第18話 敬礼
気がついて最初に聞いたのは、布のはためく音だった。
視界の右側でなびくカーテン。清潔を感じさせる白木の天井。微かに薬品のにおいもした。
「俺は――」
「おはよう、ルーク。……まだ身体を起こしては駄目だぞ」
注意の声と、胸板の軋みを感じたのはほとんど同時だった。「……っ」ルークは表情を歪めてベッドに倒れた。「安静にしているんだ」優しい声が脇から聞こえた。カレットがベッドの脇の椅子に腰かけていた。
「姉ちゃん……ここは」
なにがなんだかわからずに、ルークは訊いた。記憶がぷっつりと途切れていた。自分は闘場にいたはずだった。覚えがあるのは、交流試合の最中。レスターに向かっていくシーンが最後だ。
「医療棟だ」カレットは短く答えた。言葉はそこで途切れたが、ルークは察した。知らないうちに医療棟へ運ばれていた時点で、なんとなくわかってはいた。予想が確信に変わっただけの話だった。
「負けたんだな。俺」
呟くルーク。悲しさも、悔しさもない呟きだった。ただ事実を咀嚼しているだけの響きだった。
「とても勇ましい戦いぶりだったと聞いたぞ。お姉ちゃんも見たかったな。ルークの晴れ姿」
「――姉ちゃんは大丈夫なのか。寝てなくて」
「私はもとより大きな怪我は負っていない。治療魔法を施してもらって、三十分ほどで動けるようになった。今は痛みもほとんど消えている。
しかしルークはそういうわけにもいかない。傷の八割は魔法で治すことができたが、完治にはひと月ほどかかるそうだ」
ひと月か。なげーな。傷が大きかったショックよりも、退屈しそうだという思いの方がルークには強かった。
「しばらくは脱走も控えてもらわねばな。見舞いに来たロイドとフランチェスカもそれだけを心配していたぞ」
「ロイとフランは?」
「ん? ああ。ロイドたちなら先に」
そこまで言って、はっとしたようにカレットは口をつぐんだ。頭はいいのに隠し事は苦手なカレットがよくやる失敗だった。
「先に……? 姉ちゃん。俺、どのくらい寝ていた。王の騎士団は今どうしてる」
ルークは明らかな不安の表情を浮かべた。そして探るような眼。カレットは思わず目をそらした。だが嘘の苦手な彼女と、付き合いの長いルーク。ごまかしは通用しない。
「まさかもう帰っちゃったのか……!? 俺が寝ている間に!」
どれだけ寝ていたのかはわからない。だが窓から見える太陽の位置は、記憶にある中とさほど違いはなかった。一瞬、ほっとしたが、すぐにルークの顔は青ざめた。もしかしたら一日以上寝ていたのではないか。そんな可能性に思い至って。
「――交流試合が終わってから、ほぼ一日が経つ」
観念したように、カレットはルークに向き直って口を開いた。
「試合のあと、シャロン隊長はルークの治療のため、村の出立を一日だけ遅らせることを決めた。出立は正午。まだ間に合うかもしれない」
しかし。と、カレットは続ける。
「ルークはまだ寝ていなければだめだ。命に別条はないとはいっても、決して軽い怪我ではないんだ。ルークがどれだけ王の騎士団に憧れを抱いているかは知っている。見送りに行きたい気持ちもわかる。でも今は、今だけは安静にしてなきゃだめなんだ」
「ごめん姉ちゃん」
懇願するようなカレットに、ルークは少しだけ怯んだ表情をした。だが言葉はきっぱりとしていた。
「姉ちゃんが心配してくれるのは嬉しいよ。でも俺も今だけは、行かなきゃだめだって思うんだ。伝えたいことがあるんだ」
「ルーク!」
「その後は治るまで大人しくする。約束するから。……っ!」
起き上がろうとして、胸を抑えるルーク。カレットは目を潤ませながら、よろめくルークの身体を支えた。少年の身体は、また起き上がろうと力を込めていた。
「わかった……わかったからもうやめてくれ」
止めても無駄だ。ルークはきっと身体を引きずってでも、あと一目、王の騎士団に会いに行こうとする。その覚悟がカレットにも伝わった。
言葉による静止は逆効果でしかない。ルークの無理が長引くだけだ。そんな判断のもとで、カレットは折れた。
「ただし私も一緒に行く。私が支えるから、ルークは絶対に無理をしないでほしい。それだけはお願いだ」
「でも姉ちゃんだってまだ」
「私はルークのわがままを聞く。お姉ちゃんだから聞く。でも、ルークもお姉ちゃんのわがままを聞いてくれ」
「――わかったよ。姉ちゃん。……世話かけてごめん」
心からの懇願に、今度はルークが折れた。「世話を焼くのもお姉ちゃんの役目だろう」カレットは少しだけ嬉しそうに、しかしほとんどは心配そうに答えた。
カレットの肩を借りて治療室を出る。
間に合ってくれ。ルークは歯を食いしばりながら顔を上げた。
「ほどなく準備が整います。レスター副隊長」
村の外れより伸びる北の出入り道。そのすぐ手前で、王の騎士団は集っていた。部下の報告を受け「ご苦労」レスターは返事をして、発条時計を見た。
出立まで残り10分。交流試合で医療棟送りになった少年が目覚めたという報告はまだ、ない。
「昨日今日での回復は、さすがに難しいだろう」
落ち着かない様子のレスターに、シャロンは声をかけた。
「しかし重大な傷が残らない程度には治せたと、医療班の連絡を受けている。
騎士と騎士の対決だ。村も本人も納得の上で試合に臨んだ。あまりひきずってはいけない。大人げなかったのは、反省すべきだがな」
それでも待つか? 視線だけの問いかけに、レスターは無言の肯定を返した。シャロンは小さくため息を吐くと、「わかった」と頷いた。
「では少しばかり余分の時間ができてしまうな。戯れにはちょうどいい」
シャロンはレスターの傍を離れると、見送りに集まった村人たちの方へ足を運んだ。彼女の見据える先には、クライヴに連れ添われたココノの姿があった。
怪訝な顔をするココノ。目が合うとシャロンは仁王立ちで立ち止まり、微笑んだ。
「少しだけ時間ができた。せっかくだ。流れてしまった試合を、ここでやろうじゃないか。ココノ=リヴェール」
悠然とした言葉とは裏腹に、シャロンの表情は真剣味を帯びていた。
「昨日の五人も、それぞれ先を感じさせる資質の持ち主だった。だが君への興味は格別だったのだよ。楽しみの半分は君との手合せであったと言ってもいい」
ココノの情報は、リストの文面でしか知らされていないはずだった。だがシャロンは試合が始まるその前から、六人の中で最も幼い少女に関心の大半を注いでいた。
「――見ただけでわかるんだ」
「見ただけで十分だったよ。村の代表の中では、君だけが桁外れに強い。ヘッドハント部隊のリーダーを甘く見てはいけない」
値踏みするように、シャロンはココノの全身を上から下まで観察した。
腰に帯びた二本のナイフ。ルークが倒れたことに激高し、それを彼女が掴んだ時は心が躍った。
試合で全力が見られるならよし。暴走して、自分が止めに入る流れになるならなお良し。止めに入ったクライヴをシャロンは称賛したが、実はほんの少しの皮肉も含まれてはいたのだ。
そのくらいに、シャロンはココノを買っていた。
「でもわたし、失格になったよ?」
「そんなの気にする必要はない。隊長の私がいいと言うのだ。誰も文句は」
「駄目です。シャロン隊長」
なっ! 絶妙なタイミングで話の腰を折られたシャロンが裏返った声をあげた。
「レスター……! お前はショックのあまり、私を見張る余裕などなかったはずでは!?」
「それとこれとは話が別です」
呆れた顔でレスターは応じた。
「目を離すとすぐにこれですから……。いいですか。副隊長が落ち込もうが何だろうが、隊長が代理で交戦することは軍規により認められておりません」
「あ、あいかわらず頭が固いぞレスター! いいじゃないか。ちょっとくらい。私だって遊びたいのに。だいたいお前は口うるさいのだ! 昔っから! そんなんじゃ嫁さんに逃げられるぞ。っていうか逃げられろ!」
「何とでも」
それから先も、シャロンは子供さながらの悪口を並べていた。だがレスターは右から左へと聞き流していた。そんなやりとりが可笑しくて、思わずココノは顔を綻ばせてしまった。
「大丈夫だよ。隊長さんたち」
割って入った言葉に、部隊のトップ二人は(というかシャロンが一方的にまくしたてていただけなのだが)口げんかを止めた。
「わたしなら、いつか必ず王国に行くよ。そしたら続きでもなんでもしようよ。お兄ちゃんとお姉ちゃんが負けちゃった今、わたしだけ合格しても意味ないし」
む、勝つ気でいるな。私は強いのだぞ! シャロンは言い返そうとしたが、隣でレスターがめっちゃ睨んでいるのでやめた。
あんまり隊長らしくない振る舞いが続くと派手に叱られる恐れがあった。子供のころより植えつけられたトラウマ。躾ともいう。
「わたし決めてるから」シャロンの不満顔など意にも介さぬ調子で、ココノは言葉を継いだ。
「いつか外の世界へ出るときは、三人で一緒にって。だから今はまだ、いいの」
芯の通った宣言に、シャロンは大きなため息。「そうか。では、無理にとは言うまい」威厳たっぷりの言葉を、思い切り残念そうな顔で口にした。
「ごめんね」
ココノはばつが悪そうにはにかんだ。告白してくる同級生を振るときのそれと同じ顔だった。
「シャロン隊長。そろそろ」
騎士の一人がやってきて、耳打ちするように言った。「わかった」シャロンは手のひらを振って合図をした。
「それでは、私たちは次の村へ往く。世話になったな」
挨拶を交わすと、シャロンとレスターはそれぞれの馬に跨った。そして隊列を完成させる。それを見計らって、馬に指示を出す魔獣遣いの一人が鞭を振り上げた。
「――待ってくださいっ!!」
レスターの耳に、叫びが届いたのはそんなときだった。
「静止!」レスターの声で、鞭の動きが止められる。そして視線は再び村の側へと向けられた。
カレットに肩を預けるルークが、そこに立っていた。
「うぉぉ……胸がいてえ……!」
「あんな声で叫べばそうなる。だから言っただろう」
二人がそんなやりとりを交わしているうちに、レスターは馬を降りてルークのもとへと駆け寄った。
「もういいのか。身体は」
息も荒く訊いたレスターに、ルークは笑顔を作った。
「大丈夫です。少し胸が痛いくらいで」
大嘘だった。本当は痛くて仕方がなかった。そんな方便に誤魔化されるレスターではない。「すまなかった」レスターは自分が痛んでいるかのような顔で詫びた。
「親善が名目の交流試合であのような失態を犯すとは、一生の不覚。君のような少年に重い傷を負わせてしまった。どう償っていいか」
「――! あ、謝らないでください!」
ルークは戸惑うような、あるいは恐縮するような言葉を返した。
「俺はお礼を言いにきたんです。俺みたいな未熟者に、力を尽くしてくださりありがとうございました。王の騎士に挨拶もせず闘場を後にしてしまって……それが気がかりで」
「いや、そんな事を気にする必要はないが」
想定外の態度に、今度はレスターが視線を泳がせた。
「だが失望しただろう。冷静を失った私に」
「――!? 失望なんてとんでもない! むしろ感動したくらいです。王の騎士はやっぱり強かったんだって!」
ルークはその輝いた瞳で、レスターの目を見た。
「思い描いていた通りの……いえ、それ以上の実力でした。失望なんてもってのほかです。手合せの機会をいただき、感謝の言葉が見つかりません」
思い浮かぶ敬語を最大限、なんとか使おうとしながらルークは喋った。誤解だけはされたくなかった。王の騎士が沈む顔だけは見たくなかった。
ルークが幼いころより抱いた憧れは、何ら変わるものではなかったからだ。
「夢のような時間を、ありがとうございました」
カレットの肩を離れ、ルークは直立不動の姿勢をとる。そして怪我人とは思えない、しゃんとした敬礼をレスターに示した。
「俺はこれからも腕を磨き続けます。もっともっと強くなって、いつか必ずや王宮の門を叩かせていただきます。
その時はもう一度、俺と剣を交わしていただけないでしょうか! レスター副隊長殿ッッ!!」
腹の底から。あるいは全身からひねり出したかのような、力強い叫びだった。
それは紛いもない、騎士に足る者の叫びだった。
「待っている」全身に走った身震いを抑えて、レスターは敬礼を返した。
「われわれ王の騎士団は、より成長した君の入団を心待ちにしている」
「――。ほ、本当、ですか」
「騎士たる者、交わした約束を破ることはない」
そして差し出される手。ルークはごしごしと手のひらを服で拭って、レスターの手を握り返した。
レスターに比べればまだまだ小さな、か弱い手だった。しかし、いつか強くなる手だと思った。
しんとした静寂の中、二人を見守る騎士たち。そして群衆。シャロンは微笑むと、静かに敬礼をした。それに続くようにして、王の騎士団に所属する全ての騎士たちが。そして村の騎士たちが、それぞれ敬礼をした。
そして少年は大きな出会いの時を経て、別れの時を迎える。
彼にとって英雄たる騎士たちの姿が小さくなる。ルークはいつまでも、リヴェール姉妹とともにその背中を見送っていた。
いつか自分たちが目指すはずの道。
その道を三人で歩いてゆく未来を、彼らは信じて疑わなかった。
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