【一】

 都の西門に程近い、ひとけのない裏通り。

 まだらに濃淡を描く曇天を背に、僕たちは夜の下に立った。

 下級貴族のやしきが並ぶ一帯だ。屋根の上から、冷ややかに街路を見下ろす。

(……来た)

 ひとつの影が、近づいてくる。辺りを見まわして、物陰に身をひそめながら、注意深く進んでくる。既に僕たちの網にかかっているなんて、つゆほども知らずに。

(さあ、ねずみ狩りのはじまりだ)

 目配せして、僕たちは頷き合う。予定通り、二手に分かれ、袋に飛び込む鼠を待ち構える。

(今だ)

 ひらり。飛び降りる。鼠を挟んだ前後の位置。僕が進路をふさぎ、彼が退路を断つ。

 鼠が足を止める。歯噛みして、僕を睨みつける。とっさにあとずさったのは、僕に挑んでもかなわないと察したからだろうか。ここまで逃げて来られたことは、評価に値するけれど。

「……っ、くそ……!」

 鼠が腰の刀を抜いた。窮鼠猫を噛む? 僕は静かに瞬きをする。残念。僕たちは猫じゃなくて狼だ。噛まれる前に咬み殺すよ。

 忍ばせていた小刀を手に、とん、と僕は地面を蹴る。これなら僕ひとりで充分だ。一閃する鼠の刃。難なくかわして、僕は鼠の脇をすり抜ける。瞬間、鼠の喉から血飛沫ちしぶきが上がる。目をむき、数秒、け反って、鼠はそのまま後ろに倒れた。

「俺の出番、ないじゃん、リク」

 肩をすくめて、彼が歩いてくる。

「レイの手をわずらわせるほどじゃないもの」

 僕の足もとで、鼠はまだ痙攣していた。一瞥いちべつもくれずに、僕は小刀の血を振り落とす。

 鼠の傍らに屈み、彼は鼠の衣に手をかけた。えりを割って、ふところから、布に包まれた細長い桐の小箱を取り出す。

「これかな」

「確認してみよう」

 注意深く、ふたをあける。箱の中には、手折られた一輪の花が収められていた。一重ひとえの花弁は、まだつぼみだったけれど、ひらけば三寸を越える大輪の花になるだろう。花弁も、葉も、茎も、骨のように白い。

「当たりだ」

 僕たちが回収を命じられた、僕たちの巣穴から持ち出してはならないもの。

「お仕事、おしまい、ってね」

 彼は微笑む。琥珀こはく色にきらめく瞳が、夜闇の中、僕を映して月のように輝く。

「うん、帰ろう」

 つられて、僕も、小さく微笑む。帰って汚れを落としたら、朝が来るまで、ふたりで眠ろう。





 目をあけると、世界はあおかった。朝陽の金色に染められる前の、ひんやりと冷たく、静かなとばり。すべての物の輪郭が、ぼんやりとあおの中に滲んで、とけていくように、曖昧になる。この時間が、僕は好きだ。

 一日のうち、最も静寂の純度が高いのは、夜明け前だと、僕は思う。耳にさわる雑音がない。きこえる音は、ひとつだけ。僕と、もうひとりの、かすかな呼吸の音だけ。

(ちゃんと、生きてる)

 つとめて衣擦れの音を立てないように、僕は、そっと体を起こした。途端、背中に冷たい空気が流れ込んで、僕の肌が、わずかにさざめく。昼間は汗ばむ陽気だけれど、山の夜は、夏でも冷える。

(レイ)

 視線をおとす。僕の隣で、白い影が眠っている。僕のほうを向いて、少し俯きかげんに体を丸めて。蒼に浸された部屋の中、ほのかに浮かび上がる白い体。細い肩から落ちていた夜着を、僕は、そっと引き上げてやる。わずかに身じろいだものの、まぶたの幕は下ろされたままで、その向こうに宿る光が僕をとらえることはない。あと一刻は目覚めないだろう。彼の時計は正確だ。眠ってから三刻は起きない。そして僕の時計もまた正確だ。どんなに遅く床についても、同じ時刻に目覚めてしまう。

 ふわり。煙草の匂いが鼻をくすぐった。身に馴染んだ匂い。足音をひそめて縁側に出る。朝霧にうるんだ空気が僕を包む。みどりの香りが濃くただよい、煙草の匂いと合わさって、とろりと甘く発酵する。長い廊下のつきあたり。大きく広い背中は、すぐに見つかった。

「いつ戻ったの? ライドウ」

 隣に腰を下ろして、僕は彼を見上げる。頬骨の目立つ精悍な顔。あごにはまばらな無精髭。笑うと左頬にだけ微かに笑窪えくぼが浮かぶことを知っている人間は、あまり多くはいないだろう。

「半刻ほど前だな」

 煙管きせるを口の端に引っかけて、彼は片頬を上げて答えた。

「眠らなくて平気?」

 尋ねると、ふう、と紫煙を吐き出して、彼は僕の頭にぽんと手を置いた。彼らに拾われて七年が経つけれど、彼にとっては、僕はまだ十歳の童子のままなのかもしれない。

「おまえこそ。昨日は遅かったんだろ? リク」

 うまく狩れたか? とライドウがく。もちろん、と僕は頷く。

「上々だな」

 彼は煙管をくわえ直した。温かい掌が僕の頭を撫でて、満足そうに離れていく。ごつごつと骨ばった、力強い手。

「その様子じゃ、怪我もないみたいだな」

「うん。僕も、レイも、無傷だよ」

 ライドウのおかげでね、と続く言葉は、喉の奥に留めた。縁側から投げ出した足を、僕は軽く交互に遊ばせる。

 爪のぎ方も、牙の整え方も、獲物の追い方も仕留め方も、狩りのすべは、全部、ライドウが教えてくれた。

 ライドウが仕込んでくれたから、僕たちは、今、こうして生きていられる。


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