【四】
白い真昼の陽射しに、次第に西日の橙が滲みはじめた頃、幽のもとを、徇は訪ねていた。
「先日、西門の付近で、男の死体が発見されたのは、お耳に入っていますか?」
「ああ、報告は聞いている」
人払いを施した、本殿の一室だった。閉めきられた
「今朝、身元が判明いたしました」
床に手をつき、頭を深く下げたまま、徇は殺された男の名を告げた。
「この男を、幽様は……」
「知っている。私が支援していた顕学者の一人だ」
幽は、あっさりと返答した。虚を
「何を驚くことがある?」
「いえ……」
言いよどみ、視線を巡らせ、徇は軽く唇を噛んで湿らせた。動揺を抑えるときの、徇の癖だった。
「否定されるものと、思いましたので」
「調べればわかることだ。別に隠す必要もない。彼は薬学者だった。《御霊送りの儀》に使う薬の改良について、助言を求めたこともある」
「……最近、その儀は、あまり執り行われなくなりました」
「依頼者が激減したからな」
「その理由に、お心当たりが……?」
「徇」
幽の瞳が冷ややかに、笑みのかたちに細められる。
「言いたいことがあるなら、単刀直入に言ってもらいたいな」
底の見えない闇色の瞳が徇を捉える。この部屋にいるのは自分たちだけのはずなのに、まるで何対もの
「……幽様」
ごくり、と唾を呑み込んで、徇は言葉を吐き出す。
「
「そうらしいな」
穏やかな笑みを崩さないまま、幽は頷く。徇は続ける。
「私が気になっているのは、その薬の呼び名です」
「……《ハクカ》か」
幽はうたうように唇に乗せた。
「実に皮肉な名がつけられたものだ」
「皮肉……?」
「ああ。《浄めの巫女》の務めを肩代わりして、辛苦からの解放を望む者たちに等しく安息を
「……っ、代用などと……っ!」
徇の唇が、わなわなと震えた。
「そんなものは、まがいものです。神聖な巫女の務めを……守り神の慈悲の儀を、
半ば叫ぶように、徇は幽を見つめた。そのまなざしには、裏切られたような失望の色があった。あなたまで、あの薬を肯定するのですか、兄上、と。
「幽様、あなたは、何者か、お心当たりはございませんか? あなたの後援を受けている顕学者の中に、あの
「……呪薬か」
ふっ、と幽のまなざしが和らいだ。慈しむように、憐れむように、幽は穏やかな瞳で徇を見つめた。
「服用者とて、なにも快楽を求めているのではないだろう? ただ、安楽を望んでいるだけ。かつては死ななければ得られなかった安楽が、《ハクカ》の普及によって、死なずとも手に入るようになったのだ」
何も感じぬ安息を手に入れることは、咎になるのか?
「私は……《空人》となった人間を……生きている、とは、とても思えません」
膝の上で、徇は
「生きることは、心を働かせることです。《空人》など……あんなものは、死者と同じです」
視線を落として肩を震わす徇に、幽は目を伏せた。
「苦しみに耐えることが生者の証か」
衣擦れの音が、
「ならば、おまえは彼らに、死ねというのか、徇」
辛苦の果てに。
絶望の末に。
命と引き換えに、永遠の安息を夢見て。
「そんな……私は、ただ……」
生きろ、と。
「徇」
夕陽に濡れた廊下に、幽は足を進めた。茜を浴びて、幽の黒衣の影が濃さを増す。
「おまえは、彼らを救ったことがあるのか?」
「え……?」
「彼らを、おまえは、救うことができるのか?」
救わぬのに、救えぬのに、健全な正しさを振りかざすのは、彼らを殺す刃を振り下ろすことと同じだ。
「この世で、この国で、生きていたいと思える……そんな、希望を抱ける者は、端から《ハクカ》を求めはしない」
幽の声が影に落ちる。幽は振り向かない。山の
「まさか……《ハクカ》をつくったのは……」
徇の声が震える。祈るように幽を見つめて。
「徇」
幽は小さく息をついた。
「私は……生きてほしいという願いを、もう二度と、苦しみつづけろという命令に等しくしたくなかった」
どこか寂しそうな色を宿して。
#
徇の去った廊下を、幽はひとり歩く。
鮮烈な夕陽の
「よかったの? 幽」
あのひとを、殺さずに帰して。
囁く声が、ひらりと舞う。回廊の柱に、紅葩が軽く
「……立ち聞きとは、あまり感心しませんね」
「あなたが糾弾されるんじゃないかって、心配しているの」
「糾弾?」
幽は口の端に微かに笑みを浮かべた。
「法に触れる罪など、私はひとつも犯してはいませんよ」
《ハクカ》は、毒薬でも禁制の麻薬でもない、合法の薬。だからこそ、ここまで広まった。
「合法っていうより、脱法でしょう」
声をひそめ、紅葩は
「……まもなく夜の帳が下ります、《浄めの巫女》。どうぞ、中へ」
紅葩に背を向け、促すように先立って、幽は廊下の奥へと歩いていく。紅葩は小さく息をついた。一度だけ、茜の
《鎮めの巫女》が陽の光に身を晒すことを許されなかったのと同様に、《浄めの巫女》は夜の闇に身を浸すことを禁じられている。闇と光、陰と陽、それぞれの巫女のもつ力が、互いに失われることのないようにと、定められた
(なんて
たとえ《鎮めの巫女》の力を宿していたとしても、白華と入れ替わって以来ずっと光を浴びつづけてきた体だ。鎮めの力なんて、とうに失われているだろう。
(そう、白華も)
紅葩の代わりに幽閉された白華は、霊峰に捧げられたときには、鎮めの力はおろか、浄めの力だって、きっと残っていなかった。
(なのに、なにも起こらなかった)
ただの人間を
(この国を
いるのは、ただ、人間だけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。