【二】

 澄んだ鳥のさえずりが、森の静寂を際立たせる。蝉の合唱はまだ遠く、白糸のつるが奏でる滝の音は掻き消されることなく涼やかに響く。まっすぐに注ぐ初夏の陽射しを散らすのは、微風にそよぐ瑞々みずみずしい青もみじ。薄い緑のふるいを通った光が、岩で砕けた水飛沫に触れ、玻璃はりの破片のようにきらめかせていく。

 滔々とうとうと流れ落ちるみそぎの滝は、山頂から与えられる雪解け水だ。うつつにごりにもぬるさにもおかされず、一年をとおしてかたくなに清冽せいれつさを保っている。唇を引き結び、私はゆっくりと滝のもとに進んだ。身にまとう純白の薄衣は、水に触れた傍から体に張りつき、まろみに欠けた私の輪郭を透かしていく。骨ばかりが目立つ四肢も、あばらの浮いた胸も、女の体と呼ぶには程遠い。けれど、それで良いと思う。この身が次の命を育むことはないのだから。

 目を閉じて、冷水ひやみずにさざめく肌を私は無視する。続いて、その内側で震える肉を、軋む骨を、細る血の流れを、ひとつひとつ自分から遠ざけていく。まぶたを下ろした暗闇の中で、澄んだ水の流れに手放していくように。

(つめたくない。あつくない。いたくない)

 そして私は巫女になる。

(かなしくない。くるしくない。こわくない)

 なにも感じない、ただ義務をおさめた容れ物になる。

(心を抜いて、感情をなくして)

 今日も、上手に。

 つるぎを取る。私は微笑む。いとう濁りも、こばむ曇りもない、透きとおった微笑で。ずっと上手に、ずっと、きれいに。

「この国の民に、永久とわの浄罪と安息を」

 いつか、この器が砕けるときまで。

(夜が来るまで、さよなら、白華)

 今日も、私の抜け殻は、正しく仕事をこなしている。




 社の南東側、白い玉砂利を敷き詰めた小さな庭の中央に、高床式の殿舎が建てられている。私の仕事のひとつである《御霊みたま送りの儀》を行う所だ。

 宮司である幽が先に階段を上がり、白木の扉をゆるやかにひらく。さかき紙垂しでが線対称に掲げられた扉だ。古びた蝶番ちょうつがいの鳴き声は、高く、低く、静寂に爪を立て、悲嘆にすすり泣く女の声のようにも、悔恨にうなる男の声のようにも聞こえる。

 室内には、かぐわしい香がかれている。つくりは白木だが、内側は壁も床も黒漆が丁寧に塗られ、天井近くに設けられた明かり取りの窓を除いて中を照らす光はなく、昼間でも薄闇に満ちている。部屋の奥には、白い花で彩られた祭壇があり、痩せ細った若い女のひとが横たえられていた。此度こたびの《御霊送りの儀》の依頼人だった。

 いた短刀に手をかけて、私は薄闇の中へ身を浸す。扉が閉ざされる音を背中で聞く。濃さを増す暗闇に、祭壇の花がぼうっとほの白く、光を宿すように浮かび上がって見える。

 午後の光が、薄く、細く、射していた。香の煙が光の筋に触れ、白い水流のような綾をみせる。

 おもむろに短刀を抜き、私は依頼人のそばひざまずく。酷くやつれたひとだった。包帯の巻かれた手は、今は胸の上で、ゆるく祈りのかたちに組まれている。くまの目立つ落ちくぼんだ目は、今は安らかにまぶたとばりが下ろされている。規則正しい呼吸。微かにほころんだ唇は、もう噛みしめられることもない。幽の処方は完璧だ。このまま穏やかに、眠ったまま、黄泉に送れる。

『巫女様』

 社を訪れたときに聞いた、依頼人の言葉を思い出す。

『《御霊送りの儀》は、私の生きる希望でした……今日まで生きてこられたのは、《御霊送りの儀》のおかげです。この儀を受けるまでの辛抱だって、この儀を受けるためだって、言い聞かせて、耐えてきましたから……自分で終わりを決められる幸せ。やっと、叶うんです……やっと、楽になれるんです…………』

 泣きながら、笑いながら、このひとは床に手をつき、私を見上げた。頬を流れる雫に、積まれた金貨の光が宿り、きらきらと輝いていた。《御霊送りの儀》のために貯めたのだという。これを稼ぐのに、どれだけ働いたのだろう。どれだけ身を削ったのだろう。

 このひとの人生がどんなものだったのか、私は知らない。もし、この儀を乞う金がなければ、このひとは死ななかっただろうか? 《御霊送りの儀》がなければ――私が、いなければ――このひとは生きつづけることを選んだだろうか? それとも多くの人たちのように、首を吊ったり手首を切ったりして、さいごまで苦痛にさいなまれて死んだのだろうか?

 私は静かに短刀を掲げる。いちど唇を引き結び、ゆるやかに祝詞のりとを紡ぐ。

(死ねば楽になれる、それが、この国のことわり

 心臓の真上に、やいばの位置をとる。刃先が肌に触れて、このひとの鼓動が流れ込んでくる。生きようとしているのか、それとも、生かそうとしているのか。心と体は、まるで異郷同士のように、片方の支配下に入ることを拒んでやまない。

(苦しむために、生まれてきたの?)

 死んで楽になるために、苦しんで生きるのなら。

(ねえ、神様?)


 私たちは、死ぬために、生きていくの?


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