【五】

 梅雨入りを告げたはずの雨の帳は、わずか四日で上がってしまった。日照りは明日でひと月を迎える。雲ひとつない空はまさに梅雨明けの色を呈しているのに、蝉の声は鳴らないまま、不気味な晴れの日が横たわっている。

 強い陽の光と熱にさらされ、乾ききった境内は、南風が吹き抜ける度、さらさらと白い砂埃が舞う。社の本殿は、普段に増して静かだ。雨乞いの儀を執り行い農民たちの不安をなだめるため、社は中級、下級の巫女たちを、各地の村に派遣していた。

 山の頂を覆う霧も、いつになく薄くなっている。守り神が荒ぶっているのではないかという不安が、人々のあいだに広がりはじめていた。それは宮司である私の懸念事項の最たるものだった。

 事件が起きたのは、照りつける陽射しがちょうど真上から注ぐ、昼時のことだった。

 社の警備をどうやってくぐり抜けたのか。草刈鎌を携えた男が一人、境内に入り込んでいた。

「浄めの巫女か」

 渡殿わたどのを歩いていた白華に、男は潜んでいた廊の下から飛び出した。鎌を振りかざし、白華に向かって躍りかかる。私はとっさに白華を背にかばった。男の鎌が空を切る。私は身をひるがえし、男の手を必死で掴んだ。日々の農作業で鍛えられた腕だ。力では私はかなわない。だが、相手を組み伏せるすべは、力比べだけではない。振り下ろされる相手の力を利用して、相手の手首を軽くひねり、いなす。男が体勢を崩したところを突き、足を払い手の甲を叩き鎌を奪い、うつ伏せに倒す。

 取り上げた鎌を、私は男の首にあてがった。

「どこの村の者だ?」

 私は言った。形だけの問いだ。男は口を割らないだろう。だが、調べれば容易たやすく突き止められる。この男の村は、とがまぬがれない。

「俺は間違っていない!」

 男はえた。年は私より二十ほど上に見えたが、声は酷くしわがれていた。

「村の沢がれた。このまま雨が降らなければ、村は滅びる。浄めの巫女が死ねば、その月の末日が《鎮めの儀》を行う日になるんだろ? 鎮めの巫女を捧げれば、山の荒神を鎮められる。雨だって恵んでくださるさ。村のためだけじゃない。国のためにもなるじゃないか!」

 身じろぐ男の首が鎌に触れ、すっと赤い傷を引いた。私は男を組み伏せたまま、鎌を握る手に力を込める。

「私がいる限り、巫女が十八になるまで、儀を執り行わせはしない」

「はっ、おめでたい宮司だな。それは平時のしきたりだろ。今は非常時だ!」

 吐き捨てるように、男は歪んだ笑いに口の端を吊り上げた。私は表情を消したまま、つとめて冷ややかに言葉を投げる。

「そう思うのなら、なおのこと、この国の罪を、これ以上、増やさないでもらいたいな」

 駆けつけた衛士が、私たちの周りを取り囲んでいる。息をつき、私は男を彼らに引き渡した。まもなく検非違使も到着するだろう。

「お怪我は、ありませんか?」

 衛士の後ろに下がらせた白華に、私は歩みを向ける。衛士たちは無言で一礼し、私に道をあけた。

「……あなたが庇ってくれたから……でも……」

 かげる瞳。白華の手が、私に伸びた。気づいた私は、白華が触れようとした私の耳に、遮るように先に手を遣る。ぬるりと生温なまぬるいものが指に触れた。完全にかわしたつもりだったが、耳の端が僅かに切り裂かれていた。

「掠り傷です。頬ならはくでもついたでしょうが、これくらい、たいしたことはありません」

 それよりも、あなたが無事でよかった。

「巫女の守護が、宮司である私の最大の務めですから」

 私は微かに笑ってみせた。白華は雫を湛えた瞳を揺らし、俯いた。

「奥へ参りましょう」

 白華を促し、日照りの廊下をあとにする。白華は、ずっと顔を伏せていた。

「……ごめんなさい」

 消え入りそうな声が、滴のように、ぽつりと落ちた。

「あなたは、なにも悪くありませんよ」

 私はただ、静かに答えた。震える小さく細い肩に、伸ばしかけた手を、きつく握り込んで。

(あなたは……)

 自身で気づいていただろうか。

(あの男が、あなたに鎌を振りかざしたとき)

 あなたは、笑ったのだ。

(巫女の色ではなく、白華の色で)

 まるで、心から、待ちわびたように。







 社の本殿で、私は久しぶりに徇と、宮司と検非違使の上官として相対することになった。

此度こたびの一件、まことに申し訳ありませんでした」

 床に手をつき、徇は深々と頭を下げた。

「直ちに都のせきと、社の周りの警備を強化いたしました」

 広い本殿に、張りのある徇の声が響き渡る。

「鼠一匹、逃すな」

 つとめて低く抑えた声で、私は告げる。徇は大きくいらえを返し、床にぴたりと額をつけた。

 形式張ったやりとりはこのくらいで良いだろう。私は軽く座り直し、ふっと表情を和らげた。

「聞けば、夜のあいだに垣を越え、ずっと渡殿の下で機会を窺っていたらしいな。昼間だからと、どこかで油断していた、私の落ち度もある」

「いえ! そんな! 賊の侵入をゆるした我々検非違使のせめです!」

 勢いよく上体を起こし、徇は私を見上げた。額に汗の粒が散っていた。つくづく生真面目な男だと思う。

「……お怪我を召されたと聞きました」

 徇の声が、いきどおりに震えた。

「危うく御耳を切り落とされるところだったと」

「いや、それは行き過ぎだ」

 浮かべていた私の微笑が、少しばかり引きつった。大方、衛士から聞いたのだろうが、いささか尾ひれがつきすぎだ。

「よく見ろ。ほんの掠り傷だ。そこまで腕は鈍っていないぞ」

 指先で軽く耳介を叩いてみせると、徇の面持ちが、ぱっと華やいだ。

「まこと! やはり、さすが兄上です! 賊なんて、目ではございませんね!」

 徇の描く表情は、年の割に随分とあどけない。私の口もとに苦笑が滲む。

「だが、ここしばらく手合わせをしていないからな。本当に腕が鈍っては困る。久々に組み手を頼めるか? 徇」

「はい! よろこんで!」







 社の大鳥居まで、徇を見送った。

 陽は山のに落ち、茜に染め上げられた空は、明日も雨は望めないことを告げていた。

「徇」

 先を歩く大きな背中に、私は呟くように言った。

「信仰に支えられた国は、強いと思うか?」

「……幽様?」

 足を止め、徇は振り返った。衛士たちに聞かれないよう、距離を詰めて、声を落とす。明るく実直な性格のせいで幼く見られがちだが、彼も元は私と同じ、宮司候補に選ばれた男だ。思慮深さは心得ているし、国に対する忠誠心は、私よりあついだろう。私がいなければ、宮司に選出されていたのは、まちがいなく彼だ。

「すべてを神のせいにして、そこで思考を止めてしまう」

 私を宮司に定めたのも、最後はうらないによるものだった。

 学術も体術も、私と徇でほとんど差はなかったのに。

 宮司になることを望んでいたのは、私ではなく、徇だったのに。

「思考を止めては、いけませんか?」

 徇は言った。どういうことだ、と私は徇を見上げた。

「寄る辺のない辛苦の先にあるのは、絶望の末の死でしょう。理不尽な苦杯をめ、不条理に耐えつづけるには、人の心は、あまりにも脆い。抱えきれない惨苦を、さいごにゆだねられる存在が必要なのです」

 結末を変えられないのなら、せめて安らかに。

「それが、この国の守り神であり、双子の巫女であると?」

「無論です」

 徇は一歩、距離を詰めた。私を見下ろす影が、私を覆う。

「兄上」

 気遣うように、いさめるように、低めた声で、私を呼ぶ。

「あなたは、双子の巫女に情を移しすぎているのではありませんか? 巫女の務めを、至上の幸福だと思えるように教育するのが、宮司の務めではないのですか?」

 幸福?

 国のために死ぬことが?

 国のために殺すことが?

「……最初の問いに、答えましょう」

 徇の影が、立ち尽くす私から、おもむろに離れる。私の体が、夕陽の炎にあぶられる。足もとから重なっていた私と徇の長い影が、すっと平行に分かたれる。

「信仰に支えられた、いや、信仰に束ねられた国は、とてつもなく強いですよ、幽様」

 返されるきびす。身にまとう赤い袍は、夕陽の雫に濡れて、まるで血染めの衣のようだった。

「……やはり、お前が宮司になるべきだったのだ」

 私の声が、影に落ちる。

(それでも、この国は、私を宮司に選んだ)

 うらないが、神託が、私に宮司になれと告げた。

(ならば、私は……)

 顔を上げる。踵を返す。徇の背中は、もう見なかった。



 三日の後に、雨は降った。

 白く煙るほどの豪雨の中、巫女に鎌を振りかざした男は《浄罪の儀》に処せられた。男の血は、噴き出す傍から雨に流され、一片の痕跡も残らなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る