【五ノ三】
月明かりに濡れた畳の部屋。湯浴みを済ませて、僕たちは向かい合って座る。
「始めるよ」
僕たちの主――幽が施してくれた《
満月の夜、僕とレイは、この術をかける。僕の血を介して、レイの魂を体に繋ぎとめておくために。
(幽の、おかげだ)
十歳の夏を、思い出す。
あの夜、僕はいつものように、あの男に組み敷かれていた。
浴びせられていた声が止み、欲の
けれど、この夜は違った。体を起こしたあの男は、囲炉裏の湯釜に手を伸ばした。噴き上がる蒸気。ずっと火にかけられていた湯は、激しく煮立っていた。胸の奥から、恐怖が
「父さん! やめて!」
叫んでいた。いやだ。いやだ。いやだ。
――助けて!
真っ白な湯気を上げて、沸き立つ熱湯が、僕に向かって放たれる。身を縮め、僕は、ぎゅっと目を閉じた。瞬間、暗闇の向こうで響く、大きな音。次いで、ふわりと、僕に重なる、やわらかな温度。体を傷める熱は、襲ってこなかった。
(……え……?)
そろそろと、目をあける。最初に映ったのは、薄闇に灯る、ほのかな白。
「……レイ……?」
僕の上に、レイが、覆い被さるように倒れていた。
(……どうして……)
顔を上げる。納戸の扉が、内側から外されていた。
(僕を……
ふっ、と目の前が暗くなった。あの男の姿だけが、闇の中、
「……ク」
澄んだ声が、雫のように僕の耳を打って、僕は、はっと顔を上げた。視界が再び明るくなる。目の前に、僕を見つめる月の光の瞳があった。
「……レイ……?」
ぬるりとした
胸に銛を突き立てられた男が、僕の足もとに転がっていた。
全身が震えた。手も、肩も、足も、
「リク」
透きとおった琥珀の瞳が、
何色にも染まらない白い手が、血に
「行こう」
早く。
「逃げるんだ」
手を引かれて、家を飛び出す。村を離れて、山に向かって、ただひたすらに、僕たちは走った。
「この山を、北に越えよう。交流のない村があるはずだから」
大丈夫だ、とレイは微笑んだ。数日のうちに、きっと越えられるから、と。
けれど、僕たちの歩みは、長くは続かなかった。
背中に負ったレイの火傷は酷く、レイの体を瞬く間に蝕んでいった。
(北へ越えたら、別の村……でも……)
高熱に
(西に抜ければ、都に続く街道に出られるはず)
夜霧に
(ごめん、レイ。きみの示してくれた先へは、行けない)
都なら、医者がいる。
何をしてでも、レイを診せないと。
(そしたら、僕は……)
まちがいなく、僕は捕まるだろう。裁かれるだろう。親を殺した罪人は、即、極刑に処せられるのだときいた。確か、《浄罪の儀》といったっけ。死をもって、罪の
(穢れ、か)
さいごまで、僕に、ついてまわるもの。
(生まれた罪も、
母さんの命と引き換えに、生きてしまった、罪も。
(この上、レイを、死なせたら……)
僕のすべてを捧げても、到底、償いきれないよ。
「……リク」
消え入りそうなレイの声が、僕の耳を掠めた。霧の向こうに
「あの石段に……座って……」
「だめだよ、早く、先を急がないと」
僕は平気だから、そう続けた僕に、レイは首を横に振った。
「……ごめん、俺が……限界、なんだ…………あそこで……俺を、置いていって…………逃げて」
「できるわけないだろ、ばか」
背負い直すと、レイは半ば力を失った腕で、わずかに僕にしがみついた。
「お願い……」
「……どうして、レイ」
どうして、僕を庇ったりなんか、したの。
問いかけると、レイは少し笑った。
「おまえばっかり、だったから」
「……そんな、こと……」
力なく垂れた彼の手を、ぎゅっと握った。後ろの扉を振り返る。両開きの格子戸の向こう、闇に沈んで見えない本尊を睨みつけて。
(神様は、なんの、ために……)
いたみに苛ませるために、神様は体を与えたの?
かなしみに潰させるために、神様は心を与えたの?
うまれた罰を償わせるために、神様は命を与えたの?
(……このまま、レイを、死なせたら……)
固く、かたく、手を繋ぐ。つれていかれないように。
(地獄におちても、ゆるさないよ、神様)
奪わないで。僕のレイを、どうか僕から取り上げないで。
さく、と草を踏む音が、僕の耳を揺らしたのは、そのときだった。僕は弾かれたように顔を上げる。
僕の前で、茂みが大きく左右に割れた。
「驚いたな」
太い声を響かせる、大柄な影。後に僕たちに仕事の技術を仕込んでくれた、ライドウという名前の男だった。
「子供の足で、
声に微かに笑みの色が滲む。嘲笑ではない、温かな色だ。
「よく見つけられたな、幽」
大柄な影が、小柄な影を振り返る。
クラキ――今の、僕たちの主だった。
「どうする? 少年」
幽が尋ねた。温度のない、静かな声だった。
「私のもとに下り、この国の神に刃向かう計画に参加するか」
二度と、神のもとには戻れなくなるが。
「君が生きている限り、彼を現世に留めておくことができるかもしれないよ」
幽の視線が、レイに向けられる。問いかける声は淡々としていて、突き放すような冷たさも、誘い込むような温かさもない。選択肢を、ただ、示しただけ。選ぶのは、僕だと。
「……僕が、生きている限り……?」
僕の喉が、ひく、と狭まる。胸の奥から駆け上がる激情。叫び出したいほどに、願いが溢れて、つかえて、やっと吐き出した声は、うめくような、悲鳴に似た、掠れた声だった。
「……たすけて……ください…………」
この国の神様の手から、どうか、僕たちを
僕たちを、守って。
「承知した」
ふ、と影のまとう空気が揺れた。笑ったのかもしれない。さく、と再び、下草を踏む音。影の下で、新芽がいくつも、ぱきりと折れて、潰されていく。影が僕のもとへ歩いてくる。雲が切れ、
穏やかな微笑を湛えた、そのおもては、男とも、女とも、人とも神ともつかない、鏡のような無機質さを宿していた。
「ライドウ」
幽が命じる。ライドウは頷き、レイを軽々と担ぎ上げる。
連れられた先は、今の屯所の離れだった。
施術のあいだ、僕は部屋の外に出されていた。ライドウが、別の部屋で待つように言ってくれたけれど、僕は
襖がひらいたのは、
「体の治療に手は尽くしたが……半ば
僕を見下ろして、幽は静かに告げた。
「僕の……?」
幽を見上げて、僕は瞬きをした。僕の隣に立つライドウのまとう空気が
再び僕に目を落として、幽は頷く。
「そう。《
「それなら、今すぐ使って。僕の血なんか、いくらでも」
身を乗り出す僕に、幽は薄く笑った。
「だが、術の効力は、永遠ではない。これから先、
君は、後悔しないか?
問いかける幽の瞳を、僕はまっすぐに見つめ返した。
「後悔なんて、絶対にするものか」
レイを助けて。
レイを生かして。
「僕は、ずっとレイの傍にいる」
湖水のように
僕は、笑っていた。
だって、これは、僕が、生きる理由を与えられたことに、等しかったから。
「……了解した」
幽の瞳が、笑みのかたちに細くなる。温度を感じさせない微笑だったけれど、どこか憐れむような色が滲んでいるようにも見えた。
#
「リク」
レイの声が、僕の体に、凛と響き渡る。透きとおった水のように。汚いもの、全部、濯いでいくように。
「どうしたの? ぼうっとして」
もしかして貧血? とレイは僕の顔を覗き込み、かたちの良い眉をわずかにひそめた。
「ううん。なんでもないよ」
少し、昔を思い出していただけ。
「手当て、するよ」
「いいよ、自分で出来るし」
「だめ。これくらい、させてもらわないと」
レイの手が、僕に触れる。涼やかな切れ長の瞳は、少しの光さえ取り込み
「……いつも、ありがと」
僕の手に包帯を巻きながら、レイが微笑む。薄い唇が、僕の血に彩られて、紅をひいたみたいに艶めいている。僕の血なのに、ちっとも汚く見えない。
「全然」
僕こそ、と首を振る。
ありがとうと言うべきは、僕のほうだ。
僕がいなくなったら、レイは死ぬ。
それは、なんて愛しい理論だろう。
僕の体は、レイを生かすためにある。
僕の心は、レイを想うためにある。
僕の命は、レイと生きるためにある。
レイの巻いてくれた包帯を、その下の傷を、そっと撫でる。甘い痛みに、僕は微笑む。
僕の体で、僕の心で、僕の命で、生きている。
僕を、生かしてくれている。
僕のかみさまは、今日も、綺麗だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。