第27話 星の峰

 最後の打ち合わせを済ませ、ルークはすぐさま岩壁に手をかけた。


 200mの岩壁昇り。ルークも初めての経験だ。経験があったらびっくりである。手足を強化し、岩のくぼみを探りながら、少しずつ上へと昇ってゆく。


 しばらくは「滑りやすいから気をつけるんだぞ」「焦らずにおちついて」などとカレットのお節介が聞こえたが、すぐに遠ざかって聞こえなくなった。


 孤独な戦いの始まりである。


 最初に学んだのは“下を見てはいけない”ということだった。数メートル昇っただけでも地面を見たら手が震えたし、足が竦んだ。命綱なしのクライミング。それも初の体験だ。恐怖を感じない方がおかしい。


 身体強化の魔法を使えば、ダメージを軽減すること自体は可能だろう。しかし落ちてから発動したのでは遅いし、当たりどころが悪ければ死ぬ。だからとにかく上を見る事だけを考えた。


 たとえ下に蠍が現れたとしても。カレットとココノが襲われていたとしても。


 今は昇ることだけに集中する。でなきゃ、結局はみんな死ぬからだ。


 四分の一くらい昇ったところでルークは最初の休憩をとった。岩のでっぱり部分を見つけて腰を下ろす。


 慣れていないせいかかなりの時間が経ったように思えた。下には小さくなったカレットとココノの姿が見えた。蠍が近くにいる様子はまだ、ない。


 だがいつ現れるとも限らない。早く行って早く戻らないと。


「――いやいや、焦ったら失敗するぞ。慎重を心がけろ」


 言い聞かせるように呟き、頬を叩いた。そしてまたでっぱりに手をかける。疲れはなかった。魔獣の相手をココノが全て引き受けてくれたおかげだ。頑張らなきゃならない。


 星空に向かって、ルークは這うように進んでゆく。


 そして崖の下では。カレットが炎を焚いて、ココノの隣に腰を下ろしていた。


 最初のうちは岩壁を見上げては、そわそわと歩き回ってきた。ルークが落ちてきたらどうしよう。滑り止めはちゃんと利いているだろうか。心配が抑えきれずにいろんな声をかけた。「お母さんかよ」昇っているルークがそんな風に突っ込んだ。


「お母さんではないぞ。私はお姉ちゃんだ!」

「知ってるわ!」


 集中したいから静かにしていてくれ。そう言われて、カレットは口をつぐんだ。しかし心配はなくならない。やっぱり彼女はそわそわしていた。


 しばらくの間はルークの事だけを考えていた。


 だが彼が壁の半分を昇り越えた時点で、カレットは見上げるのをやめた。


 微かな気配を感じた。自分やルーク、ココノとはまったく異質の気配。


 魔獣の気配だ。


「――そろそろ来ると思っていたところだ」


 大嘘だった。彼女はルークの心配しかしていなかった。けれどそこはさすがに優秀な騎士。頭の片隅では、魔獣の気配に神経を研ぎ澄ませていた。


「来たね。お姉ちゃん」


 立ち上がったカレットの気配を感じたのか。あるいは魔獣の気配を感じたのかはわからないが、ココノが目を開けていた。


「起きていたのか?」

「ううん、いま目が覚めたとこ。……空気がぴりぴりする。あいつの魔力だよね」

「ああ。おそらくな」

「わたしも一緒に」

「駄目だ。ココノは寝ていなさい」


 起き上がろうとする妹の肩を、カレットはそっと押さえた。


「あんな手負いの魔獣など、私一人でも充分だ。けちょんけちょんにしてくれる」

「――お姉ちゃん。昔っから嘘がへたくそだよね」

「う」


 カレットは唸り声を漏らして目をそらした。


「と、とにかくここは私に任せてもらおう! 私たちにはスペシャルな作戦がある!」


 スペシャルな作戦……。あんまりなネーミングセンスにココノは苦笑いを浮かべた。これはお兄ちゃんのセンスかな。そんな想像をした。正解である。


「まあ……お姉ちゃんが任せてっていうなら、任せるよ。でも本当に危なくなったらわたし、戦うからね」

「――気持ちは嬉しい。ココノ。だがそれだけは認めない」


 カレットはココノから距離を置くと、レイピアに炎をともした。そしてココノの周囲を囲むように炎を散らした。


「お姉ちゃん、これ」

「炎の防御壁だ。私が魔法を解かない限り、外からも中からも超えることはできない」

「なんで……」


 消え入りそうな声のココノへ、カレットは毅然とした声を返した。


「どんなに強くたって、ココノは私の妹だ。お姉ちゃんが妹を守らなくてどうする」


 有無を言わせない言葉を残して、カレットは歩みを進めた。一歩を進むたびに、純白のリボンが静かに揺れた。


 暗闇の向こう側。大きなものを引きずるような音が鳴り響く。


 ――こちらも気づいているように、向こうも気づいているだろう。


 これで決着だ。


 闇の中に、薄ぼんやりと浮かぶ魔獣のシルエット。カレットは手にした刺突剣に魔力を込めた。


 目のくらむような灯りが刀身を覆う。その炎は、ココノが見た中でもいちばん綺麗な輝きを放っていた。


 煌々と燃える剣の切っ先が、ゆっくりと迫りくる影へと向けられた。


 鋏を掲げる蠍の両目がカレットの視線と交わった。


「随分と私たちにこだわるのだな。だが、追いかけっこもここでお終いだ」


 灼熱を纏う剣を構え、カレットは射抜くような眼差しを蠍へ向けた。


「いざ尋常に――とはいかないがな。勝負だ。化物」




 二度目の対峙。カレット対蠍の戦いが始まった。


 蠍は無数の傷を負った状態での勝負になる。その動きはココノ戦のときとは比べるまでもなく鈍かった。都合3本の足と尻尾、左の鋏を不能にされた状態での一戦。


 優位に運んでいるのはカレットの側だった。


 絶妙の間合いを測りながら攻撃を繰り出す。振り回される右の鋏も、それだけに注意を払っていれば躱せないことはない。


 尻尾が来るか鋏が来るかわからないときと比べたら、はるかに戦いやすくなっている。そう感じた。


 ――すべては積み重ねがあってこそ。あのときだって、私の戦いはそうだった。


 それは偶然だろうか。ルークがそうだったように、カレットもまた、蠍と対峙しながら思い浮かべたのは王の騎士団との一戦だった。


 四戦目に闘場へ上がったカレットは、前に戦った三人の試合をイメージしながら戦った。攻撃をかわし続け、最後はレスターの必殺技を引き出させるまでに至った。


 そして今回は、ココノがダメージを重ねてくれたおかげでなんとか戦えている。


 私はいつだって誰かに生かされている。


 ――それにルークだってココノだって、三人で帰ることを望んでいた。


「だったらこの命、粗末にするわけにはいかないな」


 カレットは慎重に、丁寧に、蠍の攻撃を捌いて笑った。


 最初は刺し違えてでも……などと考えた彼女だが、もはやそんな思考は微塵もなかった。ココノとルークは守る。なおかつ自分も生きて帰る。そういう覚悟を決めていた。


「炎閃」カレットの詠唱と共に、剣が光を放った。蠍の目が眩む。それを機にカレットは攻撃……を仕掛けるでもなく、蠍との距離を稼いだ。


「お前とまともに戦う気はさらさらない。私一人では、どうせ倒すことなどできないからな。

 解毒草を摘んだルークが戻るまで何分でも何十分でも粘ろう。そのために、私はここにいる」



 そう言ったカレットの顔は生き生きとしていた。


 もちろん余裕の戦いなどではない。傷を負っているとはいえ、蠍の重い攻撃は一撃でも受けたら致命傷になる。毒の攻撃だって使えなくなったわけじゃない。今は優勢でも、それがいつまで続くかはわからないのだ。


 ひとつの間違いで命を落とす状況は同じ。ぎりぎりの攻防に、カレットは全力を以て臨んでいた。


 ――その頃ルークは。


 ついに岩壁の登頂を果たしていた。





 満天の星空の下に広がる草原。御伽噺の世界を思わせる光景が目の前に広がっていた。


 しかし見とれている場合ではない。一刻も早く解毒草を見つけて、カレットのもとに戻らなくてはならない。


 到着した瞬間にルークは崖の下に目をやった。暗闇の中、不規則に揺らめく炎が小さく見えた。


 カレットと蠍の戦いが始まった。ルークはすぐに状況を捉えた。


 ――来るのはわかっていたが、思ったよりも早い。急がないと。休息を欲する身体に鞭をうって、草原に足を踏み入れた。


「解毒草解毒草……あった、これだ。っていうかこれ全部か」


 目を皿のようにした自分がアホらしくなるくらい、目的の解毒草は星の峰に群生していた。ルークは草むしりの要領で解毒草を引っこ抜き、次々と麻のリュックに詰めていった。


 身体強化を用いた草抜きはあっという間に済んだ。リュックがいっぱいになるまで数分もかからなかった。道中の苦労に比べたら、収集そのものはあっけないものだった。


 あとは姉ちゃんとの打ち合わせ通り――。


 ルークが身体に魔力を込めはじめた、そのときだった。


 彼の頭上に二匹の鳥獣が姿を見せた。獰猛な光を眼に宿す魔獣。ルークを挑発するように、甲高い鳴き声を上げていた。


「嘘だろ……相手してる場合じゃねーぞ」


 ルークの都合など知ったことではないとばかりに、二匹はルークめがけて垂直に降下をしてきた。それを紙一重で躱す。吹き抜けた風が、周囲の草とルークの衣服を裂いた。


 纏った風に切れ味を持たせる魔法か。


「そこそこ危なっかしい奴らだよな。どうする」


 無視して岩壁を降りるか? いや、そうしたら奴らもきっとついてくる。姉ちゃんとココノの危険が増す。それは駄目だ。


 だったら。


 時間は惜しいが、こいつらは俺がここで倒す。それしかない。


「なんとか粘ってくれよ。姉ちゃん……!」


 唇をかみしめ、ルークは拳を構えた。

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