【五ノ一】

 夢の中で、僕は、いつでも十歳だった。忘れるなという、あの男の呪いだろうか。それとも、僕自身の戒めだろうか。

 僕と、あの男――父は、都に程近い川辺の村外れに住んでいた。母はいない。僕を産んで死んだのだという。

 村の人たちは僕たちを忌み嫌った。僕は母親殺しの子供で、そんな子供が生まれた家は神様にたたられけがれているのだと、後ろ指をさした。僕の顔が母の生き写しだったのも、それに拍車をかけた。僕の容姿は罪のあかしだとささやき合って、彼らはゆがんだ笑みを浮かべて僕と父を遠巻きに眺めた。

 僕が十歳を迎えて間もない初夏の夜さり、父がレイを連れてきた。母親の違う、同い年の兄弟だと、父は告げた。信じられない、と思った。レイを見つめて、僕は只々ただただ立ち尽くすばかりだった。ぼろをまとって、薄汚れているのに、髪も頬も首も手足も、新雪のようにまばゆく白く、涼やかな切れ長の瞳は真冬の月を思わせる透きとおった黄金こがね色で、光を湛えてきらきらしていた。奇跡みたいな、美しさだった。

「初めまして」

 ちいさく薄い唇が、微笑のかたちに綻んだ。細い喉に奏でられた声は、清冽な水のように澄んでいた。

「……きみは……」

 瞬きひとつできずに、僕の口から問いかけが落ちる。

「……ほんとうに、ひとなの……?」

 僕は、ただ、茫然としていた。これが人間だ、なんて……同じ人間だ、なんて……とても思えなかった。僕も、父も、村の人も、みんな、とても、とても汚かったから。

 くすり、とレイの口もとに、さっきとは異なる色の笑みが浮かぶ。雪のひとひらが舞うように、ほのかに。

「ひとじゃなければ、何だと思うの?」

 白い手が、僕に向かって差し出された。意図を察した僕は、おそるおそる手を伸ばす。それでも、ぎりぎりのところで、触れることを躊躇ためらった僕の指先を、レイのてのひらすくい上げた。

 僕の肩が、びくりと跳ねた。僕より低い、けれど、確かに伝わる、ひとのぬくもり。雪でつくられたように白いレイの手は、醜い僕の手を包んで、雪みたいにとけてしまうことも、はかなく蝕まれてしまうこともなかった。

 レイは、あまり自分のことを語らなかった。僕がレイについて知っているのは、川のずっと下流にある村に住んでいて、母親がいなくなって売りに出されそうになっていたところを父親が引き取ったのだということと、レイの容姿は《白亜》といって、人買いには垂涎すいぜんの代物だということだけ。でも、僕も自身について喋ることはなかったし、互いに知りたがらないのは、ちょうど良かったかもしれない。

 僕がおそれていたのは、ただひとつのことだった。

 父は――あの男は、僕をこの年まで育ててくれたし、昼間は優しく穏やかで、頼もしい父親だったけれど、夜になると狂う人だった。いつから、なんて、もう憶えていない。ずっと繰り返されてきた夜は、レイが来てからも変わらなかった。

 レイの腕を掴み、彼は、レイを納戸に入れた。終わるまで閉じ込めておくのだ。そのことに、僕は安堵した。あの男の矛先が、レイに向くことはないのだと。

 納戸から戻った彼は、もう僕を見ているようで見ていない。居間に座ったまま、僕は身構える。彼の手が、僕の衿もとへ伸びる。掴まれ、持ち上げられ、一気に引き倒される。しかかる彼の体。大きな左手が僕の両手を束ねる。すぐ傍には燃え盛る囲炉裏いろり。彼の右手が焼けた火箸を掴む。

「っ、あ……」

 こらえきれない、僕の喉が、悲鳴を吐く。僕の腕に、脚に、醜い痕が、またひとつ、増やされていく。

「おまえは、罪の子供なんだ」

 僕の背中に、不気味に低まった彼の声が降る。

「だから、俺が、罰を与えてやらないと」

 足りない、まだ、足りない……そう、うわごとみたいに、繰り返し言葉を散らしながら、彼は僕の衣のすそに手をかける。硬く大きな手が、骨ばった長い指が、僕の脚のあいだをい上がってくる。ひらかれる体。穿うがたれる熱。僕を組み敷き、口汚くののしる彼の声は、やがて知らない女の名前をひたすらに呼びつづけるものへと変わる。僕の母親の名前だと、ずっと思っていたけれど、もしかしたらレイの母親のほうかもしれない。

(そんなに、そのひとを、愛していた、なら)

 遠のく意識が、髪を掴まれ、引き戻される。そのまま二度、三度、激しく揺さぶって、彼は、逆の手を僕の顎にかけた。どろどろと汚れた欲が、口の中に広がる。

(どうして、同い年の、めかけの子なんて、いるんだよ)

 せる僕の喉の砦を、彼は力ずくで押し破った。注がれた欲が、僕の体の奥へと滴り落ちていく。

(綺麗な、ところ、なんて)

 滲む涙さえ、僕の頬を汚すばかりで。

(僕には、ひとつだって、なくて)

 なにも持たない僕の、空っぽの醜い器。汚いものばかりが溜まっていく。

(どこまで、傷んだら)

 この器は、砕けてくれるの。

(どれだけ、汚れたら)

 この心は、捨てさせてくれるの。


 僕を殺してくれるの。


 満月が南の空高くに昇る頃、彼は僕の体から離れていった。悲鳴を抑えつづけた喉が、ひくひくと痙攣していた。濡れた床に投げ出した手足は、自分のものじゃないみたいに重くて、痺れて、指先ひとつ動かせなかった。それでも、全身に散らされた痛みのあとは、これが他でもない自分の体であることを僕に教えていた。

(……汚い……)

 軋む手足を、そろそろと引き寄せる。

 震える脚で立ち上がると、生温かいものが、ももを伝った。込み上げる吐き気をこらえて、裏手の川へと歩いていく。

 蛍の季節はとうに過ぎ、鈴虫の声にはまだ遠い。暗くて、静かだった。目に映るのは、月の光だけ。耳を震わすのは、せせらぎの音だけ。

 滔々とうとうと流れる水に、足を進める。山から与えられる水は、夏でも冷たく、うずきつづける体の熱を鎮めていく。月の雫が漆黒の水面みなもに降り注ぎ、さざなみを白銀に輝かせている。

 綺麗だ、と思う。いっそ、この体ごと、流してしまえたら良いのに、川は小さく、浅く、僕の膝くらいまでしかなくて、体を沈めるには、到底、足りない。

「……う……ぇ……っ」

 吐き出せるものを全部吐いても、えずきはなかなかおさまらなかった。川のまんなかで膝をつき、体を折って咳き込みながら、僕は彼方にそびえる山へと視線を上げる。月明かりが皓々こうこうと灯る夜の底に、影絵のように黒々と浮かび上がる霊峰。この国の守り神がおわすところ。

(僕が、罪の、子供なら)

 いつまで、罰を受ければいいの。

(いつになったら、ゆるしてもらえるの)

 綺麗になれるの。

 さく、と草を踏む音が聞こえたのは、その時だった。僕は弾かれたように振り返る。白い影が、川のほとりで揺れた。

「……レイ……」

 零れ落ちた僕の声が、せせらぎに流されていく。暗がりで、レイの表情まではうかがえない。向こうからも、僕の姿はおぼろげにしか見えていないだろうか。そうであってほしい。どうか、見ないで。

「家に入ってろよ。この川辺、時々、蛇が出て、危ないから」

 引っかかり気味の、酷く掠れた声しか出なかったけれど、つとめて平静を装って、僕は言った。

 影は、ふるふると首を横に振った。ぱしゃん、と涼やかな水の音が立つ。僕のほうへ、歩いてくる。

「レイ……?」

 どうして。

「っ、や……」

 叫ぼうとした。やめろ、と。来るな、と。

 とっさに立ち上がり、あとずさろうとした、瞬間、ぐらり、と視界が大きく揺らいだ。両脚から、ふっと力がほどける。限界の体を気力で保ちつづけるには、僕は、まだ幼すぎた。

 白い腕が、僕を抱きとめる。拒絶する余裕なんてなかった。レイの細い腕に支えられながら、僕はそのまま崩れるように膝をついた。

「……あんな父親で、驚いただろ」

 俯いたまま、僕は言った。声は、せせらぎの中に落ちて、暗闇の底を流れていく。

 レイは何も言わなかった。ただ、ふわりと、僕の頬に手を添えた。ひんやりと熱を吸う、さらりとした、やわらかな掌だった。汚れた僕の頬を、そっと拭っていく。たまらずに、僕はその手首を掴んで止めた。

「……汚いから」

 きみは触らないで。

「汚くないよ」

 レイの声が凛と響いた。顔を上げた僕のまなざしを、レイの瞳が受けとめる。月の光を湛えた琥珀の瞳。侮蔑も憐憫も、厭忌えんきも憎悪も、なにひとつ浮かんでいない。まっすぐに僕を映しても、にごることなく透きとおったまま。

「汚くなんか、ないよ」

 レイの声が、僕の体を流れていく。すすぐように、澄んだ声。

「リク」

 白いまつげの下、嵌め込まれたレイの月が、すっと近づく。

 かすかな吐息が、唇を掠めた。ふわり、と重なる、花弁のような、やわらかさ。ほのかに灯る、ひとひらのぬくもり。

 レイが触れている、レイに触れられている、その事実に、頭の芯が、じん、と痺れて、体の奥のくびきがほどける。いましめを解かれた激情が、涙になって滲んでくる。零れないように、ぎゅっと目をつむり、瞼の裏に封じ込める。ちいさなレイの舌が僕の唇を撫でる。ゆるゆるとほころばせ、するりと中に進む。あの男に注がれた欲の残滓を、レイは、ゆっくりと舐めとっていく。

 僕の喉が、震えた。瞼の内側に熱があふれる。湛えきれずに流れて、僕の頬を伝う。レイの手首を掴む手に、さっきとは異なる力を込める。拒むためでなく、すがりつくように。強く、つよく。

(……そうだ……)

 闇の中、僕は目をあける。

 僕が殴られているということは、レイが殴られていないということ。

 僕の体が傷んでいるということは、レイの体が傷んでいないということ。

 あの男の欲の矛先が、レイに向かっていないということ。

 僕が汚れれば汚れるだけ、レイは綺麗なままでいられる。

 細い肩に手を乗せて、レイを僕から引き離した。琥珀の光が瞬きを打つ。透きとおった瞳の中で、僕は微笑む。

「もう、僕に、触らないで」

 汚されないで。

(わかったんだ)

 もう、ゆるされなくていい。

 罰だろうと、咎だろうと、引き受ける。

(だって、僕は)

 綺麗なものが、ほしかった。

 守りたいものが、ほしかった。

 汚い言葉と、欲のなかで。

 ただひとつ、綺麗なものを。

 これだけはと、守れるものを。

 このためならどんなに汚れても構わないと、そう、心から、思えるものを。

「レイ」

 どうか。

「きみは、汚れないで」

 僕のために。

「きみだけは」

 綺麗なままで。

 僕の、かみさまに、なって。


 僕を否定しなかった、たったひとりの、かみさまになって。


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