【二】

 朝もやが立ち込める裏通りは、いつもの静穏が失われていた。建ち並ぶやしきの主たちは、けがれをおそれ、出てくることはなかったが、好奇心がまさった使用人たちが遠巻きに通りを埋め、ざわめきを充満させている。

 男の死体を発見したのは、邸の下男だった。明け方、いつものように外回りの清掃に出たところ、邸の裏に、血塗れの男が転がっていたのだという。刃物で喉を切り裂かれ、既にこときれて数刻が経過していた。

「身なりは悪くありませんね」

 政宮まつりのみやの者でしょうか、とあまねの隣で部下の一人が呟いた。三月みつき前に配属されたばかりの青年だった。確か、名は、まさき

「そうだな……」

 膝をかがめ、徇は死体を検分する。

「この髪の結い方は、どの官位にも当て嵌まらない……《顕学者けんがくしゃ》かもしれんな」

 小さく息をつき、眉をひそめる。《顕学者》は、数年前から社が密かに保護するようになった学者たちのことだ。まじないうらないによらない医学や、薬学、天文学などの学問を《顕学》と呼び、その分野に秀でた者たちを、裏で支援している。

 もっとも、保護も支援も、表立って行われているものではない。くらきの采配によるものだ。いずれも、社が行う呪術の効力を高めたり、占術の精度を上げたりと、社への信仰心を強める名目で登用されているが、ともすればこの国の守り神の奇跡を否定し、社の権威を失墜させかねない異端の学問を、よりにもよって宮司がみずから取り入れるなど、徇には到底、首を縦に振れるものではなかった。現に、内部では、顕学者を粛清すべく動く一派も生まれつつある。

(兄上は、なにをお考えでいらっしゃるのか……)

 この国のまつりごとを執り行う政宮まつりのみやも、罪刑をはかりにかける裁宮さばきのみやも、すべて、守り神をまつる社のもとにあるというのに。

「顕学者となると、調べるのは少々、厄介ですね」

 柾が、呟くように言った。一片の情動も宿さない、淡々とした声だった。徇は小首をかしげて、柾を見た。

「死体には、もう慣れたのか」

 前回の立ち会いまでは、亡骸なきがらを目にする度に嘔吐していた。そのことで酷く悩んでいたことも知っている。

「ええ」

 頷く柾の顔には、表情が全く浮かんでいなかった。まるで能面のように、眉ひとつ動かさず、冷ややかに死体を見下ろしている。ぞくり、と背が冷えた。何だ? 自身の反応に、徇は途惑とまどう。この仕事を続けるなら、死体を前にしても冷静でいられるようになるのは必須の要件だ。これは柾の成長だ。上官として、肯定的に評価してしかるべきだ。なのに、なぜ、こんなにも違和感を覚えるのか。本能的な……これは、嫌悪、なのか、それとも、恐怖、なのか。

「慣れたのではなく、感じなくしたのです」

 文章を読み上げているような、抑揚のない声が流れる。

「私には、この仕事しか、ありませんから」

 瞬きひとつなく、柾の目が徇へと向けられる。ぽっかりとあいた、うろのような瞳だった。

「だから、なくしたのです。務めを果たして死ぬだけの人生ならば、感情など無用の長物に他なりませんから」

「……まさか……」

 背筋を冷たい汗が流れる。うるさい野次馬たちのざわめきが、すっと耳から遠ざかる。

「……あれを、服用したのか……?」

「ええ」

 柾は、あっさりと頷いた。

「とても便利な薬です。もっと早く手にできれば良かった」

 おかげで、こんなにも楽に働ける。

「柾君」

 科白せりふを遮る。徇の唇が、わなわなと震えた。

「君は……」

 他の部下たちが、死体を運んでいく。霧の中、血溜まりは未だ乾くことなく、明け方の青い色彩を重ねて黒々と染みを深めていく。

「君は、人間か?」

 徇の声が、足もとに落ちる。柾の瞼が、そこでようやく、瞬きを打つ。

「きわめて人間的な判断だという自己評価を下しています」

 うつおの瞳が徇を見つめる。怪訝の色ひとつ浮かんでいない、鏡のように、ただ徇の像を映す一対の眼球。

「この国で生きていくために、私は、この身を最適化した。ただ、それだけのことですよ」


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