第25話 双剣の妖精

 魔法が発動したその直後。ココノの隣には、もうひとりココノが立っていた。


 似ているとか瓜二つとか、そんな次元ではない。全く同じ容貌で同じ装備の少女が二人、ルークの目の前に肩を並べていた。


 分身――初めてココノの魔法を目にしたとき、ルークはそんな表現をしたが、しかしそれは正確ではない。


 ココノは召喚術の使い手。彼女の魔法は自分自身をもう一人“召喚”できるのだ。


「ご無沙汰しています――ルークお兄さん。お会いできるのを心待ちにしておりました」


 二人になったココノの片方がルークを振り返り、スカートの裾をつまんでお辞儀をした。


 見た目はまるで変わらない。しかしその少女が“召喚された側のココノ”であることは、ルークにも容易に判断することができた。


「お、おう。久しぶりだな、ココ」

「はい。お兄さんもお変わりがないようで」


 “ココ”と呼ばれた少女は恭しくも、愛嬌たっぷりに微笑んだ。


「こらぁ、ココっ! お兄ちゃんに喋りかけてる場合じゃないっての! いま大変な状況なんだからね!」


 構えるココノ――召喚した側のココノが、後ろを向くココを叱り飛ばした。


「ふぅ。せっかくお兄さんとお話できる機会なのに……いつも修羅場ばっか」

「じゃなきゃ呼ばないでしょ! ほら、来るよ」


 木々の折れる音がひときわ大きくなり、敵の接近を告げる。


 そして一瞬の静寂を挟んだかと思うと。


 闇の向こうから、巨大なサソリの魔獣が顔を覗かせた。


 真っ赤な甲殻。巨大な鋏。尾の先端に突き出た針。すべての特徴が騎士団の報告と一致していた。


「これが“蠍”ね。村の騎士団を壊滅させた」


 冷めた光を宿すココの瞳が、蠍の全貌を眺めた。


「言っておくけど、倒すのが目的じゃないからね」


 ココノの忠告に「念を押されるまでもないわ」とココが敵に視線を釘づけたまま応じた。


「わたしはココノと全部を共有してる。能力も。記憶も。思いも」

「だったらわたしがどうしたいか、ココはわかってくれてるよね」

「当然。あなたは、わたしなのだから。――行きましょ」


 二人が強く地面を蹴った。残像だけを残し、刃の届く範囲へと潜り込む。


 因縁の対決が始まった。――だが。


 始まったその瞬間にはもう、四本の刃が蠍の頭部を捉えていた。


 回避することも防御することもできないまま、蠍は少女たちの攻撃を許していた。


 反応が鈍かったわけでは、決してない。蠍は騎士団を圧倒した魔獣だ。愚鈍なはずなどあるわけがない。


 しかしそんな蠍をしても、ココノとココの攻撃は速く、そして鋭すぎた。急所を突かれるその瞬間まで接近に気付くことさえできなかった。


 頭部に振り下ろされた必殺の一撃。――相手が蠍でさえなかったならば、戦いは決着していたことだろう。


 ナイフの先端が触れた瞬間。キィン、と甲高い音が鳴り響いた。まるで金属と金属がぶつかり合ったかのような響き。鋼鉄を突いたかのような手ごたえだった。


「――硬い」


 蠍の頑強さは村の騎士団の報告で知っていた。しかし刃の切っ先すら刺さらないというのは、さすがに予想以上だったのだろう。ココノの表情が驚きに染まった。


 そんな彼女の背後には蠍の尾が振り下ろされていた。なまじ攻撃を当てたことが敵を刺激してしまったらしい。


「ココノ……っ!!」


 ルークが声を上げたとき、蠍の針はココノの背中まで数センチの距離にまで迫っていた。ココノは蠍に背を向けたままだ。「終わった」カレットが呟いた。


「戦っているのが、あの子でさえなかったならば」


 発言と同時。ココノは身体を大きく反転させ、ナイフを振るっていた。回転斬り。斬撃に遠心力を付加し、威力を上乗せする剣技だ。騎士でさえ数名も使いこなせていない大技をココノは反射だけで繰り出した。刀身を甲殻にぶつけた反動により、少女の身体が宙へ舞う。


「弾いたよ。狙って、ココ」


 独り言みたいにココノは呟いた。誰に聞こえるはずもない微かな囁きだった。


 しかしココには通じていた。以心伝心などというレベルではない。なぜなら二人は同一の人物。互いの思惑は手に取るように解る。


 “ここしかない”そんな絶妙のタイミングでココはナイフを振りかぶっていた。


 狙うはココノに弾かれてしなった尾。鎧と鎧のわずかな隙間――むき出しになった関節。


「もらうね。この可愛くないしっぽ」


 ナイフの残像がVの字を描く。削ぎ落とされた肉片が宙を舞った。


 ――耳をつんざくような絶叫が響いた。鉄壁を誇る蠍の身体に初めてダメージが入ったのだ。


「っし!」少し離れた場所から見守るルークは拳を握った。しかしカレットは相変わらず難しい顔。


「安心するには早い」


 喜びいさむルークに注意を促した。


「魔獣は……いや、どんな生き物だって同じだろう。追い込んでからがいちばん怖い」


 怖い。その言葉に、ルークははっとした。思い浮かべたのは王の騎士団との交流試合。終始、攻撃の手を緩めなかったルークだが最後の最後で逆転負けを喫した。ルークの拳を目前にしたレスターの咆哮は今も忘れない。


 ルークが再び意識を景色へ戻すと、戦場に変化が起きていた。辺りにたちこめる紫の濃霧。それが蠍を中心に広がっている。


「口を覆うんだ、ルーク。目も大きく開いてはいけない」


 手のひらで口と鼻を覆いながらカレットは言った。


「サソリ型の魔獣が精製できる毒だ。吸うと身体を麻痺させられる」


 その言葉に慌てて口を閉じるルーク。彼らの立つ場所にも風で流されてきたらしい。紫色の霞がわずかに届いていた。


 鳴き声と共に、とめどなく毒を吐き出す蠍。身体を囲む霧はその色を濃くしていた。魔獣“蠍”の絶対防御その二、毒霧。敵の接近を牽制し、なおかつ吸った相手を弱らせる攻防一体の魔法である。


「これ、退かせたほうがいいんじゃないのか? ココノとココには遠距離からの攻撃手段はなかったはずだろう。近くで戦い続けるのは危険だ」

「……」

「姉ちゃん!」

「あれを見るんだ。ルーク」


 冷静な声に促され、ルークはココノとココを注視した。姿も霞む毒霧の中、二人は全く手を緩めることなく攻撃を続けていた。


「なんで……」


 目を剥くルークに「理屈は単純だ」と、カレットは明かした。


「あの子たちは口と瞼を塞いだまま戦っている」


 え? ってことは何か?


 ココノたちは今、呼吸をせず、目も開けずに戦ってるってことか?


「まあ距離をとった際に一息を入れたり、攻撃の直前に薄目を開けるくらいはしているのだろうが――それでも私には真似のできない戦い方だ」

「真似できないっていうか……人間わざじゃねえ」


 やりとりの最中もココノは敵の攻撃をかわし、敵の甲殻の隙間にナイフを突き立てていた。五感を縛り、呼吸を制限してなおも蠍と渡りあえる実力。


 最強の称号は過剰でも不遜でもなかった。目の当たりにして、ルークは息をのんだ。


 その視線の先ではココノがまた一つ、敵の身体に切り傷を増やしていた。足の関節を斬られた蠍の巨体が傾く。徐々にではあるが、確実にダメージは蓄積されている。


「もう少しってとこだね」


 毒の有効半径ぎりぎりの場所に距離をとり、ココノはもう一人の自分に声をかけた。


「あと足の二・三本も潰せば、蠍はここから動けなくなる。そしたらわたしたちの勝ちだよ」

「そうね。けどわたしが居られるのも、あと十数秒ってところ。次の攻撃で決めてしまいましょう。わたしたちなら、できる」


 相槌をうちながら、ココは静かに微笑んだ。自分が自分の背中を押してくれる。ココノにはそれが心強かった。


 自分の魔法が“ココ”でよかったと、心の底から思った。


 ――はじめてココを召喚したとき。ココノには、どうして自分にそんな魔法が身についたのかわからなかった。


 “召喚術”とは本来、空想上の生き物や武器を顕現させる魔法である。召喚獣が自分自身などという話は他に例がない。


 原因はたった一つ。彼女が強すぎたからだ。


 どんな魔獣もココノには太刀打ちできなかった。村の騎士でさえ、純粋な戦闘では足元にも及ばなかった。だから彼女は自分より強い生き物をイメージできなかった。


 それでもなんとか強力な生き物をイメージしたところ、自分が召喚されるという珍現象が起こった。


 落ち着いた性格だけ本人と違うのは、理想の現れだろう――カレットやノアはそんな風に見立てた。ココノもその説が正しいとずっと思っていた。


 けれど今、この修羅場において。それだけじゃなかったのでは、とココノは思う。


 孤独な強さを持って生まれた彼女が、肩を並べて戦える実力を持つ存在。カレットやルークにさえ代わりにはなれない存在。


 そんな相棒を、心のどこかで求めていたのだろうと思う。


 そんな願いを、ココが叶えてくれたんだと思う。


「――行くよ、ココっ!」


 ナイフを十字に構え、ココノは樹木の幹を蹴った。その顔は天真爛漫の笑顔だった。


 一点の曇りもない瞳。二人で挑む戦いに、敵などいないと信じた笑顔だった。


 これまでに輪をかけた鋭さで蠍を攻める二人。ルークはその戦いを食い入るように見つめていた。


 次々に傷をつけられてゆく蠍の身体。当たる様子のない敵の攻撃。


 削るどころか、倒せる。これなら。


「いけっ! ココノ!」


 ルークの声援が二人の耳まで届いたとき。ココノは右足の関節を、ココは左の鋏の関節を削ぐことに成功した。「時間ね」そこまでやってのけ、ココは樹上へ跳んだ。


「わたしはここで消えるけど、あとはココノに任せるから。油断だけは禁物よ」

「ありがと。お疲れ様、ココ」

「次はちゃんとお兄さんとべたべたできる時に呼んでよね」


 緊張感のない一言を最後に、ココの姿が霧散した。ココノが召喚を維持できる時間が過ぎたのだ。


 しかし蠍はもはや手負いの獣。ココノなら一人でも充分の状態だ。


 ここまで追い込んだなら……殺しておくのも悪くないね。そんな考えがココノの頭に過ぎった。正面では蠍が地面に伏してもがいている。止めを刺すには絶好の機会だ。


 だが――。ココノは蠍へ向かう足を止めた。


 大きく開かれた蠍の口。かすれた叫びの響く喉の奥から、音が聞こえた。液体が沸騰しているかような異音。


 なんの音かはわからなかった。しかし、何かの前触れを告げる音だというのは悟った。


 ココノの足を止めたのは、なんの根拠もない不吉な予感だった。


 思わずカレットとルークを振り返る。少し距離を置いた場所で、二人はココノを見守っていた。音に気づいている様子はない。


 一度お姉ちゃんたちのところへ――。





 考えながら、蠍へ視線を戻した。大きく開かれた口。その奥から、紫の大玉が発射される瞬間をココノは見た。


 蠍が吐いていた霧――その液体版。毒大砲。


 霧の時とは桁外れの濃度を誇る毒の塊が、凶悪な威力を携えて、至近の距離にまで迫っていた。


 どうして、すぐに退かなかったのかな。わたし。


 ココノの胸に浮かんだ感情は、焦りでも恐怖でもない。ただの後悔だった。


 彼女ならまだ、目の前の距離に攻撃が迫ってもかわすことはできた。しかし毒大砲の向かう先にはカレットとルークがいる。不意打ちで発射されたこの技を、二人が避けきれるとは思えなかった。


 受ければ自分が傷つく。しかし避ければ、姉とルークが傷つく。


 瞬間に迫られた絶望の二者択一。


 ココノが選んだのは――戦いの前となんら変わることのない決意。


 二人を守るという決意の方だった。


「ごめんね。みんな」


 小さな呟きが漏れた。そして二本のナイフに魔力を満たし、ココノは毒大砲を正面から両断した。その太刀筋に一筋の迷いも恐れもなかった。


 斬撃によって液体が四散する。大きく逸れた軌道はカレットとルークを捉えることはなかった。だが。


 斬撃の瞬間。ナイフが毒液に触れた瞬間に飛び散った毒の飛沫。


 一振りに全ての集中力を傾けたココノは、回避しきることができなかった。紫の毒液がココノの白い腕を濡らし――玉のようなその肌を、溶かしていた。


 敵が不意打ちの一撃を放った。それをココノが迎えうった。そんな状況を離れた二人が把握できたのは、ココノの右手からナイフが落ちてからのことだった。


「――ココノを敵から引き離す。すぐに」


 カレットが言葉を発するまえに、ルークはもうココノへ駆け寄っていた。カレットも剣を抜くと、すぐさまルークの後を追った。


 目線の先ではいまだココノと蠍は向かい合っている。ともに満身創痍。しかし蠍の方がわずかにダメージは浅かった。


 まだ動く右の鋏を、蠍が振り上げた。ココノはそんな光景を呆然と見上げている。


 ――両手が動かない。


 毒のせいかな、力が入らない。それにこの距離じゃもう……。


 振り下ろされる瞬間。ココノは静かに瞳を閉じた。


 だが鋏は落ちてはこなかった。


「これ以上ココノに触らせるかよ」


 そんな声が、ココノの頭上から聞こえた。


 見上げた先。月光を受けて反射する蠍の鋏を、ルークが蹴り飛ばしていた。全身全霊の魔力に怒りが上乗せされた一撃。


 鋼の甲殻に、小さなひびが入った。


 そして示しをあわせたかのタイミングで、ココノと蠍の間に炎の壁が広がった。カレットの魔法。炎壁だ。


 火力自体はさほどない。しかし手負いの魔獣を怯ませるには充分の効果があったらしい。蠍がよろよろと後ずさる。


「ルーク。頼む」

「わかった姉ちゃん」


 ルークはココノを担ぐと、足に魔力を込めた。そして一目散にその場を離れる。カレットはもう一撃だけ炎を撃つと、足元に落ちたココノのナイフを拾った。


「――蠍よ。手負いのお前が相手でも、私とルークではまだ敵うまい。ここはひとまず退く。


 しかしもう一度でも、ココノに手を出そうとしてみろ。

 私は刺し違えてでも、お前を殺す」


 それだけ言い残し、カレットも戦場を後にした。――そしてココノは。


「ごめんね……お兄ちゃ……ごめんね」


 ルークに背負われながら、うわごとのように繰り返していた。

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