【三】

 月の見えない夜だった。あえかな星の光が、とがった針葉樹の枝葉にふるわれて、ほのかに、淡く、散っていた。夜のとばりの下りた木立の中を歩くと、下草のつゆと立ち込めるもやを吸い、はかますそは、たちまちしっとりと重くなる。

 昨日の夜から降りはじめた雨は、今日の夕暮方ゆうぐれがたには止んだものの、夜気はひんやりとうるおったままで、まもなくこの国が梅雨の紗に覆われることを告げていた。

 社の北端。最も霊峰に近い場所に、背の高い垣で囲われた一角がある。人ひとり分の幅だけ設けられた門の両側には、赤々と篝火かがりびかれ、大柄な年かさの衛士が配されている。木立の狭間を縫って、ひそめた彼らの話し声が聞こえた。

「昼の番だった奴に聞いたんだが、またくわだてたらしいぜ」

「へえ、今度は、どんな方法だ? また仮病か?」

「仮病ならかわいいものだがな……くしの歯を折って磨いて刃に仕立てたらしい。朝餉あさげで扉があいた隙に、そいつを突きつけて逃げようとしたんだと」

「ははっ、それは勇ましいな」

「笑いごとではないぞ。まったく……浄めの巫女様は、日々粛々と務めを果たされているというのに……」

「しかし未だに諦めないとは、なかなか気概のある娘じゃないか。なにより別嬪だし、捧げものじゃなかったら俺が嫁にしたいくらいだ」

「俺は御免だね。美人なのは認めるが、浮気でもしてみろ、巫女でなくてもたたられそうだ」

 彼らの会話は、そこで慌てて打ち切られた。木立を抜けて近づく私の姿を認めたからだ。

「宮司様」

 彼らはそろってうやうやしくこうべを垂れた。

「変わりないか?」

 いささかの皮肉を込めて、私は言った。彼らは互いに顔を見合わせて、いびつな愛想笑いを浮かべた。

「護衛を」

「いや、不要だ」

「しかし」

「命令だ」

 途惑とまどう衛士たちを制し、私は門をくぐった。

 広い庭だ。彼処かしこに灯されたいしどうろうの光が、墨染すみぞめの夜気にだいだい色を滲ませている。中央には、黒漆で仕上げた高床式の殿舎が建てられていて、周りには、まるで夜闇で塗り固めたように、黒い玉砂利が敷き詰められている。どんなに足音を忍ばせても逃さず打ち鳴らす黒い石は、殿舎の中にいる者に来訪者の存在を知らせると同時に、中にいる者が外へ出ようとしたときには即座に衛士に伝える役目も果たしている。

 張られた注連縄しめなわを外し、私は静かに扉の鍵をあけた。

 中は五十畳ほどの広さで、煌々こうこうと明るい光に満ちている。等間隔に灯されたしょくだい行燈あんどん。外側とは対照的に、内部の壁や床は黒漆が塗られておらず、鏡のようにつややかに磨かれ、眩しいほどだ。

 部屋の中心へと、私は進んでいく。棚という棚に何巻もの草子や絵巻物がおさめられ、色とりどりの折り紙や遊具が、床のあちこちに散らばっている。所望されるままに取り寄せられた物の数々。まるで玩具箱のような部屋だった。

「遅かったわね、幽」

 奥のちょうだいから、凛とした少女の声が放たれた。苛立ちをあらわにした、棘を含んだ声音だった。次いで、声を追いかけるように、つい、と私の足もとに何かが飛んできた。鳥の形に折られた千代紙だった。いつか私が折り方を教えたもの。そっと拾い上げ、私は帳台のもとにひざまずく。

「申し訳ありません」

「そうやって謝るところも、嫌いよ」

 微かに衣擦れの音がして、小柄な少女が浜床を下りてくる。

 白い肌をひきたてる長い黒髪。染みひとつない白の千早。鮮やかな緋色の袴。

「夏至が近いのね」

 低めた声で少女は言った。日が落ちなければ、私はここへ来ることはできない。そのことを少女は知っていて、だからこそ忌々いまいましく思うのだろう。

「夜が来るのが遅い。どんどん、外へ出られなくなる」

 少女は薄い唇を噛みしめた。華奢な左足にはかせめられ、奥の柱に繋がれている。私は静かに、それを外した。何百日、何千日と繰り返してきた、慣れた手つきで。

「っ……」

 瞬間、視界の端で、何かが鋭くひらめいた。とっさに身をひるがえした私の頬を、少女の右手が掠めていく。私は素早く、その手首を掴んだ。振りほどこうとした少女の左手が、傍にあった棚の上のすずり箱を払い、けたたましい音を立てて中身を床にぶちまけた。聞きつけた衛士が駆けつけてしまうだろうかと危惧したが、私に両手を封じられ、壁際へ追い詰められた少女は、それ以上の抵抗を止めた。

 少女の右手には、小刀に変えたくしが握られていた。

「武器に仕立てたものが、昼間に取り上げたひとつだけだと思うなんて、見張りの衛士も平和なものね」

 私を見上げて、少女は不敵に笑った。視線とともに、私は静かに言葉を落とす。

「……あまり暴れると、左足だけでなく、両手両足を拘束しなければならなくなります。それは、あなたも、私も、望むものではないでしょう」

「縛りたければ、いくらでも縛ればいいわ」

 その度に解いてやるから、と少女は私を睨みつける。私は小さく息をつき、少女の細い手首を束ねる手に力を込めた。かたちの良い少女の眉が、わずかに苦痛に歪む。

「あなたに、手荒なことを、私はしたくありません」

「大事な生贄だものね」

「理由は、何とでも」

 ただ、あなたは。

「外へ出たくは、ないのですか?」




 近くを流れる沢の音が、夜の静寂しじまをかすかにさざめかせている。遣水やりみずに引いている沢だ。あと数日中には、この庭にも飛び交う蛍を望むことができるだろう。

「夏は嫌いだけど、蛍は好き」

 星みたいだから、と少女は中島へと渡る橋の上で、おもむろに私を振り返った。透きとおるように白い頬が、夜の下で光を宿すように浮かび上がる。七つで社に連れられて以来、一度も陽の光を浴びることのなかった少女の肌は、燈籠の炎に照らされてもなお病的なほどに白く、表情によってはさながら人形のように見える。

(……人形か)

 それは、きっと正しいなぞらえだ。たとえ少女が、どれだけそれを拒もうとしても。

「……支えを」

「構わないで」

 手をさしのべた私に、少女は首を横に振った。少女の脚は、おのれの体を長く支えることができない。九年前、社が彼女を迎えて最初に施したことは、彼女の脚を封じることだった。ここから逃さないために。務めを果たすその日まで、彼女を失わないために。記録によれば、自害を図られないよう体の自由の一切を縛めていた時代もあったという。


――《鎮めの巫女》。


 《浄めの巫女》と対となる、この国を支えるもうひとつの柱。彼女に日々の務めはない。儀を行う日まで、この場所で生き延びることが、唯一の仕事だ。

「十八になるまで、あと二年なのね」

 せせらぎに乗って、少女の声が軽やかに響く。つとめて、重くならないように、虚勢に引き上げられた声音だった。

「ねえ、幽?」

 橋の欄干らんかんで身を支え、少女は微笑む。研ぎ澄まされた刃の切っ先のように鋭く、底の見えないふちのように冷たく。

「白華は、元気?」

 よくとおる、澄んだ声で。

「私が今こうして生きているのだから、まだ死んではいないのだろうけど」

「……ええ、日々、務めを果たして、生きておられますよ」

「…………そう」

 少女は静かに、夜の底に横たわる池の水面みなもを見つめた。

「幽は……」

 黒い水面に、滴のように問いかけが降る。

「死ぬのが、こわい?」

 向けられるおもて。華奢な肩を流れる墨色の髪。

「それとも」

 薄い唇の両端を、ゆるやかに引き上げて。

「生きるほうが、こわい?」

 笑みのかたちに細められる瞳。星の見えない夜空のような、どこまでも暗く、深い、漆黒の瞳――白華と同じ、けれど、白華にはないはげしさを宿した常闇とこやみの瞳。

「……紅葩くれは

 私の声が、闇に落ちる。

 少女は微笑む。夜空に燃える螢惑のように。

 白華と同じ顔で。

 白華とは似ても似つかぬあでやかな色で。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る