第29話 三人でいれば

 星の峰での戦いが決着し、三人は帰途についていた。


 ルークがココノを背負って前を歩き、カレットが後方を警戒するという形。現状の戦力を考えてカレットが考案した陣形だ。


 ココノの息は整いつつあった。右腕の変色も、肘の辺りで止まっている。


 毒が回る心配はもうない。切る必要もなさそうだ。カレットが判断したとき、ルークは眠っているココノに何度も「よかったな」と繰り返した。


「しかし何度も訊くが、ルークの怪我は本当に大丈夫なのか」

「平気だ。痛みは我慢しているうちに慣れてきたし、折れた骨もそのうちくっつくだろう。一日二日もすれば治る治る」

「一日二日……!?」

「ご、ごめんさすがに言い過ぎた。回復に集中しても二週間はかかりそうだ」


 ルークが慌てて訂正する。だがカレットは相変わらず乾いた笑顔だった。驚くのを通り越して笑うしかなかった。


 200m上空からの落下。普通の人間なら原型もなくなるくらいの衝撃だろう。けれどルークは耐えるどころか、いまこうして自分の足で歩いている。


 それも冗談を交えながらだ。普通ではない。そしてたった二週間で治るという。尋常ではない。


「魔力を最大まで充填する時間ならあった。あとは空気抵抗や蠍の血肉がクッションになったことを考えればなんとか……いや、それにしたって」

「まあ助かったんだし、細かいことはいいだろ」


 細かいか? 200mの身投げ作戦から生還した事案について考えるのって細かいか? 私の頭が固いのか……? 真面目なカレットは割と本気で思い悩んだ。


「まあ怪我が軽かったとは言えないけどさ。それでも……ココノの右腕ほどじゃない」


 痛々しく包帯の巻かれた右腕を、ルークは苦しそうに見つめた。


「なんとか、また動くようにはならないかな」

「――見たところほとんどの細胞が死んでしまっている。すぐには難しいだろう」


 解毒が済んだ今も、カレットの厳しい見立ては変わらなかった。


「それでも最悪の事態を避けられたのは、ココノとルークが頑張ってくれたからこそ、なのだぞ」

「頑張ったのは姉ちゃんだって同じだろ。っていうか比べものにもならないよ。一人で蠍と戦ったのは姉ちゃんだけだ。俺だったら多分、どっかでミスやらかして死んでたよ。きっと」


「そんなことはない。別に私でなくとも」

「謙遜するなよ。姉ちゃんはやっぱり、俺たちの自慢の姉ちゃんだ」


 ルークはどこか誇らしげな笑顔で、そう言った。カレットは照れるように視線をさまよわせた。けれどすぐに「そう思ってくれるのなら、すごく嬉しい……」消え入るような声で返事をした。


「俺も姉ちゃんの自慢になれるように頑張らないと」

「――」

「姉ちゃん?」


 会話が急に途切れ、ルークは首を傾げながらカレットを呼んだ。「すまない。少しぼーっとしていた」繕うような返事にルークは息をついた。


「――なあ姉ちゃん。いつか三人で旅に出ような」


 前を見ながら、ルークは言葉をつないだ。


「今回のことではっきりわかったよ。やっぱり俺ひとりじゃ世界の隅々まで旅することなんてできない。ココノがいて、姉ちゃんがいなくちゃダメだってわかった。


 もしその時が来たらさ。まずはココノの腕を治しに行こう。きっと方法が見つかるよ。世界はすごく広い。どこかに、ココノの右腕を治せる魔法だってあるはずだ」


 珍しく、ルークは饒舌に未来のことを語った。


「その後は王の騎士団に挑戦だ。ココノや今の姉ちゃんなら、きっと入団できる。俺だってもっと腕を磨くよ。二人においていかれないようにさ。そしたら」


 わずかの沈黙。ざ、ざ、と鳴る足音だけが静寂を紛らせた。


「そしたら、色んなところへ行こう。色んなものを見よう。きっと楽しい旅になるよ」

「――そうだな」


 背中からカレットの返事が聞こえた。吐息のような声だった。


「もし許されるのなら、その夢……私も一緒にみていたいな」

「夢じゃないさ。夢じゃ終わらせない」


「力強い決意だ。――うん。ルークならきっと叶えられる」

「なんだよ、ひとごとみたいに。姉ちゃんもいなきゃダメだって言っただろ」


 ルークが口を尖らせる。カレットはかすれた声で「ルーク」と、前を歩く少年の名前をもう一度だけ呼んだ。


「ありがとう。私は、幸せ者だ」


 言葉が終わったとき。絶え間なく鳴っていた二つの足音が、ひとつ止まった。


 続いてルークが聞いたのは、かしゃん、と高い衝撃音。軽い金属がぶつかりあったような。あるいは鎧が地面に崩れたかのような音だった。


 何か落としたのか? 何の気もなしに振り返ってみる。


 カレットの身体が、ぬかるみの地面に横たわっていた。


「大丈夫か? 姉ちゃん。暗いから足元には気をつけないと」


 ルークが声をかける。しかし返事はなかった。カレットは横たわったままぴくりとも動かない。糸の切れた人形のようだった。


「姉ちゃん――おい、姉ちゃん!」


 ただ転んだわけでは、ない。異常を察したルークは血相を変えてカレットに歩み寄った。


 すぐさま口許へ手を当ててみる。細いが呼気は感じられた。気を失っているだけらしい。


 まさか、毒? 蠍との戦いで姉ちゃんも毒を受けていたのか? いや、だったらココノのついでに解毒を済ませているはずだ。そんな失敗をする姉ちゃんじゃない。


 何者かの襲撃を受けた気配もなかった。だったらどうして急に……。


 ――カレットの身体に大きな傷はない。それを認めていたルークが、すぐに原因を察することができないのも無理はなかった。


 彼女が倒れた原因は、怪我とも毒とも別のところにある。目に見えない消耗。即ち疲労だった。


 決死の覚悟で臨んだ蠍との決闘。蝕んだのは彼女の肉体だけではなかった。体力。魔力。そして精神力。全てを極限まですり減らし、文字通りの全霊を尽くしたカレットの身体にはもはや村へ戻る余力など残されてはいなかった。


 思いだけが彼女の身体をつなぎとめていた。だがココノの解毒が済みルークの無事が確認できたことにより、彼女の身体を動かしていた緊張がついに途切れたというわけだった。


 要するに極度の疲労困憊。エネルギー切れで眠っただけという話だ。


「そういえば姉ちゃん、あの蠍と一人で戦ったんだよな。無理してないはずなかったんだ。……くそ、どうして気づかなかったんだ俺は!」


 しばらく狼狽えていたルークだが、カレットの倒れた要因に思い至ると唇を噛んだ。


 気遣われてばかりで、気遣うことのできなかった自分に苛立った。


 しかし怒ったところでカレットが目を覚ますわけでもなく。ルークは頭を掻いて、考えることを始めた。


 ――ただ疲れているだけならひとまず心配はないが……でも、どうする。場所がまずすぎるだろ。カレットの身体を起こしながら、ルークは周囲に視線を送った。


 ここが村なら問題はなかった。しかし今いる場所は魔獣の領域だ。ただ倒れているだけの人間なんて、格好の獲物でしかない。


 近くに集落はなかったはずだ。村まではまだ半分以上の行程が残っている。


 姉ちゃんやココノが起きるまで待つか? いや、起きたところですぐに動けるわけじゃないだろう。起きる前に魔獣が俺たちを見つける可能性の方がはるかに高い。


 避獣石のない場所に人間が留まることは不可能。耳が痛くなるくらい聞かされた、この世界の常識だ。


「ここで休むという選択肢はない。けどゴールまではまだ6キロ近く。姉ちゃんとココノは動けない。二人を背負って歩くだけならなんとかいける……けどその間、魔獣に見つからずにいられるのかよ」


 答えがわかりきっていながら、ルークは自問をした。


 村まで残り6キロ弱。魔獣との遭遇を免れる可能性はほぼ0%だ。そして襲撃を受けた場合に、今の彼らが無事でいられる可能性も。


 ――どうする。どうすれば三人で助かることができる。眠りに落ちたリヴェール姉妹の顔を見ながら、ルークは知恵を絞った。あらゆる希望を探った。


 しかし考えれば考えるだけ、自身の置かれた状況が絶望的であることを痛感した。思案の先に光はないことを突きつけられただけだった。


 だからこそルークは。


「行こう。姉ちゃん、ココノ」


 二人を担ぎ上げ、一歩を踏み出した。考えることはもうやめていた。


 ただ二人の傍にいる。そして、一緒に前へと進む。それだけを心に決めて歩き出した。


 その行動に理屈も何もない。思考とともに、ルークは絶望をも放棄したのだった。


 もちろん、彼がどれだけ前向きな選択をしたところで状況は変わらない。三人が魔獣に見つからない可能性はほぼ0%。襲撃されて助かる見込みも然りだ。それは変わらない。


 それでもやるしかないんだ。全身の痛みに耐え、歯を食いしばりながらもルークは顔を上げていた。


 ココノに代わる戦力も、姉ちゃんに代わる知恵も、今の俺にはない。


 それでも――諦めるわけにはいかないだろ。


『いつか一緒に行こうね。お兄ちゃんとわたしと、お姉ちゃんの三人で』


 月明かりの差す森の中。いつか耳にしたココノの言葉が、聞こえてきたような気がした。


 そんな錯覚でさえ今のルークには嬉しかった。


 どれだけ絶望的な状況でも知ったことか。そこに希望が見つからないなら、探しに歩けばいい。


「挑みもせずに逃げるなんて、騎士の名折れだ。……そうだったよな。姉ちゃん」


 宝物の言葉を口にしてルークは微笑んだ。そして薄闇の路をゆく。二人の少女を背負って、一歩、また一歩と。


 ルークの顔に心細さはなかった。


 三人でいれば、俺たちはどこへだって行ける。


 なけなしの魔力を絞り出し、ルークは地を踏みしめた。深く沈んだ足跡が、ぬかるみの地面に残っていた。

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