第25話 井上の戸惑い

 いつもは野外で描いた絵を意気揚々と持ち帰っていたが今日は違った。平面な絵画を立体的に指摘した奴が居たからだ。構図や色彩を指摘されても、この中にはドラマがあると謂われたのは初めてだった。全く想いも依らない指摘に、暫く己の心の内を今一度見詰めた。

 いつも気ままに絵を描いて居たつもりが、そうじゃあなかったんだと気付かされた。今まで描き溜めた絵を引っ張り出してみた。

 此処にどんなストーリー、物語が秘められてると言うのだ。人物なんて何処にも描かれてはない、全てが風景画ばかりだった。

 山の形や茅葺きの家の形、モルタルの家もあるのに、実際にはなかった花が随分と描き込まれている。描いた本人でさえこんな色彩の花って咲いていたのかと首を傾げたくなる花もあった。しかも一輪の大きな花の横には咲きかけた小さな可憐な花も傍にいつもあった。まるで親子の様に……。これと茅葺きの家と遠い山並みが、一体として画面に流れを作っているようにも見えなくもなかった。描いた順に辿れば、様々な人生が映し込まれている様にも想えた。なぜ今頃、絵を見る意識が変わったのか自問してみた。

 俺は此処へ来るまでは銀行員だった。窓口業務でなく資金繰りに困った人や、新しい事業に将来性を見極めて、融資する金額を決めていた。そこに多くの人の億底を見て、挫折して此処へ来た。そして絵に没頭してから、自然と変化した人生観が絵の中に映し込まれていたなんて。

 それは必ず画面の何処かには花が描いてあった。中心の場合もあれば片隅の場合も、でも鮮やかな花は、画面に占める割合が大きかった。花を女性とすれば周りの風景を辿れば一つの人生になどられた。その中でも所長はこの絵は、俺の人生だと言っていたなあ。  

 所長は、生き方が綺麗なあの女を象徴した絵だと言っていた。この絵もその鮮やかな花を除けば、周りの風景は全て存在感をなくしてしまいそうだ。生き方が綺麗な人は永遠に存在感を失わない。所長は最後にそう言って、この絵の評価を締めくくった。それがさっきの男の評価と重なり合って来た。

 あの男は子持ち女性のことをしきりに訊いていた。柳原の何が知りたいんだろう。此の限界集落は、人生の急流を避けるには良い場所だが、何を求めて踏み留まるのかが問題だろう。 


 翌朝はゆらゆらと朝日が立ち上る中を、井上は勤務時間前に出勤した。

 いつもの様に柳原は他の従業員と一緒に、賄いのおばさん連中に混ざって、盛り付けられた朝食セットを長テーブルに運んでいた。それを見てから井上は勤務前に休憩室でくつろいだ。柳原亜紀が朝食の給仕と食器を洗い終えると休憩室に入って来た。

 六帖ほどの洋室には紙コップで飲む自動販売機があった。中央には膝丈のテーブルが二つと向かい合ってソファの長椅子があった。亜紀は珈琲の紙カップを持って井上の前に座った。

「半年でスッカリこの仕事にも慣れましたね」

「ホームの人達の好みとか癖を知れば後は毎日同じ顔ぶればかりですから遣りやすいですよ、毎日誰が来るか解らない都会の店より難しくないから慣れるのも早いのね」

「それでも美咲ちゃんを育てながら働くのは大変でしょう」

 亡くなった祖母が手間の掛からないように育ててくれたから楽だそうだ。

「あたしはそうは云っても恵まれてるなんせ娘を手元に置いて身近で見られるからそれだけでも生き甲斐です、それ以上望むのは贅沢です」

 慎ましいけれど、所長が認める烈しい女でもある。何処にそれだけ耐える物を秘めているんだろう。

 美咲ちゃんはまた近所のおばあちゃんの家へ遊びに行ったようだ。彼女は此処は安心して見ていられるとも言っていた。

「あなた一人で何故そこまで苦労して育てなくても良いんじゃないの」

「あなたには関係ないでしょう」

「まあ言われてみればそうだが見ちゃあおれんのだよ」

「余計なお世話よ」

「そうだろうねえ愛の結晶がお荷物なる訳ないわなあ」

「井上さん一言多いわよあんた大恋愛したことあるの」

「そう来ましたか所長ほどではないけれどまあ火遊び程度にね」

「手を握っただけなのか」

「そんなもん勝手に解釈するな」

「そうかしらん恋には様々な想いが重なるけれど別れは独りへの憎しみしか存在しないものよ」

「憎しみだけが残るのか……」

「他には何もないのよ、あれば人は振り返るものよ」 

「じゃあ美咲ちゃんを残して行った相手はどうなんだ」

「あの人との恋は中断してもまだ続いているわよ」

 それがどうだと言わんばかりに井上を見た。

「あの人って誰だが知らないけれどそれは初耳だ。所長は驚くだろうなあ。だって美咲ちゃんを一番可愛がってたからなあ」

「あの人は子供好きなだけよ」

「柳原さんはそう割り切れても向こうはどうかなあー」

「あの人は最初の失恋を今も引き摺ってるのよ。だって今、凝ってるのが釣りでしょ。だから相手が食い付いてくれるのを待ってるものなのよ」

 思い違いに気付いた昔の彼女は、未練がましい相手にホッとしているかも知れない、とさらりと言ってのける処が井上は気に障った。

「失恋は一生その人の心に傷痕を残すんですよそう簡単に割り切れるもんじゃあないでしょう、信じる事が愛だと教え込まれた相手から裏切られたその人は偏屈に成り残りの人生を極端な人間嫌いに落ち込んだとすればこれは罪じゃあ無いんですか」

 亜紀はそれでも動揺しないどころか、惹き付ける魅力が無くなるのは恋人のせいじゃあない、と言わんばかりに気に掛けない。

「ただ待つなんてダルマさんね」

「達磨は何度転んでも起き上がる」

「でも何も変わらない人生だけど起き上がるだけでは意味が無いわよ。井上さんの絵は一度見たけどなんで山奥の過疎地にあんな見た事も無い綺麗な花が咲いているのそれはあなたの願望が強いからじゃあないの」

「別にそんな物は持ち合わせてないよただ一日一日を精一杯に生きているだけさ」

「精一杯に生きてるなんて、恋もしないで此処の連中はみんな可怪おかしい」

「柳原さんだってもう五年もそうなんだ、だってずっとシングルマザーで過ごしてるンだからきっとそうなんだ」

「そんなことないわよ」

「じゃあどうして美咲ちゃんの相手は現れないんだ此処を知らなけゃあ知らせて遣ればいいじゃん」

「あなたはそうやって絵筆を振り回していればいいけど子供を持つ親はそうは行かないものよ此処に住んでる人はこれから人生と云う苦痛を伴う人ともう苦痛から逃れられた人に見事に二分されているけれどね」

「それは柳原さんだけじゃないですか我々は趣味を持って自分で愉しんでいる」

「行き場のない人生を趣味にかこつけて自分をそこに無理やり押し込めてる、逃げ込んでるだけじゃないの」

 今日の亜紀さんは珍しく辛辣しんらつな物言いだ。

「女に振り回された人間はこれから恋を膨らまそうとするよりは俺も含めてその方が楽なんだ」

 どうして失恋談義が、そんな風に転化してしまうのか、恋愛を避けたいだけなんだ。いやひょっとしてもう五年の恋に、終止符を打ったのかも知れない。だから此処へ逃避してきたんだと、勝手な空想を膨らませた。

「亜紀さん」

「何を急に馴れ馴れしく呼ぶなんて、何なの」

「亜紀さんが俺の絵からどうしてそんな結論を導くんだ」

「だって本当に生きる喜びを味わえるのは自分の作品や趣味が充実した時より恋の成就が最高なのに、一年草が花を咲かすように綺麗な花を見付けて悲しむ人は居ないでしょう」

 成るほどそう云えば俺の絵には必ず花がある。どう云うわけか冬景色でもサザンカなのか、目立たない処に描いていた。

「でも草木の無い荒野を歩く旅人はどうやって花を見つけ出せば良いんだろう」

 心細げに言うと、彼女はハッパを掛けて来た。

「そんなことないわよ都会では甘い言葉を出せば蝶は寄ってくるわよ」

 確かにたかられるだけで困りもんだ。

「蜜だけ求めて、ハイさいならって云う奴だなあだから俺は不器用な恋が似合う人を探したい」 

「それじゃあ所長さんとは正反対なのね、あの人は激情な相手に振り回された挙げ句にそうなったのだから」

「それでも所長が亜紀さんを本命だと狙いを定めているらしいよ」

「それで美咲を懐くように仕向けているのかしら?」

「あの人は不器用だからそんな小細工はできっこないですよ。でもチャレンジー精神と云うよりただ懲りない人だから気を付けた方がいいけどね」

 そろそろ休憩時間が過ぎる頃かしら、と亜紀はテーブルの紙コップを片付けだした。その時に所長が、井上に受付の交代を告げに来たから、二人は笑いを噛み殺した。

  

   

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