に、レイは首を横に振った。

「……ごめん、俺が……限界、なんだ…………あそこで……俺を、置いていって…………逃げて」

「できるわけないだろ、ばか」

 背負い直すと、レイは半ば力を失った腕で、わずかに僕にしがみついた。

「お願い……」

 ほこらは古く、朽ちかけて、所々にこけがむしていた。いしずえに、レイを、そっと下ろす。ありがとうと囁く声が落ちた。ばか、放ってなんか、いくものか。

「……どうして、レイ」

 どうして、僕を庇ったりなんか、したの。

 問いかけると、レイは少し笑った。

「おまえばっかり、だったから」

 鬱蒼うっそうと生い茂る夏草から、濃密なみどりの香りが立ち込めている。霧にうるんだ夜の匂いが、甘く、ぬるく、僕たちを包んでいく。

「……そんな、こと……」

 力なく垂れた彼の手を、ぎゅっと握った。後ろの扉を振り返る。両開きの格子戸の向こう、闇に沈んで見えない本尊を睨みつけて。

(神様は、なんの、ために……)

 いたみに苛ませるために、神様は体を与えたの?

 かなしみに潰させるために、神様は心を与えたの?

 うまれた罰を償わせるために、神様は命を与えたの?

(……このまま、レイを、死なせたら……)

 固く、かたく、手を繋ぐ。つれていかれないように。

(地獄におちても、ゆるさないよ、神様)

 奪わないで。僕のレイを、どうか僕から取り上げないで。

 さく、と草を踏む音が、僕の耳を揺らしたのは、そのときだった。僕は弾かれたように顔を上げる。

 僕の前で、茂みが大きく左右に割れた。

「驚いたな」

 太い声を響かせる、大柄な影。後に僕たちに仕事の技術を仕込んでくれた、ライドウという名前の男だった。

「子供の足で、ふもとからここまで上がってくるとは……相当、骨のあるわっぱだな」

 声に微かに笑みの色が滲む。嘲笑ではない、温かな色だ。

「よく見つけられたな、幽」

 大柄な影が、小柄な影を振り返る。

 クラキ――今の、僕たちの主だった。

「どうする? 少年」

 幽が尋ねた。温度のない、静かな声だった。

「私のもとに下り、この国の神に刃向かう計画に参加するか」

 二度と、神のもとには戻れなくなるが。

「君が生きている限り、彼を現世に留めておくことができるかもしれないよ」

 幽の視線が、レイに向けられる。問いかける声は淡々としていて、突き放すような冷たさも、誘い込むような温かさもない。選択肢を、ただ、示しただけ。選ぶのは、僕だと。

「……僕が、生きている限り……?」

 僕の喉が、ひく、と狭まる。胸の奥から駆け上がる激情。叫び出したいほどに、願いが溢れて、つかえて、やっと吐き出した声は、うめくような、悲鳴に似た、掠れた声だった。

「……たすけて……ください…………」

 この国の神様の手から、どうか、僕たちをのがれさせて。

 僕たちを、守って。

「承知した」

 ふ、と影のまとう空気が揺れた。笑ったのかもしれない。さく、と再び、下草を踏む音。影の下で、新芽がいくつも、ぱきりと折れて、潰されていく。影が僕のもとへ歩いてくる。雲が切れ、したたる月の雫が、夜闇を洗い流していく。光の下、幽の面持ちが、あらわになる。

 穏やかな微笑を湛えた、そのおもては、男とも、女とも、人とも神ともつかない、鏡のような無機質さを宿していた。

「ライドウ」

 幽が命じる。ライドウは頷き、レイを軽々と担ぎ上げる。

 連れられた先は、今の屯所の離れだった。

 施術のあいだ、僕は部屋の外に出されていた。ライドウが、別の部屋で待つように言ってくれたけれど、僕はふすまをじっとにらんで、廊下で膝を抱えて待ちつづけた。

 襖がひらいたのは、十六夜いざよいの月がやや西に傾いた頃だった。僕は発条ばねのように立ち上がって、襖の向こうにレイを探す。けれど、僕がレイを見つける前に、幽は後ろ手に襖を閉めた。

「体の治療に手は尽くしたが……半ば黄泉よみへと旅立った魂を連れ戻すには、その者を強く想う者の生き血が必要だ」

 僕を見下ろして、幽は静かに告げた。

「僕の……?」

 幽を見上げて、僕は瞬きをした。僕の隣に立つライドウのまとう空気が途惑とまどいに揺れる。幽に向かって何か言いたそうに口をひらいたライドウを、幽は視線で制した。

 再び僕に目を落として、幽は頷く。

「そう。《魂結たまゆい》という術だ。君の生き血を結び糸にして、彼の魂を繋ぎとめる」

「それなら、今すぐ使って。僕の血なんか、いくらでも」

 身を乗り出す僕に、幽は薄く笑った。

「だが、術の効力は、永遠ではない。これから先、天満月あまみつつきの夜を迎える度に、君は彼に血を与えつづけなければならない」

 君は、後悔しないか?

 問いかける幽の瞳を、僕はまっすぐに見つめ返した。

「後悔なんて、絶対にするものか」

 レイを助けて。

 レイを生かして。

「僕は、ずっとレイの傍にいる」

 湖水のようにいだ幽の瞳に、僕の顔が映っていた。

 僕は、笑っていた。

 だって、これは、僕が、生きる理由を与えられたことに、等しかったから。

「……了解した」

 幽の瞳が、笑みのかたちに細くなる。温度を感じさせない微笑だったけれど、どこか憐れむような色が滲んでいるようにも見えた。





「リク」

 レイの声が、僕の体に、凛と響き渡る。透きとおった水のように。汚いもの、全部、濯いでいくように。

「どうしたの? ぼうっとして」

 もしかして貧血? とレイは僕の顔を覗き込み、かたちの良い眉をわずかにひそめた。皓々こうこうと照る月影に、黄金こがねの瞳が鮮やかさを増す。

「ううん。なんでもないよ」

 少し、昔を思い出していただけ。

「手当て、するよ」

「いいよ、自分で出来るし」

「だめ。これくらい、させてもらわないと」

 レイの手が、僕に触れる。涼やかな切れ長の瞳は、少しの光さえ取り込みきらめく琥珀色。蜘蛛の糸のように銀色に輝く白い髪が、清々しく吹き抜ける夜風に、きらきらと流れる。光を映す月のような体。闇に沈む黒い髪と瞳をもつ僕の容姿とは正反対だ。

「……いつも、ありがと」

 僕の手に包帯を巻きながら、レイが微笑む。薄い唇が、僕の血に彩られて、紅をひいたみたいに艶めいている。僕の血なのに、ちっとも汚く見えない。

「全然」

 僕こそ、と首を振る。

 ありがとうと言うべきは、僕のほうだ。

 僕がいなくなったら、レイは死ぬ。

 それは、なんて愛しい理論だろう。

 僕の体は、レイを生かすためにある。

 僕の心は、レイを想うためにある。

 僕の命は、レイと生きるためにある。

 レイの巻いてくれた包帯を、その下の傷を、そっと撫でる。甘い痛みに、僕は微笑む。

 僕の体で、僕の心で、僕の命で、生きている。

 僕を、生かしてくれている。


 僕のかみさまは、今日も、綺麗だ。


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