【三】

 雲ひとつない夏空の青は、目がくらむほどに鮮やかで、せ返るほどに濃密だ。まっすぐに照りつける陽射しは白く強く、物の影を刻印のように黒々と浮き上がらせていく。

 縁側に手桶と染料を並べて、僕はレイの髪をすくう。一切の色彩をもたないレイの髪は、絹糸のように白くて、柔らかくしなやかに、僕の指のあいだを流れていく。軽くいて束をつくり、僕は静かに漆黒を落とす。僕たちのあるじ――幽が、調合してくれた特殊な染料だ。雨に濡れても落ちないように、水には溶けず、湯にだけ溶ける。僕の手の中で、純白が漆黒へと変わっていく。まるで、降り積もった新雪が、黒い泥に蝕まれていくように。

 白絹の髪に白磁の肌、そして琥珀の瞳――千人に一人いるかどうかとうたわれる、《白亜はくあ》と呼ばれる特別な容姿をもつ人間が、都の裏で破格の高値で売買されていることを、僕たちは知っている。たとえ〝売り物〟にならなくても、珍しい容姿は否応なく人目を引いてしまう。

 だから、髪を染めて、色硝子の眼鏡をかけて、髪と瞳の色を隠さなければ、レイは真昼の都を歩けない。

「悪いな、いつも、手伝ってもらって」

「なんてことないよ」

 レイは、僕以外には頼まない。



 揃いのはかまが、吹き抜ける風を受けてはためく。

 屯所から山を下ること四半刻弱。蝉時雨が降り注ぐ木立を抜けると、社の境内に上がる大階段の中腹に出る。ちょうど昼時のせいか、人通りはまばらだった。社に向かう参拝者を後目しりめに、僕たちは階段を下りていく。食い入るように鳥居を見上げている人もいれば、俯いて石段に視線を落としている人もいる。鳥居をくぐっていく、様々な背中。帰りの石段を下るのは、あの中で何人いるだろう。僕の足は自然と止まっていた。目深にかぶった帽子を軽く上げ、振り返って、彼らを見送る。蝉時雨が僕の耳を塞ぎ、現実味を遮っていく。

「リク」

 透きとおったレイの声が、飽和する蝉の合唱を凛と打った。

 雑音を微塵みじんも含まない、澄みきった声が、僕をうつつに引き戻す。

「どうしたの?」

 階段の下から僕を見上げる、笑みのかたちに細められた目。帽子のつばが落とす影の下、浅紫の硝子の眼鏡が、瞳の琥珀を中和する。

「なんでもないよ」

 笑顔とともに返した僕の声は、蝉の声の嵐に、容易たやすく掻き消されてしまった。

 階段を駆け下りて、レイに追いつく。肩を並べて、歩いていく。

 今日も、レイは、僕の隣にいてくれる。



 都の門は、東西南北に設けられた大門と、それぞれの間に設けられた小門がある。霊峰のおひざもと、社へと続く北の門が最も豪奢で格式高く、南に下るにつれて簡素で庶民的なものになる。

 僕たちは、参拝者が多く利用する最寄りの北の門ではなく、行商人にまぎれやすい南東の門へと回った。

 門の前では、大小様々な荷台を引いた商人が長く列をなしていた。大柄な門番が何人もいて、彼らの積み荷をあらためていた。列は通行手形の種類ごとに形成されていて、僕たちが並んだのは、最も優先的に都に入れる列だった。門番は、僕たちがげている風呂敷包みに目を遣ったものの、それだけだった。手荷物検査が免除される最上位の手形を、僕たちは主から与えられていた。

 都の街路は碁盤の目のように整然としている。東西に走る大路をじょうと呼び、北側から順に、一ノ条から十二ノ条まである。同様に、南北に走る大路をとおりと呼び、東側から順に、一ノ通から十二ノ通まである。そして、それぞれの辻ごとに条と通の名前を記した案内板が立てられているから、初めて訪れる場所でも、まず迷うことはない。

 四ノ条、三ノ通、下ル――僕たちの目的の店は、官立学校に程近い商店街の一角にあった。両開きの扉に、赤と黄色の色硝子が幾何学模様にめ込まれている。洒落しゃれたたずまいの小間物屋だった。帽子を目深に被り直し、敷居をまたぐ。店主は僕たちの姿を認めると、すぐに店の奥へと案内した。

「それじゃ、これ、次の分ね」

 人払いされた座敷で、僕たちは店主と向かい合って座った。畳の上で、レイが徐に包みを解く。桐の箱に、白い薬包紙が隙間なく詰められている。店主の目が丸くなった。

「毎度毎度、どこから仕入れてくるんだい?」

 黒縁眼鏡をかけなおし、店主は身を乗り出して、しげしげと薬を眺めた。店主の年は、僕たちよりも二十ほど上らしいけれど、顔は年齢よりも随分と若く見える。

「それは詮索しない約束だよ」

 僕は言う。そうだったね、と店主は肩をすくめた。

「君たちが何者なのかは知らないし、法に触れずに稼がせてもらえるなら、こっちとしては構わないが……これからも、これを欲しがる客が来たら、売りさばけば良いんだね?」

 へつらうようないびつな笑みを浮かべて、店主が箱に手を伸ばす。

 刹那、レイの手が、ひらりと空を切った。ひらめく光。一拍も置かず、畳に鋭いものが刺さる音。レイの暗器の小刀が、店主の中指と薬指の狭間に突き立っていた。ひっと息を呑み、店主の体が凍りつく。

「そのことだけど」

 レイの薄い唇が、笑みのかたちに弓をひく。

「勝手に値を吊り上げて売るのは、やめてもらえるかな」

 みんなが気軽に買えなくなっちゃうじゃない。

「やくざじゃないんだ。勘違いしないで」

 レイの切れ長の瞳が、三日月のように、すっと細くなる。額に玉の汗を滲ませて、店主は大きく何度も頷いた。

 時々、協力者の中に、こういう、欲をかく人間が出てくる。人間のさがだと、僕たちのあるじは言う。この手の人間が生じるのを止めることは不可能だ。だから、それがほころびに繋がらないよう、主は都中に密偵を放っている。相互監視だ。今の僕たちの行動も、主に筒抜けだろう。屯所から一歩でも外に出れば、舞台と同じだ。一挙手一投足に至るまで見逃されることはなく、科白の一言だって聞き漏らされない。だから、最初の頃は緊張した。けれど、慣れた今では、なんともない。要は、淡々と任務をこなして、不審な言動さえしなければ、あとは好きに動いて良いのだ。

 だから、たとえば……せっかく昼の都に来たのだからと、帰りに寄り道をする余裕だってある。



わらび餅なら二ノ条の店が美味しいけど、くずきりなら五ノ条の店かな。リクは、どっちが良い?」

「迷うけど、五ノ条かな。僕、あそこの黒蜜が好き」

 からころと下駄を鳴らしながら、並んで通りを歩いていく。ちょうど講義が終わったところなのか、官立学校から続々と生徒たちが出てきて、僕たちは彼らの波に乗る格好になった。

「遠くから見れば、さ」

 レイが小首をかたむけて、曖昧に笑う。

「俺たちも、こんなふうに見えるのかな」

 通りを満たす、たわいない談笑。身内以外の死体なんて、生涯、目にすることはないだろう、僕たちと同い年くらいの少年たち。

「見えてほしい?」

 僕は尋ねる。

「ううん。気持ち悪い」

 細い首を揺らして、レイは答える。



 ガタガタと、古びた車輪の音が、長閑のどかな通りを軋ませた。大きな手押し車が、通りを何台も横切っていく。そういえば、先の雨で、この先の橋が随分と傷んだと聞いた。修復に派遣された工夫こうふたちかもしれない。彼らに道をあけて、僕たちは彼らが通り過ぎるのを、見るともなしに見送りながら待った。ぼろをまとった下級の工夫たちだった。一様に俯き、黙々と手押し車を進めていた。

「気づいた? リク」

 工夫たちが行き過ぎても、レイは足を止めたままだった。再び流れはじめた学生たちの談笑が、ゆるやかに脇を過ぎていく。

「今の人たちのこと?」

 訊き返した僕に、レイは小さく頷いた。

「あの人たち、多分……全員、《空人うつびと》だ」

 痛みからも、苦しみからも、解放された人間たち。

 僕たちがばらまいている薬の常習者。

「うん……増えてきたね」

 それだけ、あの薬を必要とする人が、この都に……国に、溢れているということ。

 僕たちの主が、数年かけて、広めてきたもの。

 ささやかなよろこびを味わうために、たくさんのかなしみを噛みしめなければならないのなら。

 さいごの安息を手に入れるために、それまでずっと苦しみぬかなければならないのなら。

 いっそ、何も感じなくなったほうが、らくなんじゃないか。

 そう、悟った心に、あの薬――《ハクカ》の需要はある。

 《ハクカ》は、僕たちの主がつくりあげた特別な秘薬だ。普通の麻薬と違い、多幸感や幻覚をもたらすことはなく、ただ苦痛と感情だけを麻痺させる。使い方しだいでは、人を隷属させることもできるから、なかには自分から手に入れるだけじゃなく、雇い主から配られて飲まされる下人もいると聞く。そして、ハクカの服用によって感情を失くし、暑さも寒さも、空腹も疲労も感じなくなった人たちを、抜け殻の人間――空蝉うつせみになぞらえて、《空人うつびと》と、呼ぶ。

「……ハクカって、さ」

 ぽつり、と呟くレイの声が、足もとに張りつく影に落ちる。いつしか学生たちの波は引き、街路に残ったのは僕たちだけになっていた。

「どんな味がするのかな」

 からん、とレイの下駄が涼やかな音を奏でて影を踏む。

「苦いらしいよ」

 さらり、と僕は答える。味見したことはないけれど。

「そうなんだ。意外」

「意外?」

 甘いとでも思っていたの?

 尋ねた僕に、レイは微かに目を伏せて、ふるり、とゆるくかぶりを振った。

「ううん。俺が想像していたのは、塩味」

「塩味?」

「そう。涙の味」

 からん。からん。下駄の音を連ねて、僕たちは歩いていく。

 街路に並ぶ、いくつもの商店。笑顔を振りまく茶屋の店員。客に何度も頭を下げている呉服屋の主人。女将に怒鳴りつけられている奉公人の子供……この国という火にくべられる、名前も残らない無数のまき

(……僕たちも、いつかは……)

 働くのに、心はいらない。

 この国に消費される日々の中で、僕たちは、あとどれだけ自我を保っていられるのだろう。


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