【五ノ二】

「リク」

 呼ぶ声に、僕は目をあけた。途端、蝉の声が、一斉に耳へ流れ込んでくる。

「うなされてたよ。大丈夫?」

 上体を起こして、レイが僕を見下ろしていた。清潔な朝の青い色彩が、僕たちを包んでいる。

「うん……夢見が悪かっただけ」

 起こしてくれてありがとう。そう、僕が言うと、レイは、小さく笑った。

(あぁ、そうだ……)

 今夜は満月だ。だから、この夢をみたのかもしれない。

「今日の任務は、兎の生け捕りだっけ」

「そうだよ」

 微笑んだまま、レイは頷く。

「夜になったら、《魂結たまゆい》だね」

「うん。仕事、早く終わらせて帰ってこよう」



 七ノ条、九ノ通、上ル――この座標が、僕たちの、今日の仕事場だった。

 通りに沿って、食べ物や小間物、さまざまな屋台がずらりと並ぶ、賑やかな真昼の街路だった。品物をひやかすふりをしながら、僕たちは周囲に目を光らせる。

(ひとつ先の路地裏に、いたちが三匹……と、左の路地裏には二匹か……)

 僕たちと同じように、兎を狙っている者たちだ。けれど、生け捕りが目的の僕たちと違って、彼らの任務は、兎を始末すること。白昼堂々、できれば戦闘は避けたいところだ。

(……来た)

 前方の角を曲がって、こちらに向かう、兎を見つけた。年は僕たちより五つばかり上だろうか。すらりとした背の高い男だった。薄藍の衣に紺瑠璃の袴。彫りの深い精悍な顔立ち。古びた布を丁寧に巻いた、大きな筒状の荷物を背負い、重い足取りで俯きかげんに歩いてくる。

 路地裏に潜んでいた気配が、ふたつ動いた。ひとつは後ろから、もうひとつは前から、ゆっくりと兎に近づいていく。ひとごみにまぎれて、追い越しざまに、あるいは、すれ違いざまに、暗殺するつもりなのか。帽子を深く被って顔を隠し、僕たちは二手に分かれて、彼らの背後に回った。いたちたちは気づかない。先にたもとに手を遣ったのは、レイがついているほうだった。おもむろに取り出される小刀。けれど、それが兎の背中をとらえることはない。兎に向かって歩調を速めた鼬の足が、数歩も進まないうちにもつれて、くずおれる。首の後ろに鋭く光るものがあった。深々と突き刺さった、レイの暗器の針だった。

 僕がついていたほうの鼬に動揺が走る。ほんの一瞬だったけれど、その隙を見逃してやるほど、僕は甘くはない。とん、と一歩、僕は地面を蹴る。鼬の脇を、ひらりと抜ける。僕の前で、兎は足を止めた。僅かに見ひらいた瞳に、僕の後ろで鼬が倒れていくのが映る。

「走って」

 兎の手を掴み、僕は駆け出す。通行人の悲鳴が喧騒を裂く。どよめき、惑う人々のあいだをすり抜けて、僕たちは走る。乱雑な足音がついてくる。路地裏に潜んでいた残りの鼬だ。

「先に行って、リク」

 後ろを駆けていたレイが囁く。

「いや、僕が――」

「だめ。今日は俺の番」

 わざと子供っぽい、無邪気な笑顔を浮かべて、レイが僕の科白を遮る。僕は渋々、息をつく。

「……遊びすぎるなよ」

「わかってるって」





 兎の名前は、千景ちかげ。天文学を専門にしている顕学者だった。背負っていた大きな筒は、星を観測する道具らしい。

 屯所から少し離れたところに、僕たちの主はいおりを数軒、用意していた。真新しい一軒に、僕は彼を連れて行った。

「あなたを、しばらく、ここに軟禁します」

 あなたを狙っている人たちを一掃するまで。

「それは穏やかじゃないな」

 彼は軽く肩をすくめた。落ち着いた、深みのある声だった。口調も、ゆったりとして、狼狽も緊張も、微塵みじんも窺わせない。鷹揚に微笑さえ浮かべている。一瞬、《空人》なのかと疑ってしまいそうになるほど、彼のまとう雰囲気は、ぽっかりと感情が抜け落ちたように、静穏だった。激情を吐き尽くしたあとのようにも見えた。

「もし、いやだと言ったら?」

 微笑を湛えたまま、彼は、軽く首をかたむける。本心から尋ねているわけではない。ただ、会話を遊ばせる問いかけだ。胸の内に警戒のとげを立て、僕は声を低めて答える。

「軟禁を監禁に変更することになります」

 けれど、それはお互いに、得策ではないでしょう。

「あなたを……いえ、あなたの研究を、保護する。それが、僕たちの主の意志ですから」

 帽子を深く被ったまま、僕は淡々と告げていく。

「……私の研究か……」

 彼は目を伏せて、自嘲気味に笑った。

「君たちの主は……」

「詮索しないのが賢明ですよ」

 つとめて冷ややかに、僕は彼の科白を遮った。

「必要なものがあれば言ってください。僕も含めて、交代であなたを見張ります。おとなしくしていれば、あなたの身の安全は、僕たちが保証します」


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