第30話 夜明け

 村の外れ――人の領域と魔獣の領域のはざま。そんな場所に少女は佇んでいた。


 秋の夜風に身体を冷やされながら、しかし彼女は帰る家を振り向かない。外へ延びる道の先。薄闇の向こう側をじっと見つめるようにして立っていた。


「そろそろ時間ね。――おいで」


 独り言のように少女は呟いた。風の音に混じって、羽音が少女の耳に届いた。青い翼の鳥獣が彼女の肩に羽を休める。


 そして視線を落とす。砂地に一筋の線が浮かんでいる。並んで打ち付けられた石の杭。避獣石の効果が及ぶ範囲を示す境界線だ。


 それを踏み越える。

 フランチェスカとスカイローゼは魔獣の領域に侵入を果たした。


「さあ……行きましょうスカイローゼ。誰かに見つからないうちに」

「どこへ行くつもりかな」


 フランチェスカに返ってきたのは、鳥獣のカタコトではなく流暢な相槌だった。


「っ!?」驚愕の声が少女の口から漏れた。声の先では、ロイドが渋い表情をフランチェスカの背中に向けていた。


「ど、どうして私がここに来るとわかったの……?」


 フランチェスカの首がぎこちなく回る。「わかるでしょそんなの」ロイドはため息をつきながら、少し前のやりとりを振り返った。


 臨時の医療棟として解放された校舎。その一角にて、二人はルークたちの帰りを待っていた。しかし予定の時間を過ぎても、三人が戻ったとの報告は入ってこなかった。


 そんな矢先。フランチェスカは毛布を畳むと、急に身支度を初めてこう言った。


『わたし、ちょっと用事を思いだしてしまったわ。

 すぐに戻ってくるけれど、あとをつけたりしてはだめよ。ロイくん』


 妙に固い笑顔で。あまつさえ君づけだった。


「――誤魔化しが苦手にも限度ってものがあるよね。無駄に挙動不審だったし、こんな夜中に用事もないでしょ」


 周りを見渡しながら、抜き足、差し足、忍び足で校舎を去っていったフランチェスカ。ロイドは考えるまでもなく尾行を決めた。


 “後をつけるな”なんて念押しは、前フリ以外の何物でもない。


「確認だけさせてもらうよ。ルークたちを迎えに行くつもりだね」

「……」


 押し黙るフランチェスカ。だが時間稼ぎにもなりそうにはなかった。正直者の黙秘は肯定でしかない。


「外に出るには、いまの僕たちじゃ力不足だ。フランにもわかるよね」


 ロイドは言葉を選ばず、現実を語った。


「行けば二次災害を招く可能性のが遥かに高い。だからこそ、僕ら子どもは勝手に村の外へ出られない掟になっているわけだ」

「知っているわ、そんなこと」


 ロイドの冷静すぎる物言いが神経を逆なでたらしい。フランチェスカは沈黙を破った。


「ここで待つことが正解だなんて、私にもわかってる。役に立てる可能性より、危険な目に会う可能性の方が高いこともわかってる!

 それでも我慢できないからここに来たの。居てもたってもいられないから、ここに来たんじゃないの!

 危険の方が大きい? 仲間を助けるのにそんな小難しいことを考えていられる場合? ルークが命を賭けているのに私は……!」

「落ち着きなよ、フラン。さっきのは確認だけ。別に止めに来たとは言ってない」


 感情的になる少女をなだめるような調子で、ロイドは言った。


「悪いことするんでしょ。僕も誘ってよ」

「……え?」

「ほら。せっかく準備もしてきたし」


 腰に帯びた刃を指すロイド。「どうして」フランは目を丸くした。「どうしても何も」呆れたようにロイドが微笑む。


「君と同じさ。僕だって、ルークたちのことが心配で仕方がない」

「な、何を言っているの? ロイ。あなたらしくもない! とても危険だし、ぜんぜん合理的じゃないことをしようとしているし、それに何より危険なのよ!?」

「――いやホント落ち着こう。いったん。こんな調子で外に出たらマジで死ぬよ」


 はい深呼吸。ロイに言われ、フランチェスカは反射的に息を吸った。服の上からでもわかる豊満な胸が呼吸によって上下する。「大丈夫?」ロイドの確認に、フランチェスカはこくんと頷いた。


「まあ……そりゃあ大人しく待つべきだってのはわかってるよ。頭ではね。でもそういうもんじゃないでしょ。仲間って」

「本気、なのね」

「こんな性格だけど、冗談は時と場合を選ぶよ」


 それだけ言って足を踏み出す。超えることを禁じられた村の境界線を、ロイドはためらいもなく跨いでみせた。


「さ、出発だ。僕が先に行くから、フランは後ろの警戒を頼むよ」

「――ありがとう」


 自分を抜いて前に出るロイドに、フランは小さく呟いた。


 彼が心配したのは、きっとルークのことだけではない。それが伝わったからだ。


「スカイローゼ……周囲の索敵をお願い。もし魔獣を見つけたら、ロイが遭遇する前に私に伝えて」

「きしゃー!」


 主の命令を受け、スカイローゼは木々を超えて空に羽ばたいた。


 任務は帰還途中にあるカレット隊の援助。ロイドとフランチェスカの“出迎え”作戦が動き出す。


 二人は確かな覚悟を固めて村を出発した。人員を除けば、彼らなりに万全の準備を整えたつもりで任務に臨んだ。


 しかし忘れてはならない。彼らはまだ子供だ。自分たちだけで外に出た経験もなければ、魔獣を相手に命のやりとりをした経験もない。


 だから漠然と思っていた。魔獣が危険な存在であることは承知している。それでも慎重を期せば。策を尽くせば、魔獣に対抗することもできるはずだと。


 そんな幻想を心のどこかで抱いていた。


 だが数百メートルも歩けば、間違いに気がつく。


 そして知ることになる。人類はなぜ、魔獣の領域に生きることはできないのかを。


 薄い霧のかかった森の中。ロイドとフランチェスカは、自分たちの足が竦むのを感じていた。


「なに……この魔力。これが魔獣の……?」

「多分ね。どっちの方角かはわかる?」


 うすら寒い空気を肌で感じながら、フランチェスカはスカイローゼを呼び寄せた。差し出された手の甲に鳥獣が羽根を休める。


「方角と距離を」尋ねると『キタ。400メートル』との返事が返された。このまま歩けば1~2分で遭遇する距離だ。


「――危なかったね。40度ほど方角を修正しよう」


 ロイドの判断で進路が変更される。すると飛び立ったスカイローゼがまたフランチェスカのもとに姿を見せた。


『ホクセイ。300メートル』

「こっちも、なの? ではいったん逆の方角へ」

『ナントウ。450メートル』

「え?」


『キタ。350メートル。ホクセイ。270メートル。ナントウ。440メートル。

 ニシ。470メートル』


 ――! 二人の表情が固まった。


「いったん引き返そう。フラ」

『ミナミ。500メートル』


 その報告に、フランチェスカは口許を覆った。退路の先にも魔獣がいる。


 時刻が深夜であったこと。またスカイローゼも、十分な索敵訓練を受けていないことが仇となった。


 魔獣たちはスカイローゼの知覚しづらい位置を縫うようにして、徐々に二人との距離を詰めていたのだった。


「回避できそうにないね」


 ロイドが刃を抜く。汗ばむ右手が小刻みに震えていた。それからわずかの静寂を経て。


 かさ、と木の葉の揺れる音が聞こえた。


 振り向いた先には、フランチェスカの首筋に牙を剥く蝙蝠の姿があった。


「フラン後ろッ!」


 ロイドの眼に映った光景。それは一秒先に訪れる、未来の光景だ。


「え?」声を漏らしてフランチェスカが振り向く。しかし猶予はたったの一秒。それも急の忠告では反応のしようもない。


 ひとり未来を傍観しながら、ロイドは声にならない叫びを上げた。


 そんな矢先だった。


 白くて細いモノが闇の中から“いきなり生えた”――そんな感覚。


 それが剣による攻撃であることをロイドが理解できたのは、串刺しの蝙蝠が羽根をばたつかせるさまを見てからのことだった。


「――夜に紛れたくらいで油断してんじゃねえ。雑魚が」


 吐き捨てるような言葉とともに、蝙蝠は地面に叩きつけられて潰れた。


 ロイドとフランチェスカにも聞き覚えのあるその声。


 村の騎士団団長、カミル=ローが二人の前に姿を見せた。


「カミル隊長……なんで」

「――。おい、お前。確かフランチェスカって名前だったか。しもべに訊け。マシな方角はどっちだ」


 ロイドの問いに言葉を返すこともなく、カミルはフランチェスカに視線を送った。


「あ……は、はい! ええと」


 慌ててスカイローゼに尋ねる。発する魔力の小さい敵は、このまま進んだ先の魔獣であるとの言葉が返された。「走れ」カミルの指示で、三人が直進する。考える間もなく二人は後について走った。


 進路の先には猿の魔獣が待ち構えている。そんな光景をロイドの眼が見つけた。


「敵は樹上です、隊長!」

「……!」


 ロイドの声を受けると、カミルはひとつ大きく跳躍した。そして闇の中に消える。


 自身の気配を薄くする魔法。夜の闇の中、その効果は極限まで発揮されていた。


 ロイドとフランチェスカの姿を見つけた二匹が攻撃の姿勢をとる。が、腕を振り上げたその瞬間に、一匹の首は空中へと飛ばされていた。


 血しぶきを浴びたもう一匹が標的を修正する。が、その場所にカミルの姿はない。


 気づいたときには、背後に立つカミルが西洋刀を敵の頭に突き立てていた。


 ロイドとフランチェスカにとっては――そこまでが全て、瞬間の光景に思えた。カミルは何事もなかったかのように、刀身についた血を振り払っている。 


 これがカミル隊長の実力……! ロイドは息をのんだ。

 ココノが入団の年齢に達していない今、村の騎士団で最強と呼び声の高い男。


『レスター副隊長との戦いでは、すぐやられちゃったように見えたけどさ。あれは順番が悪かった。

 ココノを除けば村にカミル隊長より強い人なんていない。俺だって今は太刀打ちできないだろう。試合の結果がどうであれ、その考えは変わらないな』


 交流戦の後にルークが話していたことの意味が、わかった気がした。


「――いや、でもカミル隊長。遠征で負った傷がまだ癒えていないはずじゃ」


 ロイドの問いに「当たり前だ」とつれない言葉が返される。


「ものの3~4時間寝たくらいで、消耗しきった身体が戻るわけないだろうが。ろくに動けやしねえ」


「そ、そうなんですか」あれで動けてなかったのか。唖然とした顔を二人が見合わせる。


「それよりお前ら」


 鋭い眼光が、少年と少女へ向けられた。やばい、と二人は直感的に思った。許可なく村を出ることは大人でも禁じられている。そのうえ騎士の手まで煩わせたのだ。何事もなく済まされるはずがない。


 だがカミルは


「怪我はないか」


 そう訊くだけだった。無言で頷く二人に「そうか」と返したきり、それ以上の言葉をつながなかった。


 そんな沈黙が逆に耐えられなかったのだろう。「ご、ごめんなさい!」フランが自分から頭を下げた。ロイドもその姿にならう。


 わずかの沈黙を挟んで「謝るな」そんな声が二人の耳に届いた。


「謝ることがあるのは、俺も同じだ」

「同じ……?」

「お前らが外へ出て行くのは見ていた」


 ――ということは、最初からカミルは二人の傍に潜んでいたことになる。


 知ってた? とロイドは隣の少女に視線で問いかけた。フランチェスカはふるふると首を横に振っている。


「だったらどうして、私たちを止めなかったのですか」


 その問いに、カミルは少しだけ遠い目をした。それから


「お前ら……クライヴ団長とマスター・ナナの子だろう」


 視線を空に向けた。その先には、騎士団が蠍に敗れた地。バスパトラの山々が脈を連ねていた。


「すまなかった。俺たちに、力が足りなかった」


 少ない言葉だった。けれどその言葉には、彼の思いの全てが詰まっていた。


「謝らないで、ください」胸を貫かれるような告白に、やっとの思いでロイドがそんな返事をする。フランチェスカは涙をこらえるのが精いっぱいだった。


「――。村の騎士団は偉大な人物を二人も失った。また一からの出直しになるだろう」


 伏せた顔を上げると、カミルの声は元の調子に戻っていた。


「それでもガキの一人や二人くらい、無事に帰すくらいの意地は見せてやる。

 あの二人が率いてきた騎士団の一人として。でないと俺は、二人に顔向けできないからな」


 そこまで言うと、カミルは再び剣を抜いた。


「来るぞ。下がってろ」


 カミルの言葉に、ロイドとフランチェスカは身を固くした。そして神経を尖らせてみる。


 闇の向こうから魔力が近づいてくるのを感じた。


「決して大きな魔力じゃないわ……でも」


 フランチェスカの言葉にロイドは頷いた。魔力の量そのものは大きくない。しかし、闇の向こうの何かは得体の知れないプレッシャーを放っていた。


 何か鬼気迫るような魔力。カミルのこめかみに一筋の汗が伝った。


 近づいてくる気配。徐々に大きくなる足音――


「違う。足音じゃない」ぽつり。フランチェスカは呟いた。


「これは……靴音」


 ざ……ざ……ざっ……ざっ……

 ざ。


 最後の音が聞こえたとき。ロイドは服の裾で目を擦った。そして再び前を向く。




 カレットとココノを背負った状態で、ルークが木々の間に佇んでいた。




「カミル……隊長? それにロイ……フラン」


 ぼんやりした声。しかしその声は、確かに彼らの待ちわびたルークの声だった。


「――魔獣かと……。……うぉ、安心したら力が」

「ルークッ!」


 へなへなと地面に崩れるルークに駆け寄ったのはフランチェスカだった。


「――ただいま、フラン。出迎え……助かったよ。俺、いますげえ眠い」

「る、ルーク?」

「これ……解毒草、あとは……任せる。おやすみ……」


 かくん。と首を落としたかと思うと、ルークは寝息を立ててフランチェスカにもたれ掛った。


「魔力が感じられなくなった。エネルギー切れか」


 剣を収めながら、カミルはほっと息をついた。


「カレットとココノも空っぽになってやがんな。だいぶ無茶したようだ。

 それにしても、こいつどこから二人を運んできたんだ。まさか……星の峰?」

「カミル隊長、それはさすがに。だって数キロも離れた場所ですよ。それを二人背負ってなんて、いくらルークでも……いや、でもまさか」


 寝顔を見ながら、ロイドは背筋が凍えるのを感じた。


 自分たちが数分で命を落としかけた領域。そんな場所から、ルークは都合48回も生還してみせた。思えば人間離れしたエピソードはてんこ盛りだった。


 どんな無茶でも、こいつならやってのけかねない。そんな期待を抱かせる強さがルークにはあった。


「いやいや。仮に歩けたとしても、魔獣! 魔獣がいる。

 この状態じゃ遭遇を回避しきるのは無理だったはず。戦うのなんてもってのほかだし」

「――。魔獣の方から避けたとしたら」


 ロイドの疑問に応じたかのように、カミルは言葉を漏らした。


「コイツは見ての通り満身創痍。しかし魔力は数字じゃ測れない力強さを感じた」

「それって……魔獣がルークを恐れたということですか」


 星の峰でほとんどの力を使い果たしたルーク。彼が魔獣に見つからない可能性はほぼ0。そして襲撃を受けたらそれを凌げる可能性も無いに等しい。


 それは確かな見立てだった。現に何匹かの魔獣が、姉妹を背負って歩くルークの姿を見つけてはいた。そして襲われれば今のルークに凌ぎきる力はなかった。それは事実だろう。


 だがひとつ。たったひとつだけ予想外があった。


 ルークに襲撃を仕掛ける魔獣が一匹もいなかったことだ。


 体力は限界。それでも鬼気迫る魔力を纏い、少女たちを背負って歩く少年。


 そんな少年を前に――人類の天敵たる魔獣たちは恐れ慄き、道を譲ったのであった。


 “魔獣は自分より遥かに強い敵を本能的に避ける”


 野生生物の習性が例外なく働いた。それだけのことだった。


「それでも信じられない。ルークが魔獣たちを相手に……」

「――もういいじゃない。帰ってきてくれたんだもの。

 おかえりなさい。ルーク」


 柔らかい光を浴びながら、フランチェスカはルークの寝顔を穏やかに見つめた。


 空の果てがいつのまにかオレンジ色に変わっていた。長かった夜が、ようやく明けようとしていた。 

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