【四】

 雨の音が、夕さりの静寂に微かなさざなみを立てていた。

 しっとりと水気を含んだ空気は絹の紗のように柔らかく風景を包み、物の輪郭を夕闇に滲ませていく。

「白華」

 まもなく日が落ちます、と幽は静かに障子に手をかけた。

 勾欄こうらんもたれ、池に浮かぶ波紋を見るともなしに眺めていた私は、小さく頷き、立ち上がる。向かう先は、本殿の最奥だ。夜のあいだ、私は外気に身をさらすことを禁じられている。四方を囲む廊下に不寝ねずの番を配した部屋の中で、私は朝が来るまで一歩も外に出ることなく過ごす。

 ふすまの向こうで、控えめな女の子の声がした。夕餉ゆうげを運んできた巫女たちの声だった。入室を許す幽の声が、凛と響く。私と同い年くらいだろうか、うやうやしく膳を捧げる彼女たちの面持ちは、とても誇らしげな色をしていた。社に勤める人間は大勢いるけれど、宮司と《浄めの巫女》に近づけるのは、ほんの一握りだ。数多あまたの巫女の中から特別に選ばれたのだという矜持が、床をすべる足さばきにも、膳を置く指先の整え方にも、あらわれていた。私に膳をすすめた巫女が、そっとおもてを上げて、私の顔をうかがう。私は口もとにやわらかな微笑を浮かべて、会釈をする。たったそれだけで、彼女の瞳は感激のしずくたたえてうるむ。宮司を通さずに発言することは禁じられているから、言葉をかけることはできないけれど、もし、お礼の声を伝えたら、彼女は、どんな反応をするだろう。

 こういうとき、私は改めて思い知る。彼女たちにとって、《浄めの巫女》は、そういう存在なのだ。社が、この国が、そう定め、まつりあげてきた、国を束ねるための偶像。浄罪と安息の象徴……七つまでの私は、ただの貧しい村娘だったのに。

 深く一礼して、彼女たちは下がっていった。部屋に再び、ふたりきりの静けさが戻ってくる。

「お召しになりますか?」

 幽の声が静寂を揺らす。つとめて感情を抑えた声。

「ええ、お願い」

 私は頷く。目を伏せて、幽はたもとから、小さく折り畳んだ薬包紙を取り出す。中に包まれているのは、氷砂糖に似た、半透明の白い欠片。私を生かす、ただひとつの薬。

「いつ見ても、きれいね」

 指先でつまんで、燈台の光にかざしてみる。

「……他に、お望みのものは、ございますか?」

 幽が尋ねる。いいえ、と私は目を伏せる。

「これで充分よ」

 私に心を砕いてくれる、幽の面持ちを、これ以上、かげらせたくはなかった。

「またね、幽」

 私は微笑む。幽に宛てて、ありがとうと、ごめんなさいの代わりに。

「朝まで、さよなら」

 白い結晶を、こくん、と飲み干す。目を閉じて、私の中で、さらさらと崩れてとけていくのを、じっと待つ。

 閉ざした瞼の暗闇に、思い浮かべるのは、いつも同じ。

 さいごに見上げた、満天の光の河。私の隣で咲いていた、泥だらけの無邪気な笑顔。


――紅葩。


 七つを迎えた日に引き離された、私の双子の妹。

 忘れたくなくて、繰り返し、くりかえし、思い出しているのに、時間は立ち込めるきりみたいに、遠い記憶をおぼろにしていく。

(私が死なない限り、あの子は十八になるまで生かしてもらえる)

 あと、二年。

(十八になるまでに私が死ねば……おきてに従い、その時点であの子は殺されてしまう)

 殺させない。少しでも長く、生きて。

 私は記憶を抱きしめる。空をく星の河を。私の隣で瞳を輝かせていた、あどけない笑顔を。


――願わくは、星空を、もういちど、一緒に。


 私の中で幽の薬が目を覚ます。それは優しく、私を私から解放する。私は、ふっと目をあける。薄闇に宿る記憶が光にかすみ、消えていく。私はおもむろに、膳に手を伸ばす。淡々と、黙々と、よどみなく、椀を平らげていく。まるで、そのように動く仕掛けを組まれた絡繰からくり人形のように。

(そう、人形……正しいたとえだ)

 味は全く感じない。湯気の立つお吸物の温かさも、舌触りも歯ごたえも、箸を持つ感覚さえも、どこか遠く、淡い。

 私を、私から、切り離す。それは、《浄めの巫女》の務めを果たすうちに覚えた、私の特技だった。恐怖も苦痛も拒絶も感じない。私は完璧な《浄めの巫女》になることができた。命乞いをする罪人を前にしても、すくまなくなった。穏やかに上下する依頼人の胸に、ためらいなく刃を突き立てることができるようになった。体の感覚も、心の感覚も、なくしたら、私は上手に仕事をこなすことができたのだ。

 けれど、それは自分に麻薬を与えつづけるようなものだったらしい。仕事が終わると、私は私を拒絶するようになった。

 なきわめく罪人の首を一太刀でねられるようになった代わりに、何を食べても全て吐いてしまうようになった。

 永遠の眠りを乞う依頼人の望みを一思いに叶えられるようになった代わりに、何を飲んでも一睡もできなくなった。

 衰弱していくばかりだった私に、幽は、この薬をくれた。《御霊送りの儀》の依頼人のためにつくられた鎮痛剤や鎮静剤をもとに、幽が私のためにつくりあげてくれた、試作の薬。これが効いているあいだは、私は、何も感じずにいられる。体のいたみも、心のいたみも、するりと抜き取られて、私は私を、ちゃんと生かしつづけていられる。

 この体を、うつおにする。白華から巫女になるときに、自分の意志でしていたことを、巫女から白華に戻るときに、幽の薬を借りてするだけだ。なにも変わらない。昼も夜も、私は、ずっと、空のまま。

 痛みも、傷みも、悼みも、なくして。


 明日も、私の抜け殻は、正しく仕事をこなしていく。



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