第2話 はい、あーん

 雫の落ちる音で少年は目を覚ました。


 自分の家――じゃない。考えるまでもなくそれはわかった。土の壁がむき出しの殺風景な部屋。ところどころに見られる雨漏り。無造作に並べられた木箱。松明(たいまつ)に灯された明り。


 倉庫のような内装をしていた。それも地下。地下倉庫。壁には窓がなかった。外からかすかな物音も聞こえない。


 どうしてそんな場所で自分が寝かされているのか。簡単だ。

 リヴェール姉妹との追いかけっこに、また負けた。そして捕まったのだ。


「47敗1引き分け……! くっそ! またやられた」

「気がついたのか? ルーク」


 少年の独り言に相槌をうつ者がいた。丸太の柵を隔てた向こう側。長いブロンドの髪をリボンで束ねた少女が立っていた。追撃者の一人。姉の方。


 カレット=リヴェールはほっとしたように顔を綻ばせた。


「よかった、少し心配していたんだ。ずいぶんと長く眠っていたから」

「眠っていたっていうよりは、気を失ってたんだけどね」

「動けそうか? 食事を持ってきたんだ」


 カレットは膝を下ろし、手にしたプレートを置いた。皿には木の実のサラダとパンに、少々の果物。林檎は兎の形にカットされていた。シチューには芋と野菜がふんだんに入っている。


 捕虜に与えられる食事としてはおよそ相応しくない豪華さだった。なんというか愛情がこもっている。


「食事……姉ちゃんが作ってくれたんだ」

「ああ。遠慮しないで、たくさん食べてくれ」

「ありがとう。すげえうまそう」


 柵の隙間からプレートを入れてもらい、木のスプーンを手に取る。しかし握れなかった。力がうまく入らない。からら、とスプーンが音を立てて落ちた。


「まだ調子が戻らないのだな。無理もないが」

「うん。いてて……ココノのやつ、思いきりやりやがって」

「あれでも加減をしたと言っていたぞ」

「あれで!?」


 追いつめられたときの情景がルークの脳裏に浮かぶ。自分の胸に跨り、笑顔でナイフを振りかぶるツインテール少女の姿がよみがった。思い出すだけで鳥肌が立った。夢に出そうだ。


『おやすみお兄ちゃん♪』と言われた瞬間は永眠させられると思ったもんな。


 でも……ルークは首筋に手を当てた。刃の当たった箇所に傷らしい傷がなかった。ナイフを振り下ろす直前、ココノは魔力で刃の側部をガードしたのだろう。


「まあ、努力のあとはみられるよ」

「わかってくれたか」


 カレットはなぜか、自分がほっとしたように息をついた。


「それより、手に力が入らないのか」

「そう、みたいだ。一時的な麻痺だと思うけど」


「そ、それじゃあだな」カレットはスプーンを布で拭うと、スープをひとさじすくって、ルークの口元に差し出した。


「わ、私が食べさせてやるからな。ほら、ルーク。あーん……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ姉ちゃん」


 たじろぎながらルークは後ずさった。彼は今年で14。思春期真っ盛りの少年に、お姉ちゃんの「あーん」はあまりに気恥ずかしかった。


「どうして恥ずかしがる。昔はよくやっていたじゃないか」

「それ何年も昔のことだろ! もう子供じゃないんだぞ」

「私は15の誕生日を迎えた。もう成人だ。けれどルーク。お前はまだ子供じゃないか」

「で、でもさ」

「食べてくれないのか……? お姉ちゃん、一生懸命作ったんだ」


 カレットの端正な顔が、ほのかに哀しみの色を帯びた。凛と振る舞う彼女が、外では決して見せることのない顔だ。


「わ、わかった。食べる。食べるから」

「本当か? 私の料理、嫌じゃないか?」


 料理の内容がどうのは問題ではないのだが。つっこみを我慢してルークは口を開けた。カレットはぱあ、っと表情を明るくさせた。そして息を吹きかけると、再びスプーンを口元へ。


 スプーンの先端を咥えるルーク。ミルクのまろやかさと野菜の甘みが口に広がった。


「どうだ? おいしいか?」

「うん。すげえうまい」


「よかった!」顔を綻ばせるカレット。一生懸命作ったというのは方便じゃないようだった。


 恋人同士みたいなやり取りだなぁ。こんな場所じゃなければ、だけど。咀嚼しながらルークは柵の向こうのカレットを見つめた。


「本当はそっちに行って食べさせてやりたいんだがな。すまない。捕虜が目を覚ましたら牢に入ってはならないと、お爺様に――長老に言われているんだ」

「充分だよ。気を遣わせてごめん」


 言いながら、身体を包む毛布もすごくふかふかであることにルークは気がついた。温かいし柔らかい。ほんのりいい匂いもした。女の子の匂い。


 至れり尽くせりなのは食事だけではなかった。毛布も、カレットがわざわざ自分のものを持ってきてくれた。そんなことに気がついて、申し訳ない気持ちになった。


「また迷惑かけたね」

「ルークがそう謝るのも、これで47度目だ」


 本当に学習しないな。と、カレットは呆れ顔。それでも声は優しかった。出来の悪い生徒を諭すような響きだった。


「だが危ないことは本当に控えてほしい。ルークが逃げ込んだ森はまだ危険の少ない森だ。魔獣のレベルもそう高くない。けれど強力なやつが迷い込むことだって、ないわけじゃないんだ」

「うん」

「ルークが外の世界に憧れているのは知っている。だがまだ14なんだ。成人になるまでは、許可なく村の外に出てはいけない掟はルークも知っているな。私だって、15の誕生日を迎えるまでは修業ばかりの毎日だった」

「でも、ココノだって子供じゃないか」


 最初は殊勝に頷いたルークだったが、つい不満がましい言葉が口をついた。「それに答えるのも何度目かな」カレットが嘆息しながら口を開く。


「ココノは特別だ。あの子が他の子と違うのは、ルークにだってわかるだろう」

「……」


 ぐうの音も出なかった。現に彼はココノに手も足も出せないまま捕まったのだ。ルークとてそこそこ腕は立つ。身体能力だけなら同じ年代の中でもトップの部類だ。


 それでもココノの実力は次元が違った。村の騎士(兵士)と比べても遜色のない力を持っている。


 十年に一度現れるかどうかの逸材。大人たちがそう話すのを、ルークも耳にしたことがあった。


「とにかく、もう危ないまねはしないと約束してほしい。約束できたなら、朝には出していいと長老もおっしゃっている。明日は大切な試験もあることだし」

「――わかったよ。約束する」


 46回も破られた約束の言葉を、ルークは繰り返した。意地を張ればその分カレットに面倒をかける。約束するその瞬間は、いつも心から約束をしているつもりだった。


 それでもルークは繰り返すのだが。ときどき抑えられなくなる、衝動によって。


 どうしてそんな衝動が芽生えるのかはルーク自身もわかっていなかった。病気みたいなものだろう。そんな風に、本人も周りも認めつつあった。


「そうか。約束してくれるか! よかった。長老にも伝えておくからな」


 何回騙されたかわからないにもかかわらず、カレットは嬉しそうだった。


「――まだ食事はたくさん残っているぞ。最後まで食べさせてあげるからな。口、開けて」

「うん」

「お兄ちゃーん! 起きたー?」


 階段を駆け下りる音と一緒に、少女の呼び声が地下へと届いた。


「! ココノ!?」


 カレットは思わずスプーンをルークの口に押し込んだ。熱々のジャガイモがごろっと載ったスプーンを。


「うぁ熱ッ!」

「あ! す、すまないルーク!」


 カレットが湿らせた布をルークの口に当てる。彼女の妹、ココノ=リヴェールが二人の前に姿を見せたのはそんな時機だった。


「起きてそうそう、なんだか賑やかだね。お兄ちゃん、元気~?」

「ふぁあふぇんひふぁ(ああ元気だ)」

「なに言ってるかぜんぜんわかんなーい。あ、遠いからかな? ちょっとそっち行くね」


 無理のある建前をブチ立てて、ココノは階段の脇にかかる鍵を手に取った。「だ、だめだぞココノ!」姉の静止も空しく柵の扉が開け放たれる。


 牢に足を踏み入れるや否や。ココノは口の火傷にあえぐルークにダイブした。


「おはよう、お兄ちゃん。よかったぁ。ちゃんと目が覚めて。わたし頑張ったんだよ? 手加減するの。お兄ちゃんの首がとばないようにって」

「ああ。たふかったよ。ココノ」

「えへへー。褒めて褒めて」


 ココノは柔らかい頬を少年の胸にこすりつけて、目を細めた。そんなひと時に


「こ、こらぁっ!」


 顔を上気させたカレットの叫びが飛び込んできた。


「ココノ! 牢に入ってはいけないと長老に言われているだろう!」


 私だって我慢をしているのに……と続いた呟きは小さく、ルークの耳まで届かなかった。だがココノの耳はきっちり音を拾ったらしい。


「お姉ちゃんは真面目だねー。見られなければ、セーフセーフ」

「それにむやみに、だ、男性に抱きつくんじゃない! お前も婚姻が結べる歳になったんだろう。少しは恥じらいというものをだな……。お爺様が見たらなんとおっしゃるか!」

「それも見つからなきゃセーフ。だよ? お姉ちゃん」


 意にも解さない風に、ココノは答えた。本当に似てねーなこの姉妹。見た目もそうだが性格も。百回くらいは思ったことだが、改めてルークはそう思った。


「……! だったら私もそっちにだな……!」

「え? 決まりを破っちゃうの? 真面目なカレットお姉ちゃんが?」

「~!! そ、そうだ。聞き分けのない妹が牢に入ったから、私は仕方なく牢に入らなければならないのだ。だから何も問題はない。そうだよな、ルーク」

「……」

「そうだよな!?」

「は、はいおっしゃる通りです」


 気圧された。そして言わされた。たじろぐルークと対照的に、満足げなカレット。そのまま立ち上がって牢の中へ。手にはスープの器とスプーンが握られたままだ。


 何だろう。嫌な予感がする……。


 不穏な流れをルークが感じ取った矢先だった。「あ、お姉ちゃんいいの持ってる」ココノのつぶらな瞳が、姉の手の器に向けられた。


「わたし、あれ一度やってみたかったんだ。『はい、あーん』っていうやつ。お兄ちゃんまだ動けないよね。動けなくしたし。わたしが食べさせてあげる!」

「ちょ、ちょっと待て!」

「はいあーん!」


 開きかかったルークの口に、スープから顔を出したばかりのニンジンとジャガイモが投入された。というよりも放り込まれた。


「うぉ熱っっぁぁぁぁあ!!!!!!!!!!」

「だ、大丈夫かルーク!」

「あはは♪ お兄ちゃんが喜んでくれたー」


 てめえの目は節穴かッ! とルークは全力で叫んだ。つもりだったが、口の痛みのせいだろう。なんだか異言語みたいな音が牢に響いた。


「え? お兄ちゃん聞こえないよ。もっと食べたいの?」


 サディスティックな微笑みを浮かべて、スープを掬うココノ。こいつわかっててやってやがる!


 そして再び――悶絶。


 そんな風に少年の夜は明けていった。

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