第27話 旅路の果てに

 何度か乗り換えて奈良に夕方着いた。世の中にこれだけ人間に溢れているのを目の当たりにすると、立ちくらみが起こりそうな旅だった。適応能力が良いのか経験が乏しいのか、それとも好奇心に目覚める年頃なのか、美咲は至って元気なのが救いだった。

 あそこの連中が茹で蛙に例えてたのを馬鹿にしたが、此の人混みの現状を見るとあながちけなせなかった。

 例えると長期の宇宙滞在者が帰還すれば、足腰の筋肉が弱って歩行もままならなかった。まさに気持ちがそんな状態から抜け切れないままの旅だ。人混みに踏みにじられてる錯覚さえ抱いて仕舞うほど心が萎えて疲れていたのだ。

 奈良は京都よりも古風な都会だ。千年と百年の違いと言ってしまえばそれまでだが。なんせお寺ばかり残って、政務を司った平城京さえ千年近く埋もれていた町なんだ。そんな歴史の片隅に埋もれてしまった町だから、誰にも気付かれずに歩ける。都会の雑踏を積んだ電車から降りた町でこんなに心が安らぐのは、生まれ故郷だけじゃないだろう。全く飾らない素顔の町だった。

 一体いつからこの町は、あたしを突き放すようになったのだろう。美咲が生まれる前まではそうじゃあなかったのに。あたしが変わったのか、それとも此の町が拒絶したのか。こうして舞い戻って来れば今はどっちでも良かった。 

まずは伯父さんの家に美咲を預けて貰えるか訪ねる事にした。伯父さん夫婦の子供達はもうみんな家を出て住む場所は有るが、雰囲気はあるのだろうか。とにかく駅に着いてから電話をすれば穏やかな声でホットした。軽い足取りで玄関を開ければ、真っ先に美咲を抱き上げて「大きくなったなあ」と伯父は妻と共に迎えてくれた。

 飯は食ったか、と聞かれて首を振った。そうかそうか、と伯父は妻に夕食の準備をさした。その間に亜紀は美咲を傍に置いて居間で伯父と対面した。

 伯父は例の投資会社の秘書が、波多野さんの事を聞きにやって来て「説明がちょっとややこしから彼とは面識がないと云っておいた」と告げられて亜紀も納得した。

 亜紀は、此の一連の流れで気になった波多野さんを、仁科さんが詮索したのだろう。

「元気にしてるそうでこれから会いに行くの」

「そうかあの時の約束をきちっと守られそうなのかそれは良かった」

 美咲は何かを察していてくれてるのか、おとなしくしてくれた。でも少し気になった。

「それでいつ逢うんだ」

「それでお願いに来たの」

 伯父は美咲の顔を一瞥した。

「そのお願いとは美咲のことだなあ」

 ええ、と亜紀は静かに頷いた。解ったと伯父も頷いた。

 そこで妻の食事の準備が出来た。伯父は立ち上がって、食卓のある台所へ二人を連れて行った。妻は早速食卓に手作りの料理を並べると食事が始まった。妻も美咲が随分と大きくなったのには驚いていた。祖母が亡くなってから、三年でこんなに大きくなるんだ。子供の成長は早い。それだけ自分たちが変わらないショックは隠せなかった。

 食事を終えると美咲は妻に預けて、亜紀と伯父の祐一は近くの喫茶『 アールエックス』に行った。

 マスターは珍しい人を連れて来たと亜紀に挨拶した。亜紀もひと言、マスターの旨い珈琲を挨拶代わりに頼んで、テーブル席に伯父と座った。

「彼を初めて紹介してくれたのも此の店だったねあれはもう五年ぐらい前か、あの時は結納を交わした相手が居た何てこれっぽっちも話さなかったなあ」

 話せなかったのか、なんせ相手にはもうお腹に子供が居たんじゃ無理もなかったか。なぜその時に行ってくれなかったか、と愚痴を溢された。

「ゴメンナサイ言い出せる状況じゃなかったのあたしが彼と恋仲になった頃にはもう相手は妊娠中だっただからどうすれば良いかあの人に任すしかなかったの」

「任される相手だから恋をしたんだろうその彼はどうだったんだ」

「待って欲しい」

 と五年待てば後は一生君と添え遂げると言ってくれた。

「どうして今すぐじゃダメだったんだ」

「だって結納までを交わして結ばれた相手と恋を天秤に掛けたくない、でも今は君が好きになった。それで相手と約束した五年後に君と暮らすと……」

「それはないだろう誰もそんなもん承知できないだろ」

 愛の真実を突き詰めれば、その場では決められない。だから彼独特の恋の駆け引きがこの五年待ってとなった。

 五年と永遠を引き換えれば、亜紀との恋がいかに深く大切かを表している。形なき愛を形にすれば、それは暮らせる月日の長さで、その愛の重みを実感して欲しい。

 二人を愛した場合、その愛に差をつければ、こうするしか方法がなかった。嶋崎には地位と名誉と財産があるが亜紀には何もない。ならば弱い立場の人を長く添えて支えるのが本当の愛だろう。嶋崎には親から受け継いだ旅館業があり、亜紀には家も親もない。

 ーーこれほどハッキリとその立場の違いに差が有る者では、均等に分かち合った愛情はどこにあるだろうか。

 ーーあたしを愛したのなら、まずはその真実を形で示して欲しい。それを満たされれば、あなたの形を変えた愛の誠実さに、あたし以前に愛した人のもとへ行くことを許します。

「成るほどそう云う約束事か」

 相手の女とは五歳の差がある。まだ若い今のあたしの歳で入れ替わるのなら、あなたの抱くあたしへの愛が偽りでないと信じましょう。愛を語るなら言葉より真実と思える掛けがいのない時間であの人は示した。

「でも結納を交わしてもまだ結婚したわけじゃあない単なる約束ごと儀式だっただろう」

「でも結納を交わしたって謂うのは単なる口約束じゃない、間に人を立てて双方が納得したものでしょう」

「それを反故ほごにするのは全うに生きた自分の証しを無にするようなもので、愛が薄れてもそこに一つの嘘も有ってはいけない。それがあの人の生き方なら愛を想い出に換えればそこに一つの偽りも存在しないでしょう」

「要するに一つの愛を完遂して終止符を打ってから次の愛を全うする。愛は一つでなけゃあならないし同時進行してもならないってことなんか」

「人に死に様が必要なように愛にも熟成度が必要なの」

「しかし真面目に考えるのも亜紀次第だが、見方に依れば屁理屈にも受け取れるだろう」

「そこまで言ってしまえばその人の何を信じればいいの」

「五年経ってもそれは変わらないのか」

「伯父さんは一度しか会ってないからでしよう」

「そうだなあ、しかし一度でも彼の人柄はおばあちゃんから聞かされて知ってるから間違いはないと思うが、わしぐらいの人生経験が長いと結構変わる者を見て来たからなあ、特に金が掛かると豹変して、何だあいつは、と失望させられた。夢を膨らますのはいいが希望は持つなと言いたい」

 期待すれば失望も大きい、中ぐらいがほどほどで傷の治りも早いが、しかし淋しいもんだねぇ、人とはなんぞえと常に心に語りかけていれば気持ちにも綻びが少ないだろう」

「そんなの淋しすぎる、傷ついてもその時は真実だと思って生きたい。たとえ人を信じ切って人に溺れてしまっても……」

 伯父さんの説教は、波多野との思い出をことごとく打ち砕き、夢を現実へと染め換えていった。

「そんなに逢いに行かせたくないんですか」

「そんな事はない何も引き留めてはいない、ただ心構えを説いて居るだけなんだ」

 人は移り気であり、双方が不変なのは稀だと云っていた。此の五年間あの人は城崎で大きな旅館の社長に納まり、家族と多くの従業員に囲まれていた。去ってあたしは祖母に美咲を預けながら、祖母が亡くなってからは美咲と二人だけで暮らしてきた。アパートの一室でたった一人を相手に奮闘しているのと、大きな屋敷で大勢の人と囲まれて過ごして居る人。伯父は余りにも取り巻く環境が違い過ぎ、それを比喩して云っているんだ。これはあくまでも例え話で、あたしの彼の話ではない。そこをハッキリと聞き間違えなければ良いんだ、と亜紀は心に言い聞かせた。


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