第二部 陽炎ノ章

【序】

 霧にうるんだ夜の匂いが、甘く、ぬるく、僕たちを包む。鬱蒼うっそうと生い茂る夏草から濃密なみどりの香りが立ち込め、息苦しいほどだ。

 峠を越える途中で、とうとう歩けなくなった彼を背負って辿りついたのは、朽ちかけた小さなほこらだった。いしずえに座り、彼を自分にもたれかけさせる。彼の唇から漏れる吐息は弱く、炎をんだように熱くて、瞳は苦しげな瞼に閉ざされたまま、もうずっと僕を映さない。

 背中に負った火傷のせいだった。あの男がつけた傷。僕が負うはずだった熱。

 力なく垂れた彼の手を、ぎゅっと握った。後ろの扉を振り返る。両開きの格子戸の向こう、闇に沈んで見えない本尊を睨みつけて。

(このまま、レイを、死なせたら)

 固く、かたく、手を繋ぐ。つれていかれないように。

(地獄におちても、ゆるさないよ、神様)

 僕たちは、まだ十歳の子供だった。神様の影におびえ、憎むべき存在として、神様を信じていた。

 さく、と草を踏む音が響いたのは、そのときだった。僕は弾かれたように顔を上げる。山賊だろうか、それとも、獣だろうか。身を縮めた僕の前で、茂みが大きく揺れる。

「驚いたな」

 太い声が聞こえた。現れたのは、大小ふたつの影だった。おとなだ。暗がりで顔は見えない。けれど、賊ではなさそうだった。太い声は、大柄な影から放たれたものだった。

「子供の足で、ふもとからここまで上がってくるとは……相当、骨のあるわっぱだな」

 声に微かに笑みの色が滲む。嘲笑ではない、温かな色だ。

「よく見つけられたな、幽」

 クラキ……? それが小柄な影の名前なのか。僕は警戒を解かないまま、途惑とまどいの色を隠せず彼らを交互に見やる。

「さすが、百の目と耳をもつだけのことはあるな」

「……この森は砦だ。招かれざる者を通す気はないよ」

 小柄な影が言った。温度のない、静かな声だった。

「どうする? 少年」

 私のもとに、下るか。

「二度と、神のもとには戻れなくなるが……」

 君が生きている限り、彼を現世に留めておくことができるかもしれないよ。

 影の視線が、傍らのレイに向けられる。問いかける声は淡々としていて、突き放すような冷たさも、誘い込むような温かさもない。選択肢を、ただ、示しただけ。選ぶのは、僕だと。

「……僕が、生きている限り……?」

 僕の喉が、ひく、と狭まる。胸の奥から駆け上がる激情。叫び出したいほどに、願いが溢れて、つかえて、やっと吐き出した声は、うめくような、悲鳴に似た、掠れた声だった。

「……たすけて……ください…………」

 神様の手から、どうか、僕たちをのがれさせて。

 僕たちを、守って。

「承知した」

 ふ、と影のまとう空気が揺れた。笑ったのかもしれない。さく、と再び、下草を踏む音。影の下で、新芽がいくつも、ぱきりと折れて、潰されていく。影が僕のもとへ歩いてくる。雲が切れ、したたる月の雫が、影を洗い流していく。クラキの面持ちが、あらわになる。

 穏やかな微笑を湛えた、そのおもては、男とも、女とも、人とも神ともつかない、鏡のような無機質さを宿していた。


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