【七】

 大粒の雨が、夜を奏でつづけている。朝が来るまで止んでくれるなと、滴を連ねたひさしの向こうに、願う。

 本殿の最奥、ふすまを閉ざした《浄めの巫女》の部屋。幽は白華の髪をき、自分と同じかたちに結い上げていく。

「幽は手先が器用ね」

「……この日のために、覚えただけですよ」

 あなたも、と幽は口の中で呟いた。そうね、と白華は頷き、淡く笑みを浮かべた。身にまとう黒い袍が、白華の色の白さを際立たせる。交換した、幽の衣装だ。

「あとは度胸と、運ね」

 まさしく神頼みだわ、と続く言葉は、喉の奥であやめた。

 自分たちは、もう神様をもたない。

「幽」

 顔を上げて、白華は朗らかに微笑んだ。自然と浮かんだ色なのか、それとも、幽のために描いたものなのか、かげりも、曇りもない、玻璃はりのように透きとおった微笑だった。

「ありがとう」

 告げた言葉は、さよならの代わりだった。




 おおやけの務めを終えた社は、ひっそりと静まり返っていた。足もとを照らす行燈あんどんがぽつぽつと灯るばかりの廊下は、行き交う神官の姿もない。部屋を出るときに見張りの衛士の横をすり抜けたが、首巻に半ば顔を埋めて足早に行き過ぎる宮司を呼び止める者はいなかった。病人用の首巻は、今日のために幽が施してくれた下準備のひとつだった。宮司は夏風邪で喉を痛め、声が出せないことになっている。

(宮司と巫女が入れ替わるなんて、誰が想像するかしら)

 傘をさして、本殿の外へ出る。見回りの衛士が行き過ぎたのを確認して、歩調を速めて北の木立へと進む。

『私は、このとおり、小柄ですから』

 幽の笑みを思い出す。苦笑を交えつつも、それは不敵な色を滲ませていた。

『傘をさしていれば、なおのこと、私とあなたの背丈を比べる者もいないでしょう』

 大粒の雨が傘を叩く。雫のささらが静寂を撹拌し、加速する鼓動も足音も霧散させていく。闇の中、雨音に全身を包まれていると、自分の輪郭が消失していくような錯覚をおぼえる。この体を脱ぎ捨てられるような、仄暗く、甘やかな感覚だ。

(巫女の器から、自由になれる)

 はやる体に対して、思考は不思議と落ち着いていた。木立に入る手前で、白華は一度だけ後ろを振り返った。とうみょうの光をいだき、陰影の闇をまとう神殿。もう二度と戻ることはないのだと、いだ心で、淡々と思う。

(さよなら)

 目を閉じて、背を向ける。

 感情の引き金は、ぴくりとも動かなかった。




 幽に教わった道順で、木立の中を進んでいく。石畳の敷かれた、手入れの行き届いた道だったけれど、灯りは点在するいしどうろうだけで、闇を払うには弱々しい。

(夜って、こんなに、暗いものだったのね)

 こんなに、優しいものだったのね。

 ひんやりとうるんだ闇が、心地良く身を包む。この身をさらす光をもたない、なにもかもをゆるすような、やわらかな帳。白華は、そっと空を見上げた。こずえの狭間に垣間かいま見えるのは、最後の記憶とは正反対の、星の欠片も灯らない雨天。けれど今宵ばかりは、この雲が、この雨が、自分たちの味方だ。

 木立を抜ける。ひらける視界。連なる垣。衛士に守られた門は、すぐに見つかった。

(……ここが……)

 すくんだ足が歩調を乱す。怖気おじけづくなと自分を叱咤し、止めかけた歩みを無理やりに進める。

 彼らは宮司の姿を認めると、深々と頭を下げた。

「このような雨の中を……」

「お風邪を召していらっしゃいますのに……」

 無意識に、傘を、顔を隠すように傾けてしまう。早鐘を打つ胸。傘を握る手が、じっとりと汗ばんでくる。大丈夫、と言い聞かせて、白華は背筋を伸ばした。歩幅を広く取り、つとめて堂々と、彼らの前を通り過ぎる。残りの歩数を指折り数えて、呼吸さえ止めて、門をくぐる。

(……やっと、来られた……)

 見破られることは、とうとうなかった。首巻の上から口をおさえ、零れそうな声を留める。一歩、一歩、震える足で、殿舎の階段を上がる。扉を、ひらく。

「紅葩」

 鏡のように、向かい合う。

 影の一切を払うがごとく灯された、密に並ぶ燭台と行燈。夜闇に慣れた目をくらませる、煌々こうこうと燃える光の中で。

「九年振りね」

 後ろ手に扉を閉める。雨の音が遮られ、しんと静寂が打ち広がる。

「……白華……」

 茫然と見つめる、同じ造りの顔。雫のように零れ落ちた、同じ音色の声。白華の微笑を映して見ひらく、同じ色の瞳。

「幽から、話は聞いているでしょう」

 時間がない。急がなければ。紅葩に駆け寄り、足枷あしかせに手を伸ばす。

「今、解くから」

 すぐに衣装を交換して、紅葩を宮司の姿に仕立てないと。

「……どうして、白華」

 枷の鍵を握る白華の手を、紅葩がつかんだ。瞳を揺らして、食い入るように白華を見つめる。

「幽から伝えたとおりよ、紅葩。この国の犠牲になる巫女は、私たちの代で終わりにするの」

「……犠牲……?」

 紅葩の声が震えた。大きくかぶりを振り、白華を見上げる。

「たしかに、私、死にたくないって、言った。この国に殺されてたまるものかって、何度も言った。けど、それは、白華、あなたを身代わりにして叶えたいことじゃない」

「……逆よ、紅葩」

 右手を掴む紅葩の手に、白華は、ふわりと左手を重ねた。同じ温もりをもつ、惑う手をなだめるように。

「私があなたの身代わりになるんじゃないわ。私があなたを身代わりにするの」

 あなたに、生きることを押しつけて。

 死ぬことを許されない世界に縛りつけて。

「死ぬことより、生きつづけるほうが、ずっと、ずっと……こわいから」

 ただ、自分が楽になりたいだけ。

 命と引き換えにしてでも、逃げたかっただけ。

「だから、紅葩」

 あなたに、未来を望める強さがあるなら。

「生きることから、私を助けて」

 紅葩の手に添えていた白華の手は、いつしか紅葩の手を、縋るように握りしめていた。視界が水面みなもに揺れる。瞳に湛えきれない、雫があふれる。白華の頬を流れ、伝い落ちた透明な雫が、結んだ手を雨のように濡らしていく。ひとりよがりに流れた涙なのに、狡くて汚い涙のはずなのに、それは、どこまでも澄んだ光を含み、滲むように、あたたかかった。

「白華」

 紅葩の声が、白華の耳に触れた。ささやく唇。重なる頬が、同じ熱を宿して濡れていく。

「白華」

 もういちど、声が降る。やわらかく、優しく、うつおの体に、ひら、ひら、と羽をおとしていくように。

「私が、ここで生きた、九年間は……」

 甘い不幸ごっこに浸っていた九年間は、

「白華、あなたが、必死で永らえさせてくれた九年間だったのね」

 ゆるり、と手をほどく。ぎゅっと、白華を抱きしめる。

 重ね合って、とけあわせて。同じ温もりも、同じ心音も、ありがとうも、ごめんなさいも。

 そして、さいごの、さよならも。




 雨の帳が上がりはじめていた。いつかのように、ぬかるんだ道。けれど、いつかと違って、この手を繋ぐものはない。星空も、蛍の光も灯らない。暗い木立の中を、紅葩は歩いていく。長く封じられていた脚には、途方もなく遠く感じる、過酷な道のりだった。一歩を踏み出す度に駆け上がる痺れと痛み。冷たい汗が背中を流れる。いまにもくずおれそうな脚を叱咤しったして、歯を食いしばりながら、一歩ずつ踏みしめていく。洞の出口のように、ぼうっと明るい、道の先を見すえて。

 木立を抜ければ、目の前に広がる、荘厳な神殿。闇夜の中、煌々こうこうと灯火に照らされて、鮮やかに浮かび上がる陰影は、人々の崇拝のまなざしに堪え得る森厳なたたずまいをみせていた。

「これが、この国の偶像……」

 唇を引き結び、傘の下から睨み上げる。

「…………抜け殻にしてやる」

 息をつめて、階段に足をかける。爛々らんらんと光をいだく神殿の門は、大口をあけた巨大な魔物のように見えた。




「お待ちしておりました」

 頭に叩き込んだ地図をなぞり、初めて上がった、本殿の奥。

 紅葩の前にひざまずき、幽はうやうやしい宮司の一礼をした。

「計画の第一歩は、成功ですね」

 告げる幽の声は淡々としていて、感情の一切を読み取らせない。あなたが待っていたのは、ほんとうに私? 胸の内に浮かんだ言葉を、紅葩は飲み込む。後戻りのできない坂道を、車輪は転がりはじめたのだ。私たちが、突き落としたのだ。積み荷に、この国と、白華を乗せて。

 幽を見下ろし、引き結んでいた唇をひらく。

「《浄めの巫女》の務めを教えて」

 つとめて、冷ややかに。

「どんな務めだって、完璧にこなしてみせるわ」

 体の両側で、手を握り込む。虚勢の糸で縛りつけて、わななく脚を支えつづける。まだだ。まだ、膝をつきたくない。

「……では、まず、あなたの脚を、《浄罪の儀》の舞に耐え得るまで回復させましょう。かなりの苦痛を伴うことになりますが、覚悟してください」

 ひと月です、と幽は言った。理由をつけて、怪しまれずに儀を延期できるのは、せいぜい、ひと月が限度だ。

「望むところよ」

 言い放つ。

「これが、私の生きる代償だから」

 漆黒の瞳を、鮮やかにきらめかせて。

「双子の片方が死ななければならないなんて、そんなの絶対まちがってる」

《鎮めの巫女》を求める神様なんて、私が否定してやる。否定しつづけてやる。生きていく、生きつづけていく、私の、この命で。

「この国も、神様も、私は絶対に許さない」

 言葉の最後が、ふつりと切れた。ぐらり、と紅葩の両脚が揺らぐ。支えを失い倒れ込む紅葩を、幽の腕が抱きとめる。閉ざされたまぶた。かたちの良い眉をひそめ、紅葩は苦しげな呼吸を連ねた。必死に繋ぎとめていた意識も限界だった。

「……よく、ここまで、歩いてくれました」

 紅葩を抱き上げ、敷布の上に横たえる。この分だと、熱が出るだろう。解熱剤と鎮痛剤の処方を、頭の中で組み立てる。

「紅葩」

 ささやく声が、薄闇にとける。

「私も、ですよ、紅葩」

 聞こえていないのはわかっている。ただ、言葉を、宛てるだけだ。手の中から飛び立たせた、いつかの蛍火のように。

「《浄めの巫女》を求める国など、私が否定してみせます」

 巫女を掲げる神の呪縛から、この国を解放する。

「私と、あなたは、共犯です。紅葩」


 ふたりで、白華を殺したのですから。



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