【三】
月の見えない夜だった。あえかな星の光が、
昨日の夜から降りはじめた雨は、今日の
社の北端。最も霊峰に近い場所に、背の高い垣で囲われた一角がある。人ひとり分の幅だけ設けられた門の両側には、赤々と
「昼の番だった奴に聞いたんだが、また
「へえ、今度は、どんな方法だ? また仮病か?」
「仮病ならかわいいものだがな……
「ははっ、それは勇ましいな」
「笑いごとではないぞ。まったく……浄めの巫女様は、日々粛々と務めを果たされているというのに……」
「しかし未だに諦めないとは、なかなか気概のある娘じゃないか。なにより別嬪だし、捧げものじゃなかったら俺が嫁にしたいくらいだ」
「俺は御免だね。美人なのは認めるが、浮気でもしてみろ、巫女でなくても
彼らの会話は、そこで慌てて打ち切られた。木立を抜けて近づく私の姿を認めたからだ。
「宮司様」
彼らは
「変わりないか?」
「護衛を」
「いや、不要だ」
「しかし」
「命令だ」
広い庭だ。
張られた
中は五十畳ほどの広さで、
部屋の中心へと、私は進んでいく。棚という棚に何巻もの草子や絵巻物がおさめられ、色とりどりの折り紙や遊具が、床のあちこちに散らばっている。所望されるままに取り寄せられた物の数々。まるで玩具箱のような部屋だった。
「遅かったわね、幽」
奥の
「申し訳ありません」
「そうやって謝るところも、嫌いよ」
微かに衣擦れの音がして、小柄な少女が浜床を下りてくる。
白い肌をひきたてる長い黒髪。染みひとつない白の千早。鮮やかな緋色の袴。
「夏至が近いのね」
低めた声で少女は言った。日が落ちなければ、私はここへ来ることはできない。そのことを少女は知っていて、だからこそ
「夜が来るのが遅い。どんどん、外へ出られなくなる」
少女は薄い唇を噛みしめた。華奢な左足には
「っ……」
瞬間、視界の端で、何かが鋭く
少女の右手には、小刀に変えた
「武器に仕立てたものが、昼間に取り上げたひとつだけだと思うなんて、見張りの衛士も平和なものね」
私を見上げて、少女は不敵に笑った。視線とともに、私は静かに言葉を落とす。
「……あまり暴れると、左足だけでなく、両手両足を拘束しなければならなくなります。それは、あなたも、私も、望むものではないでしょう」
「縛りたければ、いくらでも縛ればいいわ」
その度に解いてやるから、と少女は私を睨みつける。私は小さく息をつき、少女の細い手首を束ねる手に力を込めた。かたちの良い少女の眉が、わずかに苦痛に歪む。
「あなたに、手荒なことを、私はしたくありません」
「大事な生贄だものね」
「理由は、何とでも」
ただ、あなたは。
「外へ出たくは、ないのですか?」
近くを流れる沢の音が、夜の
「夏は嫌いだけど、蛍は好き」
星みたいだから、と少女は中島へと渡る橋の上で、
(……人形か)
それは、きっと正しい
「……支えを」
「構わないで」
手をさしのべた私に、少女は首を横に振った。少女の脚は、
――《鎮めの巫女》。
《浄めの巫女》と対となる、この国を支えるもうひとつの柱。彼女に日々の務めはない。儀を行う日まで、この場所で生き延びることが、唯一の仕事だ。
「十八になるまで、あと二年なのね」
せせらぎに乗って、少女の声が軽やかに響く。つとめて、重くならないように、虚勢に引き上げられた声音だった。
「ねえ、幽?」
橋の
「白華は、元気?」
よくとおる、澄んだ声で。
「私が今こうして生きているのだから、まだ死んではいないのだろうけど」
「……ええ、日々、務めを果たして、生きておられますよ」
「…………そう」
少女は静かに、夜の底に横たわる池の
「幽は……」
黒い水面に、滴のように問いかけが降る。
「死ぬのが、こわい?」
向けられるおもて。華奢な肩を流れる墨色の髪。
「それとも」
薄い唇の両端を、ゆるやかに引き上げて。
「生きるほうが、こわい?」
笑みのかたちに細められる瞳。星の見えない夜空のような、どこまでも暗く、深い、漆黒の瞳――白華と同じ、けれど、白華にはない
「……
私の声が、闇に落ちる。
少女は微笑む。夜空に燃える螢惑のように。
白華と同じ顔で。
白華とは似ても似つかぬ
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