【五】
梅雨入りを告げたはずの雨の帳は、わずか四日で上がってしまった。日照りは明日でひと月を迎える。雲ひとつない空はまさに梅雨明けの色を呈しているのに、蝉の声は鳴らないまま、不気味な晴れの日が横たわっている。
強い陽の光と熱に
山の頂を覆う霧も、いつになく薄くなっている。守り神が荒ぶっているのではないかという不安が、人々のあいだに広がりはじめていた。それは宮司である私の懸念事項の最たるものだった。
事件が起きたのは、照りつける陽射しがちょうど真上から注ぐ、昼時のことだった。
社の警備をどうやってくぐり抜けたのか。草刈鎌を携えた男が一人、境内に入り込んでいた。
「浄めの巫女か」
取り上げた鎌を、私は男の首にあてがった。
「どこの村の者だ?」
私は言った。形だけの問いだ。男は口を割らないだろう。だが、調べれば
「俺は間違っていない!」
男は
「村の沢が
身じろぐ男の首が鎌に触れ、すっと赤い傷を引いた。私は男を組み伏せたまま、鎌を握る手に力を込める。
「私がいる限り、巫女が十八になるまで、儀を執り行わせはしない」
「はっ、おめでたい宮司だな。それは平時のしきたりだろ。今は非常時だ!」
吐き捨てるように、男は歪んだ笑いに口の端を吊り上げた。私は表情を消したまま、つとめて冷ややかに言葉を投げる。
「そう思うのなら、なおのこと、この国の罪を、これ以上、増やさないでもらいたいな」
駆けつけた衛士が、私たちの周りを取り囲んでいる。息をつき、私は男を彼らに引き渡した。まもなく検非違使も到着するだろう。
「お怪我は、ありませんか?」
衛士の後ろに下がらせた白華に、私は歩みを向ける。衛士たちは無言で一礼し、私に道をあけた。
「……あなたが庇ってくれたから……でも……」
「掠り傷です。頬なら
それよりも、あなたが無事でよかった。
「巫女の守護が、宮司である私の最大の務めですから」
私は微かに笑ってみせた。白華は雫を湛えた瞳を揺らし、俯いた。
「奥へ参りましょう」
白華を促し、日照りの廊下をあとにする。白華は、ずっと顔を伏せていた。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声が、滴のように、ぽつりと落ちた。
「あなたは、なにも悪くありませんよ」
私はただ、静かに答えた。震える小さく細い肩に、伸ばしかけた手を、きつく握り込んで。
(あなたは……)
自身で気づいていただろうか。
(あの男が、あなたに鎌を振りかざしたとき)
あなたは、笑ったのだ。
(巫女の色ではなく、白華の色で)
まるで、心から、待ちわびたように。
#
社の本殿で、私は久しぶりに徇と、宮司と検非違使の上官として相対することになった。
「
床に手をつき、徇は深々と頭を下げた。
「直ちに都の
広い本殿に、張りのある徇の声が響き渡る。
「鼠一匹、逃すな」
つとめて低く抑えた声で、私は告げる。徇は大きく
形式張ったやりとりはこのくらいで良いだろう。私は軽く座り直し、ふっと表情を和らげた。
「聞けば、夜のあいだに垣を越え、ずっと渡殿の下で機会を窺っていたらしいな。昼間だからと、どこかで油断していた、私の落ち度もある」
「いえ! そんな! 賊の侵入をゆるした我々検非違使の
勢いよく上体を起こし、徇は私を見上げた。額に汗の粒が散っていた。つくづく生真面目な男だと思う。
「……お怪我を召されたと聞きました」
徇の声が、
「危うく御耳を切り落とされるところだったと」
「いや、それは行き過ぎだ」
浮かべていた私の微笑が、少しばかり引きつった。大方、衛士から聞いたのだろうが、
「よく見ろ。ほんの掠り傷だ。そこまで腕は鈍っていないぞ」
指先で軽く耳介を叩いてみせると、徇の面持ちが、ぱっと華やいだ。
「まこと! やはり、さすが兄上です! 賊なんて、目ではございませんね!」
徇の描く表情は、年の割に随分とあどけない。私の口もとに苦笑が滲む。
「だが、ここしばらく手合わせをしていないからな。本当に腕が鈍っては困る。久々に組み手を頼めるか? 徇」
「はい! よろこんで!」
#
社の大鳥居まで、徇を見送った。
陽は山の
「徇」
先を歩く大きな背中に、私は呟くように言った。
「信仰に支えられた国は、強いと思うか?」
「……幽様?」
足を止め、徇は振り返った。衛士たちに聞かれないよう、距離を詰めて、声を落とす。明るく実直な性格のせいで幼く見られがちだが、彼も元は私と同じ、宮司候補に選ばれた男だ。思慮深さは心得ているし、国に対する忠誠心は、私より
「すべてを神のせいにして、そこで思考を止めてしまう」
私を宮司に定めたのも、最後は
学術も体術も、私と徇でほとんど差はなかったのに。
宮司になることを望んでいたのは、私ではなく、徇だったのに。
「思考を止めては、いけませんか?」
徇は言った。どういうことだ、と私は徇を見上げた。
「寄る辺のない辛苦の先にあるのは、絶望の末の死でしょう。理不尽な苦杯を
結末を変えられないのなら、せめて安らかに。
「それが、この国の守り神であり、双子の巫女であると?」
「無論です」
徇は一歩、距離を詰めた。私を見下ろす影が、私を覆う。
「兄上」
気遣うように、
「あなたは、双子の巫女に情を移しすぎているのではありませんか? 巫女の務めを、至上の幸福だと思えるように教育するのが、宮司の務めではないのですか?」
幸福?
国のために死ぬことが?
国のために殺すことが?
「……最初の問いに、答えましょう」
徇の影が、立ち尽くす私から、
「信仰に支えられた、いや、信仰に束ねられた国は、とてつもなく強いですよ、幽様」
返される
「……やはり、お前が宮司になるべきだったのだ」
私の声が、影に落ちる。
(それでも、この国は、私を宮司に選んだ)
(ならば、私は……)
顔を上げる。踵を返す。徇の背中は、もう見なかった。
三日の後に、雨は降った。
白く煙るほどの豪雨の中、巫女に鎌を振りかざした男は《浄罪の儀》に処せられた。男の血は、噴き出す傍から雨に流され、一片の痕跡も残らなかった。
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