第26話 亜紀ここを離れる
休憩室を出る井上さんを待って、所長から部屋の居心地を聞かれた。ここに来てからずっと空いた施設の部屋をそのまま使っていた。利用者と同じ間取りだが、美咲と二人が寝るだけなら申し分なかった。
「住居が施設の中では休みの日は色々と大変だろうスッカリこの仕事に慣れたところで正社員にならないか」
と相談された。荒木所長は、ここから歩いて十五分ぐらいの所に良い空き家があるんだ。ずっと来てくれるのなら借り上げて、家をリニューアルして貰うように会社と交渉する、と切り出された。
亜紀には突然すぎて考えていなかった。美咲は遊びに出ていた。
そろそろ此処で頑張って貰うには、住む環境を整えてやろうと云う事らしい。
「いつも美咲ちゃんが行ってるおばあちゃんの家には五分ぐらいの所だ」
と亜紀の気持ちを先廻りして打診してきた。先手を打たれたかと二、三日考え直すと保留にした。
「今日は早出だから夕方には上がるなあ」
今晩はゆっくり考えろ、と荒木所長は休憩室を出た。
美咲はいつものおばあちゃんの家で、わら細工を習って帰って来た。此処で夕飯を食べ終えると、今日の仕事は終わりだ。談話室で本を読んでいた美咲を連れて部屋に戻った。
暫く美咲を眺めて亜紀は此処は楽しいか聞いた。
美咲は全身を使って表現しょうとして、最近作ったわらの帽子を凄いでしょうと持ち出してきた。子供らしい可愛く出来て感心した。
「これあたしが編んだんだよ、次はママのを作ってあげるからもう少し待ってて」
どうやらこれも、あのおばあちゃんから手ほどきを受けて、コツコツと作ったらしい。
「そのおばあちゃんの家で手芸ならぬわら細工を習ってて面白い?」
「ウン愉しい、今までお店に並ぶ品もんが草履から頭に被る物までそれが此処では思い通りに作れるんだもん」
今度は近くの竹林の持ち主から、竹を貰って竹細工も作ると言い出した。あんた幾つと亜紀は言いたげだ。
「竹細工は竹の皮を薄く削らないと美咲やそのおばあちゃんには無理よ」
と言えば。どうやらその竹林の持ち主から、竹細工用に薄く削った物を分けて貰うらしい。どうやら美咲はその竹林の持ち主からも、おばあちゃん同様に慕われているらしい。
スッカリ此処に溶け込んで仕舞ったのか、と思うとどうしょうか思案した。でも思い切って目の高さまでしゃがみ込んで口に出した。
「美咲、ママと旅行しょうか」
エッ! と美咲は驚いた。
「美咲、此処に残る?」
ちょっと不安げに見詰める美咲に。
「奈良、一度行った事あるでしょう」
どうやら少しは和らいだがまだ気になるようだ。
「おばあちゃんのとこ? でももう居ないんでしょう」
「おばあちゃんは亡くなったけど近くに伯父さんが居たでしょうそこでお利口にしてられるそれとも此処がいい?」
返事を渋った美咲を初めて見た。
「此の春までは美咲は独りでお留守番してたでしょう」
「でも夕方出掛けても夜遅くには帰って来たもん今度もそうなの」
「今度は解んないだってとっても大事な人と会うんだもん」
「美咲よりも大事な人とって……」
美咲はもう痛い所を突くような子になったのね、それは本の読み過ぎかしら。
「ママと同じぐらい」
「じゃあそのまま一緒に居ても良いでしょうママ、ダメなの?」
いきなり五歳の子か、で、あの人なんて言うだろう。今度は亜紀が返事に困り、黙り込んだ。じゃあそのまま一緒に行こうか、と云うと明るく笑う美咲に、釣られて亜紀も笑い出した。
翌日は所長から、返事代わりの休暇を貰った。気晴らしに親子で旅行するのも良いだろう。奈良へ行くと云えば、実家で考えるって事かと、所長は許可してくれた。
「よし亜紀さん駅まで送ってやろう」
「いえ歩いて行きます」
「お前はいいけど美咲ちゃんは疲れるぞー」
でもお仕事中でしょうと言うと、朝飯が済めば昼食まで誰も文句は言うまい、まあ駅までだ付き合え、と所長の車に乗せられた。背中にうさちゃんのリュックを背負って、ウキウキ気分の美咲とは裏腹に、亜紀は気難しい顔をしていた。
片手に美咲の手を引き、もう片方にはキャリーバックを引きずって、施設の玄関から所長の車まで歩く姿は、何人かの目に留まった。その都度実家に帰ると言えば、あの人の実家って何処なの、と不思議がられた。美咲だけが嬉しそうに手を振っていた。五年間の迷宮に本当に答えが出るのだろうか、と亜紀の心は引き摺られるキャリーバッグのように鈍い音を立てていた。
車は静かに施設を出た。途中から早坂の車が追随した。
車は無人駅に着いたが、列車は二時間も無かった。隣の駅まで送るよと言われて車は隣の駅に向かった。
「思えばよくもまああんな無人駅に降りたもんだねぇ、何だその集落のばあさんが降りなけゃあ亜紀さんそのまま何処へ行くつもりだったの」
「そうね不思議な縁ねぇあの駅はあたし達とあの村を結び付けてくれた」
「お陰で美咲ちゃんは一皮剥けて器用な子になって」
「おじちゃん泳ぎに行って無いから皮は剥けてないよ」
そりゃあそうだと荒木は頭を掻いて笑った。
「でも奈良には美咲ちゃんの面倒見てくれたおばあちゃんは居ないんだろう」
「祖母とは折り合いが良かった伯父が近くに居ますから」
「何だいつもの亜紀さんらしくなく今日はバカに神妙だなあ」
「バカは余計だよ、ねえママったら」
そりゃあそうだと荒木はまた笑い飛ばした。
「ところで仁科さんは出て行っちゃったねぇ」
「息子さんと
「そうですかそれは残念ですがまあ一年分前払いでそのままですから有り難いと言えば嬉しさも中ぐらいでしょうかまさかこの上亜紀さんまでっちゅうことはないでしょうね」
亜紀が困惑すると、冗談ですよ何も問題を抱えていない貴方には、と荒木はアッサリと引っ込めた。
表沙汰った問題は何もなかった。いやみんな知らないだけだ。だったらそのままそっとしておいてほしい。荒木はそんな思いを知ってか知らずか、相変わらず軽快にハンドル操作をしていた。それは此の親子は骨休めに行くんだ。なにも知らない村で半年間頑張った。この集落の人々と少なくとも、美咲ちゃんが世間に目覚めるまでの間でも良い。あの老人ホームで人生の末路を過ごす、ホスピス医のように世話を焼いてくれれば良いんだ。その美咲ちゃんは珍しそうに車窓にへばり付いて居た。
「荒木さん」
「何だ急に」
「荒木さんはどうしてあの職場を見付けたんですか」
「俺の失恋の話はしただろう」
「バイトで入って来た人と同棲してたって話ですか」
「その彼女が消えて仕事が手に付かない時にそのホテル関係の人が『どうだ少しリフレッシュしては』と紹介されたのが今の施設ですよ」
荒木、
「だからぬるま湯に浸かる蛙ですよ誰かが恋の火を付けてくれれば驚いて飛び出せるんですがね、このまま抜け出せなければ茹で蛙になっちゃいますよ」
「世話をする人からされる側になっちゃうって事ですかまだ若いのに老けた思想なんですね」
「あなたもあと何年も居ればその様になりますよ」
「じゃあ新人はともかくベテランは茹で蛙の手前なんですか」
「だからそこ迄に目を覚ましてくれる人が、よき理解者が居ればなんとか出来るでしょうね、どうですか亜紀さん」
「ハァ!?」
いやーこれはあくまでも茹で蛙の話なんですが、と荒木は彼女の返事に気落ちしたようだ。
初めて見る隣の駅は、都会暮らしの人から見れば物足りない。が半年間あの集落に居る者にすれば、見える物が全て新鮮に映った。そこには裕子さんの仕入れ先の大きなスーパーマーケットもあった。
半年間俗化されていない世界に居た亜紀は、俗世界に居るあの人の許へ、この駅から戻ろうと試みていた。
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