第8話 おっぱいのはなしかよ

 ロイドの案内した先では、ルークとフランチェスカが草陰で身をかがめていた。視線の先には蝉が止まっている。無鳴蝉。鳴き声も羽音もない、非常に存在感の薄い虫だ。


「あいつを狙う。フランはスカイローゼと樹上へ」

「了解よ。ルーク」


 フォーメーションの確認を済ませて息を殺す。十秒ほどして、ルークの脇に小石が落とされた。準備ができた合図だ。


 ルークは網を構えると、標的にめがけて跳躍した。虫の方も魔力が空っぽのルークを感知するのは難しい。このまま捕獲の可能性もないわけではなかった。


 しかしルークも魔法なしではどうしても速さに欠ける。寸前で気配を感じたのだろう。蝉は網のかかる寸前に枝を飛び去った。


「今よ! スカイローゼ!」


 蝉の飛ぶ軌道へ、狙い澄ましたかのようにスカイローゼが突進した。完全なる死角からの襲撃。獲物は羽をばたつかせながら、スカイローゼの嘴に挟まれていた。


「今の作戦も、ルークが?」

「はい。おそらくルークのアイディアだと思います。なんであんな作戦が立てられるんでしょう」


 ロイドの問いに、カレットは「なるほど」と口許へ手を当てた。ルークの高いパフォーマンスに心当たりがあるようだった。


「経験に育まれた力だろうな。あれは」


「経験?」ロイドは怪訝な顔で問い返した。幼いころからの付き合いだが、ルークが虫捕りにはまっていた過去など覚えがない。


「虫捕りではなく、森を歩く経験というものだ」


 カレットが補足する。それでやっと、ロイドはカレットの言わんとしていることがわかった。


「物心ついたころから今まで、ルークが領域の外へ出たのは47回。うち30回以上は木々の生い茂るエリアの進行を経験している。それも極限の集中力を保った状態で、だ。


 ルークは生来の方向音痴ゆえに、私たちから逃げ切る事こそ成功してはいない。けれどその過程で――どんな場所にどんな魔獣がいて、どのような動きをするのか。わかるようになったのかもしれないな」


 分析は的を射ているとロイドは思った。この村でルークほど外に出た経験の豊富な子供はいない。


「――いやでも、待ってください。毎回すぐ連れ戻されてるじゃないですか、あいつ。昨日も15分で捕まったって」

「15分か」


 急にしみじみとした口調になって、カレットは繰り返した。


「私とココノからそれだけの時間を逃げられる子供が、この村に何人いると思う?」

「……」

「うかうかしていられないな。私も」


 その呟きはどこか寂しそうでもあり、嬉しそうでもあった。




「やったわね! スカイローゼ!」


 樹上から聞こえたはしゃぎ声に、カレットはロイドとともに顔を上げた。


「素晴らしい活躍よ! やっぱりあなたはやればできる子なのよ。私と同じで! ああもう、愛おしい。さあ、戻っていらっしゃい」


 そう言って、フランチェスカは両手を広げた。木の上なのに。必然、身体を支えていた片手が幹から離れることになる。


「戻って……と、ととととと……っ!」


 両手をばたつかせて背中をのけぞらせる少女。


 ――あ。


 と、ロイドが思った時には、フランチェスカの姿は樹上から消えていた。調子に乗っていて落下したのだ。詰めの甘い娘だった。


「フランチェスカ!」


 驚いている間もなく、カレットは草むらをかき分けた。

 そこで見たのは――しりもちをつく少女と、抱きかかえるルークの姿だった。


「怪我は?」


 フランチェスカに視線を合わせ、ルークは短く訊いた。「だ、大丈夫」上ずった声ではありながらも応じたフランチェスカに「よかった」とルークは微笑んで返した。


「少し休憩にしよう。スカイローゼに指示を出しながら動くのも疲れるだろうから」

「あ、ありがとう。ルーク」

「気にしなくていい」

「うん――」


 熱を帯びた瞳がルークを見上げる。前髪の向こうの瞳が、フランチェスカにはいつもより優しく見えた。


「――こほん。いつまでひっついているのだ? ルーク」


 咳払いが少女と少年の間に割って入った。名前を呼ばれ、反射的に身体を離すルーク。「あ……」フランチェスカがそんな声を漏らしたが、彼の耳には届かなかった。


「無事でよかった。フランチェスカ」

「は、はい先生。ご心配をおかけしました」

「足場の悪いところでは注意を払うようにな。ロイド。少しの間、フランチェスカを休める場所へ」


「はい」カレットの呼ぶ声を受けて、ロイドはフランチェスカの手を引いた。フランチェスカは穏やかに会釈をしてロイドについて行った。


 そんな光景をルークも胸を撫で下ろしながら見ていた。よかった。いつもの優しいカレット先生だ。一瞬、棘のある声を聞いたのは気のせいだったのだろう。気のせいだったに違いない……。


「ルーク。ちょっと話が」


 言い聞かせる少年にお呼び出しがかかったのは、そんなタイミングだった。


「まずは、よくやったな。ルークの活躍でフランチェスカは怪我をせずにすんだ」

「いえチームなんですから当然のことですそれじゃあ俺はこれで」

「まあ待て」


 背後から肩を掴まれ、少年の動きが止まった。


「同級生の女の子を助けたのは素晴らしい。その、なんだ……かっこよかった。

 でもその後のひっついてる時間が、お姉ちゃんはちょっと長かったかなって思うんだ」

「――」


「それでルークは……よもやとは思うが、その、やましいことなど考えてはいなかったかと心配になったのだ」

「――」


「る、ルークはそういうところがしっかりした男だってお姉ちゃんは信じている。本当だぞ? でもルークも年頃ではあるし……その、なんだ。フランチェスカは体つきも女性らしいというか……」

「――」


「その……おっぱいが大き」

「またおっぱいの話かよッ!」


 ルークは思わず叫んだ。『おっぱいの話かよ』『おっぱいの話かよ』『おっぱいの話かよ』――恥ずかしい単語が山彦となって山々に響き渡る。


「わ……な、なんという言葉を叫ぶのだルーク……! って、え? また!? またとはなんだルーク! お前はいつもそんな話ばかりをしているのか……!?」


 ちげーよ、ココノだよ、姉ちゃんの妹だよ! と、言い返そうとするが、肩をぐらんぐらん揺らされて声にならなかった。


 うぉぉ……世界が歪む。ルークは目を回しながらカレットの詰問に耐えることしかできなかった。




 一方その頃のフランチェスカたちは。


『おっぱいのはなしかよ』

「――! 忘れなさいスカイローゼ! その破廉恥な言葉をッ!」

『おっぱいのはなしかよ』

「できないの? できないのね! だったら私が記憶ごとッ!」

「お、落ち着くんだフラン!」


 なんだか色々と大変そうだった。

 そんなこんなで、ルークたちの実践試験は終了の時刻を迎えた。

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